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クリスマスの、異神たちの影・・葛野浩昭氏著「サンタクロースの大旅行」(2)

2016-12-25 | 古代キリスト教



冬至のゆずが店先を賑わせたのもつかの間、もうクリスマスです。。

クリスマスとは何か、サンタクロースとは誰かを考えるために、葛野浩昭氏著「サンタクロースの大旅行」のご紹介を続けさせていただきます。



リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

ここに書かれている、〝ヨーロッパの異形の神々”たち、日本人にはなじみがないですね。

でも、これがどういう感じのものなのか感じることができないと、ヨーロッパについてなにも分からないままですね。

年内いっぱい、このことにかかりきりになるかもしれません。


               *****

             (引用ここから)


「聖ニコラウス祭」に登場する異形の神々

ヨーロッパにはキリスト教の聖人にちなんだ祭りが少なくありませんが、12月6日に行われる「聖ニコラウス祭」もその一つです。

ところが、中部ヨーロッパのカトリック圏の村々で今も行われている「聖ニコラウス祭」では、子供たちの守護聖人「聖ニコラウス」のイメージにはおよそ似つかわしくないような、実におどろおどろしい〝異形の神々″が姿を現します。

オーストリア中部の祭の様子を見てみましょう。

                ・・・

(福嶋正純著「魔物たちの夜・聖ニコラウス祭の習俗」より

カトリックの地方では、その前夜、赤い祭司帽を頭にし、司教の衣装を身に着けた「聖ニコラウス」が、恐ろしい姿のお伴を連れて、子供のいる家を訪れて、子供の行状を調べて回る風習がある。

キリストの救いの技を念じる「ロザリオの祈り」を空で唱えることができた子や、行儀の良い子には、リンゴ、くるみ、クッキーなどの褒美を与えるが、

お祈りがうまく出来なかった子や、素行の悪い子には、恐ろしい姿のお伴が、肩にした袋に入れて連れて帰るそぶりを見せたり、鞭で脅して手荒に説教を加えたりする。

聖者には、恐ろしい姿をしたクランプスがお伴として付き添っている。

このお伴は、黒いもじゃもじゃの毛皮を身にまとっていて、後ろには〝悪魔のしっぽ″をつけている。

頭に2本の角、お面からは炎のような舌が突き出ている。

クランプスが姿を見せると、子供は皆、不安と恐怖にからだがこわばる。

              ・・・


他にも、麦わらで身を包んだシャープが、激しく鞭を打ち鳴らしながら姿を現します。

また、冬・死者・太陽・魔術の神であり、ゲルマンの神々の長とされる「ヴォータン」も、白馬のハリボテに跨って登場します。


サンタクロースの裏側に生きる神々

オーストリア生まれの民俗学者ヨーゼフ・クライナーは、中部ヨーロッパの年間行事が11月中旬から翌年6月中旬までの7か月に集中していること、

そしてこの行事に、はっきりと3つのサイクルが認められることを指摘しています。

第1のサイクルは、クリスマスと正月を中心として、11月から1月6日までの祭で、これには「聖ニコラウス祭」(1月6日)の他に、聖マーチン祭、聖ルチア祭が含まれます。

第2のサイクルは、3月~4月あたりの、「復活祭」を中心とするもの。

第3のサイクルは、「5月祭」や「聖霊降臨祭」を含む5月の一連の行事祭です。


そして第1のサイクルが、中部ヨーロッパの古代ゲルマン民族の正月を、

第2のサイクルが、地中海文化の古代ローマの正月を、

そして第3のサイクルは、北欧のゲルマン文化の正月を中心にしていると言います。


「聖ニコラウス祭」を含む「第1のサイクル」の性格を最も端的に現しているのが、「12夜」あるいは「荒々しい夜」と呼ばれる正月前後の12日間です。

その中でも「クリスマスイブ」にあたる12月24日、大晦日、そしてギリシア正教の正月にあたる1月6日の3つの夜が最も危険で、絶対に外を出歩いてはいけないとされています。

この「12夜」、「荒々しい夜」は、年の変わり目ですから、時間の流れに裂け目ができ、それゆえこの世とあの世との境にも裂け目ができるとされます。

そこでこの夜には、死者たちの魂が、この世を荒らしにやって来て、闇の大空を駆け巡ると信じられたわけです。

この死者の魂たちの大群の先頭に立つのが、古代ゲルマンの神々の長である「ヴォータン」(この「ヴォータン」が英語の水曜日=wednesdayの語源)です。

「ヴォータン」は、北欧神話の中で第一の神「オーディン」としても有名です。

「オーディン」は死者の国との間を行き来する神であり、魔術の神です。


また彼は、太陽や月の運行を司る神でもあります。

この年の変わり目はすでに、12月6日の「聖ニコラウス祭」の時に始まっています。

というのも「聖ニコラウス祭」には「ヴォータン」「オーディン」が姿を現しているからです。

「聖ニコラウス祭」もまた、時の流れが割けて、この世とあの世の境が割ける、年の変わり目の季節儀礼だと考えるべきでしょう。

そして「ヴォータン」達と一緒に姿を現す「聖ニコラウス」も、年の変わり目にあの世から来訪する「来訪神」だと考えなけらばなりません。


それではどうして今の「クリスマス」と「正月」を中心とした季節が、年の変わり目と考えられてきたのでしょうか?

それは、この季節が「冬至」に当たるからです。

冬へと向かって太陽の力が徐々に弱まってゆき、そして「冬至」を境に再び力を盛り返す、この太陽の死と再生のシンボリズムが「冬至」に年の変わり目を設定させたのです。



ヨーロッパでは古くから、各地でさまざまな「冬至祭」が催されてきました。

帝政時代のローマでは、「太陽神ミトラ」を祀る「冬至祭」が行われました。

ミトラは「無敵の太陽」と呼ばれ、祭は12月25日に行われました。

また、種蒔きと農耕の神であるサトゥルヌスの祭も、12月17日~24日まで、どんちゃん騒ぎとして祝われました。

このサトゥルヌスは、英語の土曜日(saturday)の語源です。


イエス・キリストの誕生日が12月25日に定められたのは、「ミトラの冬至祭」を取り入れたからです。

さらに北欧でも「冬至」を年の変わり目とする祭「ユール」があり、主神「オーディン」や雷神「トール」(=木曜日thursdayの語源)、豊穣神フレイ(=金曜日fraydayの語源)を祭りました。

今でも北欧では、「クリスマス」のことを「ユール」または「ヨウル」と呼びます。



      (引用ここまで・写真(上)はゆず、写真(下)は我が家のアドベントカレンダー)

            *****

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葛野浩昭氏著「サンタクロースの大旅行」(1)・・サンタはブタに乗ってやってきた

2016-12-22 | 古代キリスト教



クリスマスの季節がやってきました。

我が家にも、きれいなアドベントカードが届きました。

聖なる日12月25日を心待ちにする楽しみを、わたしも味わっています。

そこで、サンタクロースに関する本を探して、葛野浩昭氏著「サンタクロースの大旅行」という本を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。




           *****

         (引用ここから)



「サンタクロースって誰?」と子供に聞かれたら、

「昔々、今から1700年も前に、今のトルコあたりに住んでいたキリスト教のお坊さんで、君たち子ども達の味方として活躍した「聖ニコラウス」という人のことだよ。

この「聖ニコラウス」、つまり「セント・ニコラウス」が、なまって「サンタクロース」という名前になったってわけさ」。

と、ここまでなら答えられる人も少なくないことでしょう。


しかし、「サンタクロース」は、私達の目の前に「サンタクロース」らしい姿で立ち現われてくるまでに、大変な大旅行を潜り抜けてきています。

「サンタクロース」や「クリスマス」の謎を解くには、トルコに住んだとされる「聖ニコラウス」がどのような人物だったのか?、

そしてこの「聖ニコラウス」への信仰を受け入れ、それを変形させたヨーロッパが、いったいどのような文化や歴史をもった土地柄なのかを考えることが、出発点になるでしょう。



聖ニコラウスとブタの不気味な関係

「サンタクロース」と「トナカイ」は、今や、切っても切れない関係にあります。

ところが、古い時代のクリスマスカードを眺めていると、「トナカイ」の登場するカードが意外なほどに少ないことに気が付きます。

そして、トナカイの代わりに活躍するのは、なんとブタなのです。


ヨーロッパの中部・北部が、あたり一面うっそうとした森に覆われていた17世紀頃まで、人々はブタを、村を取り囲む森の中に放し飼いにしていました。

ブタは、秋の間にドングリを食べて肥え太りますから、人々は初冬を待って、ブタを捕らえて、料理して食べました。

そして、「サンタクロース」のモデルでもある「聖ニコラウス」を祝う12月6日=「聖ニコラウスの日」は、そのブタを屠畜して食べる季節の始まりに当たっていたのです。

ブタは、料理されて食べられることで、聖なる供物へと変身します。

ブタは、それ自体が豊かな森の恵みの象徴でしたし、またドングリ=穀物の霊が宿っているとも考えられたからです。

ヨーロッパ中部・北部の人々は、「冬の神」としても恐れていた「ヴォータン」(北欧神話の「オーディン」)や、豊穣の神「フレイ」(オーディンの孫)へとブタを捧げ、そのことで翌年の穀物の豊作を祈ってきたのです。

このように「聖ニコラウス」信仰の裏側には、異郷の神たちへの民俗信仰がありました。


「聖人ニコラウス」は、かつてミュラと呼ばれたギリシア人の町(現在のトルコのデムレ)の司教を務め、西暦271年~342年12月6日まで生きていた、と伝えられます。

死後、その遺体はミュラに葬られましたが、トルコ人によって破壊され、1087年になって、遺骨は南イタリアのバーリへと運ばれて、「聖ニコラウス教会」に納められていると伝えられます。

聖人としての「聖ニコラウス」の姿を知るための公式資料は、13世紀のドミニコ会士でありジェノバ市の大司教も務めた人が集成した、「黄金伝説」という聖人伝説集です。

聖職者がミサや修道院の食事の際に、その日が記念日である聖人や殉教者を模範とするために、その生涯を朗読したものです。

そのため、中世においては聖書以上のベストセラーでした。

この中に「聖ニコラウス」に肩を並べる者、あるいはそれ以上に紙数を割いて紹介されている者は、聖ペテロ、聖パウロなどの7使徒や大天使ミカエルなど、極めて有名な24人のみです。

また「聖ニコラウス」に捧げられた教会、すなわち「聖ニコラウス教会」の数は、2000にも及ぶと言われます。

「聖ニコラウス」は、抜群の民衆的人気を博した聖人ですが、特に船乗り、パン職人、仕立て屋、織工、肉屋、公証人、弁護士、学生、乙女・子どもの守護聖人として有名でした。

             (引用ここまで)

               *****


主婦であるわたしは、クリスマスというと、何の料理を作ろうか、と思わず考えるのですが、たしかに、肉料理がメインなのは間違いないですよね。

心の中には、クリスマスと大晦日とお正月がごちゃごちゃに連続していて、主婦は料理の食材を集めることとメニューのことで頭がいっぱいになるのです。

ローストチキン、ローストビーフ、ローストポーク、、なにをメインディッシュにするか、心弾むひと時です。

「クリスマスと言えばブタ」と聞いたからには、今年はローストポークにしてみましょうか?。。

新聞の夕刊を開くと、トナカイが絶滅の危機にあるという記事がありました。

これも気がかりな出来事です。

                 ・・・


「温暖化の影響、サンタにも? トナカイが絶滅危惧種に」
                      朝日新聞 2016・12・19


地球温暖化の影響が、サンタクロースのそりの引き手にも忍び寄っている。

気温上昇で北極圏のトナカイがエサを取れずに餓死したり、やせ細ったりしているという論文が相次いで報告された。

「国際自然保護連合」(本部・スイス)も温暖化でトナカイの生息数が減っているとして、新たに絶滅危惧種に分類した。

英国やノルウェーの研究チームは今月英国で開かれた学会で、北極圏のトナカイの体重が1994年から2010年までに12%減ったと発表した。

研究者は温暖化の影響の可能性があると指摘する。

北極圏で気温が上昇して雪が雨に変わると、冬場に草地が氷で覆われてエサが取りにくくなるからだという。

フィンランドやオーストリアなどの研究チームも11月、やはり気温上昇の影響で、トナカイが餓死の危機に陥っているとする論文を英専門誌「バイオロジー・レターズ」電子版に発表した。

2013~14年にロシアのヤマル半島では約6万頭が死んだという。

IUCNは今年公表した「レッドリスト」でトナカイを初めて絶滅危惧種に分類。

絶滅の恐れはない「軽度懸念」から、絶滅の危険が増大している「絶滅危惧2類」に引き上げた。

約21~27年間で個体数が40%減少したと推定している。

               ・・・・・

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諏訪神社の御頭祭と、イサクのいけにえ・・日ユ同祖論の検証(7)

2015-06-20 | 古代キリスト教


ひき続き、清川理一郎著「諏訪神社 謎の古代史・・隠された神々の源流」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

謎めいた諏訪神社の奇祭・御頭祭と「旧約聖書」を比較しています。


            *****


         (引用ここから)


次に、「みさくち神」をより一層理解するために

m-isaku-chi(接頭語―イサクー蛇の古語)と分解してみる。

イサクとして考えるということである。


次に挙げるのは、江戸中期の国学者で紀行家の菅江真澄が描写した江戸時代の「御頭祭」・「御神神事」の模様である。

            ・・・・・

神長(かみおさ)が篠の束の縄をほどき、それをばらばらにして、・・先のとがった柱を押し立てる。

これを御杖(おつえ)とも、御贄柱(おにえばしら)ともいう。

「御神(おこう)」と呼ばれる8才くらいの子どもが紅の着物を着て、この御柱に手を添えさせられる。

人々が、子どもを御柱ごと、力を合わせて竹のむしろの上に押し上げて置く。

そして神の子ども達を、桑の木の皮をよりあわせた縄で縛りあげる。

大紋を着た男が、藤蔓が繁っている木の下に行き、家を造った時屋根に刺した小さな刃物を8本投げる。


いよいよ祭りは最高潮となる。

諏訪の国の司から来た使者の乗った馬が、登場する。

その馬の頭をめがけて、人々は物を投げかける。

しかしこの馬はとても早く走る。

この馬を、今度は子ども達が大勢で追いかける。

その後ろから、例の御贄柱を肩に担いだ神官が「御宝だ、お宝だ」と言いながら、長い鈴のようなものを5個、錦の袋に入れて木の枝にかけ、そろりそろりと走りだす。

そして神の前庭を大きく7回まわって姿を消す。

そして長殿の前庭で、先にくわの木の皮で縛られていた子ども達が解き放たれ、祭りは終わった。

十間廊には鹿の頭が75個、まな板の上に並べられていた。

その中に、耳の裂けた鹿がいた。

その鹿は、神様が矛で獲ったものだという。

            「菅江真澄の信濃の旅」信濃教育会出版部刊


謎に満ちている。

御神(おこう)という子どもを、御贄柱とともに押し上げ、その後、子どもを立木に縄でしばりつけるのは何ゆえか。

                   (藤森照信氏筆)


            ・・・・・

「旧約聖書」との対比を試みた。

菅江真澄が描写した御頭祭の「御神生贄の神事」は、「旧約聖書・創世記」22章の記述とぴったり合致するようだ。


             ・・・・・

「創世記22章」

これらのできごとの後、神はアブラハムを試練に会わせられた。

神は仰せられた。

「あなたの子、あなたの愛している一人子イサクを連れて、「モリヤの地」に行きなさい。

そしてわたしがあなたに示す山の上で、全焼のいけにえとして、イサクをわたしに捧げなさい」。

アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎをとり、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取った。

二人は一緒に進んだ。

アブラハムは答えた。

イサク神ご自身が、全焼のいけにえの羊を供えてくださるのだ。

二人は神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。

そしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭りのたきぎの上に置いた。

アブラハムは手を伸ばし、刀をとって、自分の子を殺そうとした。

その時、主の使いが、天から彼を呼んだ。

「アブラハム、アブラハム」と仰せられた。

御使いは仰せられた。

「あなたの手をその子に下してはならない。その子になにもしてはならない。

見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいる」。

アブラハムは行って、その雄羊を捕り、それを自分の子の代わりに全焼のいけにえとして捧げた。

           
             ・・・・・


「御頭祭」で、国の司から馬に乗った使者が登場し、さらに「御贄柱」を肩に担いだ神官が現れるが、これは「創世記」で、アブラハムにイサクの生贄を止めた神の御使いを意味すると思われる。

また、「供物として並べられている75の鹿の頭の中の、耳の裂けたものは、神様に選ばれたもの
だ」と菅江真澄は書いているが、この鹿は「御神(おこう)」の生贄の身代わりの鹿である。

「旧約聖書」では鹿ではなく羊を身代わりにしているが、「創世記」22章の記述に合致する。



次に紹介するのは、神長官「守矢家」に伝わる「御家紋」についてである。

この「御家紋」は、○に十字である。



この紋の由来について、確かなものは何も残されていない。

この紋と同じ紋で有名なのが、島津家の紋である。



この紋の起源については諸説あるが、世界的に古くからあったようである。

わたしが賛同する説は、シュメール学の世界的権威・広島大学の吉川守教授の説である。

岩田明著「十六菊家紋の謎」の中で、紹介されている。

それによると、○に十字は、シュメールの古拙楔形文字で、羊を指すと言う。

恐らくシュメール人が、羊の歩く姿を後ろから見て作ったのではないか、という説である。

わたしはこの文字がそのまま「守矢家」の「御家紋」になったものと思う。

わたしは、神長官「守矢家」は、「旧約聖書」の世界、古代オリエントと密接なつながりがあり、「イサク」伝承とともに諏訪に持ち込まれ、「守矢家」の「ご家紋」として残されたと考える。

諏訪大社の上社・下社の「神紋」は、図のようである。



上社前宮の「守矢家」の「御家紋」が、二社のご神紋とまったく異なるという事実は、「洩れ矢神」、「守矢神」、「イサク神」の系統や由来が、一般に「諏訪大社」と呼ばれる二社のそれとは明確に違うということを如実に現しているものと思われる。



わたしは「日ユ同祖論」を全面的に支持はしない。

しかし古代の日本に、イスラエルの部族の中のいくつかが来ていたことは確かだと思う。

小石豊著「日本ユダヤ連合超大国」で、小石氏は「わたしはイスラエルに行って、十部族調査機関・アミシャーブ方々とお会いした。

それは互いの神話と神話が対話した初めての会合で、ささやかではあったが、歴史的には意義あるものだった。

なぜなら多くのユダヤ人の口から、直接熱心に「日本人こそ十部族に違いない」と言われたからである。

更に十部族問題について研究を進めておられる大学教授の方々や、政府高官ともお会いした。

そしてユダヤ人が真剣にこの問題に取り組んでいることを確認した」と述べておられる。

イスラエル側の、「十部族」と日本に関するこのような熱心な対応に対して、日本側の対応はどうであろうか?

文中のアミシャーブとは、イスラエルにある「十部族」の行方を世界的規模で追跡している調査機関で、代表はラビのエリ・アフアビハイル師である。
 
            
             (引用ここまで)

写真(上)は、守矢家の家紋
HP「from八ヶ岳原人」さまよりお借りしました。
写真(中)は、島津家の家紋  wikipedia「島津家」より
写真(下)は、本書より

             *****


著者の考えと同じく、わたしも「日ユ同祖論」を全面的に支持するわけではありません。

しかし、一笑に付すのはもったいないような気もするのです。

日本、アジア、中東、、混沌とした世界が現前するのは、スリリングです。

ひき続き、Aのようでもあり、Bのようでもある。しかしAでもなければ、Bでもない、、というような世界を追いかけてみたいと思っています。



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諏訪神社の守矢(モリヤ)山と、イスラエルのモリヤの丘・・日ユ同祖論の検証(6)

2015-06-17 | 古代キリスト教



日本の中のユダヤ、という視点をもった本として、清川理一郎著「諏訪神社 謎の古代史・・隠された神々の源流」という本を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

諏訪神社については、後日もう一度研究したいと思っています。


              *****


            (引用ここから)


諏訪大社の前宮の祭神は、「みさくち神」と「洩矢(モレヤ)の神」である。

「みさくち神」は、樹や笹や石に降りてくる霊魂や精霊で、人にも憑く神である。

そして「みさくち神」の祭祀権を持っていたのが神長官(かみおさ)で、神長官は代々、「守矢(モリヤ)家」の世襲となっていた。

室町時代初期の「諏訪大明神画詞(えことば)」によると、古い時代、建御名方命(たけみなかたのみこと)が諏訪に侵入した時、この地の「洩れ矢(モレヤ)神」を長とする先住部族が、天竜川河口で迎え撃ったが、「洩れ矢神」が敗北した、と伝えている。

「神長官・守矢氏系譜」によれば、この「洩れ矢(モレヤ)神」が「守矢(モリヤ)家」のご先祖神で、現在の「守矢家」のご当主は、78代目にあたられる。

「洩れ矢神」に戦勝した「建御名方命」の神は、「諏訪大明神」となり、この系列の諏訪氏からは「大祝(おおほうり)」という生神様が生まれた。


「洩れ矢神」の子孫の「守矢氏」は、神長(かみおさ・のち神長官)という筆頭神官の位についた。

神長は、大祝(おおほうり)の即位の時の神降ろしの法、神の声を聴く呪術、「みさくち神」の上げ・降ろしの技法などの力を持つ神官とされ、古い時代には、この地の祭祀の実権は「守矢氏」が持ち続けたと伝えられている。

神長がおこなう神事の秘法は、真夜中、火の気のない祈祷殿の中で、一子相伝により「口うつし」で伝承された。

その内容は

「みさぐち神」祭祀法

冬季の「御室(みむろ)神事」の秘法

「御頭祭」の御符礼の秘法など、75回の年中行事の秘法

などであった。


「御頭祭」は、4月15日に行われる。

上社の年中行事の中で、最も重んじられてきた行事である。

古くは前宮の十間廊を中心に行なわれ、「御神(おこう)」の神事、75の鹿の頭の奉納、猪、鹿、
鳥、魚を、大祝や神官が供膳する神事が行われた。

一連の神事の後、前宮から、「御神(おこう)」と呼ばれる神のお使いの童男が諏訪の近隣の地域を巡視する。

これを「湛え(たたえ)神事」という。

「湛え神事」は廻り神とも言われ、主役は御祭神のお使いである神使という「大祝」の代理となった童男である。

袖の長い紅色の服をきて、御杖柱を背負い、首には錦の袋に納めた御宝(御宝鈴・鉄たく(さなぎ))をかけ、馬に乗る。神使は行く先々の「湛え」とよばれる特定の七樹、七石のある所で、鐸を
振り鳴らし、「みさくち神」を降ろす。

「御室(みむろ)神事」は、12月22日に「神原」に作られる竪穴の中で、神職が、第一のご神体・「みさくち神」と第二のご神体・「そそう神(蛇神)」と一緒に過ごす冬の神事である。

古い時代には、翌年の3月末までの間続いたという。


前宮がある場所を「神原」という。

諏訪大社の社伝によれば、「諏訪大神」がはじめて出現された地であるという。

「神原」には、室町時代中期まで「大祝」の神殿があった。

現在では祭祀だけが残っている。

「神原」の祭祀は、「みさくち神」のものであり、諏訪の人々にとって、諏訪の神とは、「みさくち神」であった。


さて、わたしは1991年に開館した長野県茅野市の「神長官守矢資料館」を初めて訪れたとき、「みさくち神」の「御頭祭」を復元した展示物を直に見た。

またその祭りには75頭の鹿の頭が神に供えられることを知り、これは外来の狩猟民、あるいは遊牧民の祭祀ではないかと考えた。

また、「守矢神」の音読み=モリヤは、エルサレムの聖地「モリヤの丘」に関係するのではないかと考えた。

さらに、「みさくち神」は漢字で数10通り書けて、漢字表記の定説がない。

このことから、「みさくち神」とは日本でつけた音読みの神名で、元からの神名はこの音読みの中にあると考えた。

高橋正男著「旧約聖書の世界」によれば、「旧約聖書」の舞台となったカナンの地には、古くから、聖地に結びついた地縁神、すなわち山河、樹木、石などの、一定の土地と結びつく土地神の信仰があり、その信仰はカナンのパンテオンの主神がエルであった古い時代にさかのぼるという。

「モリヤの丘」とは、「ヤハベが備える地」、あるいは「ヤハベ顕現の地」という意味である。

そしてアブラハムが、イサクを捧げるよう命ぜられた地でもある。

神ヤハベが、いけにえの羊を用意された場所でもある。

「守矢(モリヤ)山」、神職の「守矢(モリヤ)氏」との符号を感じざるを得ない。


              (引用ここまで)


               *****


突拍子もない話のような気もしますが、「日ユ同祖論」の論拠としては有名なものなので、収録しました。

諏訪大社の伝承については、縄文時代に遡る歴史をもつものとして、何度も検証していますが、もしかしたら、ユダヤ人のお祭りなのかもしれません。


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内村鑑三も支持していた・・日ユ同祖論の検証(5)

2015-06-06 | 古代キリスト教



宇野正美著「古代ユダヤの刻印」という本を読んでみました。

もちろん日ユ同祖論なわけですが、内村鑑三がこの説を肯定していたということは、初めて知りました。

これは、本の書き出しの部分です。

前回の記事でご紹介した対談本の中で、中丸薫氏とトケイヤー氏が、意気軒昂に語り合っていたのも、このようなことなのだと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


             *****


           (引用ここから)

日本および日本人は、自信をもつことができる。

それは、従来の日本人的発想からは湧いてこない。

世界的発想とでもいうべき、「聖書」からの発想である。

とかく日本人は、「聖書」といえばキリスト教の経典と思いがちである。

しかし聖書は、キリスト教の経典ではない。

「旧約聖書」が世界最古のものであり、この中から、ユダヤ発想、イスラム発想、そして欧米発想が生まれ出てきたのである。

それゆえに、〝聖書的発想″が世界に通じるものなのである。

本書のテーマである「古代ユダヤの刻印」とは、今から約2700年前から数度にわたって、日本に古代ユダヤ人達がやって来ていた、ということである。

正倉院といえば、奈良時代の御物が納まっている。

納まっている御物は、日本のものだけではない。

世界中から集められた。

西アジアから、シルクロードを通ってやってきたものも多くある。

その時も、ペルシア人たちと共に、古代ユダヤ人たちが日本に来ていたのである。


〝聖書的な発想″では、日本はどのようになるのであろうか?

聖書の約束の根本、すなわち古代ユダヤ人達の始祖であるアブラハムへの、神の約束は次のごとくである。

             ・・・

「その後、主はアブラハムに仰せられた。

あなたは、

あなたの生まれた故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるも
のとしよう。

あなたの名は、祝福となる。

              (「創世記」12章1節)

             ・・・

この言葉は、欧米人ならば誰もが知っている有名な言葉である。

アブラハムの子孫は、必ず祝福される。

大いなる試練を通っても、必ず復元する。

日本の歴史を鑑みてみよう。

元軍が来襲したこと。

幕末維新の間の混乱期、日露戦争。

何をとってみても、日本は完全に復元したではないか?

あたかも、このはるか以前の〝約束″が、日本の歴史の中に生きているようである。

たとえ古代ユダヤ人の子孫が、全世界のいたる所に散ったとしても、必ず元に戻ってくるとい
う約束である。

このことは、言葉を変えれば、古代ユダヤ人は、いついつまでも生き続けているということになる。


かつて日本は多民族国家であったことを忘れてはならない。

この日本列島に、東西南北さまざまなところから、人々が渡って来た。

その中に、古代ユダヤの人々が幾度もやってきていたということである。

古代ユダヤの血統はほぼ純潔な形で、ある地域に残っているのである。

今から約2600年前の「エゼキエル」の言葉も、「旧約聖書」の中にある。

             ・・・

彼らに言え。

神である主はこう仰せられる。

見よ。

私は、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く

                (「エゼキエル書」37章21節)


             ・・・


モーゼと同じように、全世界いたるところにユダヤ人達が散っていても、元の国、すなわち三大大陸の要である「パレスチナ」に帰還することが述べられているのである。

今日のイスラエル国家のことを指しているのではない。

将来本当にユダヤ人たちが全世界から「パレスチナ」に帰ってくると言っているのである。

日本に来ている古代ユダヤ人とは、「本当のユダヤ人」、すなわち、アブラハムの血統を受け継いだ人々なのである。


では「本当のユダヤ人」とは、何なのか?

かくのごとく、日本に古代ユダヤ人達がいる限り、日本は復元する。

そのことは全世界の多くの人々が、〝聖書的発想″によって認めるところなのである。


大正年間1924年11月、内村鑑三は述べた。

             ・・・

「日本人のうちにユダヤ人の血が流れていることは、早くから学者の唱えたところである。

かつてある有名なるヨーロッパの人類学者が、京都の市内を歩きながら、行きかう市民のうちに、まぎれものなく多くのユダヤ人があると見て、指さして、これを案内の日本人に示したとのことである。

その他、日本人の習慣の中にユダヤ人のそれに似たるもの多く、また、神道とユダヤ教との間に、多くの著しき類似点あり、という。

今日のアメリカの日本人排斥に対して、その国一派のキリスト信者が「日本人=イスラエル説」を唱えて、多いに日本人のために弁じたことを、私たちは知っている。

日本人の「敬神」に、ユダヤ人的の熱誠あるは、人の良く知るところである。

                (「内村鑑三著作集」24巻)

             ・・・


内村はこのことを、「日本の天職」という論文の中で書いた。

日本および日本人には「天職」があると言う。

もしそうだとするなら、それを経済的に終わらせず、もっと時間と空間を超えた、世界的影響力を持つものにすべきであろう。


         (引用ここまで)


           *****


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日本人は古代ユダヤについての理解が少ない・・日ユ同祖論の検証(4)

2015-05-30 | 古代キリスト教


トケィヤー氏の「ユダヤと日本・謎の古代史」のご紹介を続けます。

40年前に書かれた本です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

              *****


            (引用ここから)

サミュエル・グリンパーバーグというラビはヨーロッパ系のユダヤ人で、現在イスラエルに住んでいる。

このグリンバーグの個人的な学説によれば、ユダヤ人と日本人は同じ起源を持つ民族であるという。

彼は過去10年以上、このための資料を広く各地に求めているのである。

彼は、多くの日本側の文献をヘブライ語に翻訳している。

また古代日本の歴史も研究し、それを古代ユダヤの歴史と比較している。

このラビ・グリンバーグは、基本的には伝説を一般的な形で述べることをしている作家である。

彼は「ユダヤの失われた10種族」は、シルクロードを経てアジアに渡り、日本人の祖先になったと信じている。

だから、現在の日本文化にはユダヤ起源のものがあると信じているのである。

しかし日本人は自分の文化の中に含まれるユダヤ的特徴についてあまり注意をはらっていない。

それは、日本人が古代ユダヤ文化に関する理解が少ないからであると彼は信じている。


グリンバーグの説によれば、「神道」という言葉自体、ヘブライ語の起源から由来するものであるという。

「神道」という日本語は、古代ヘブライ語の「種族」という意味だと彼は説明する。

オリジナルとなったヘブライ語は「シフト」であるというのである。

グリンバーグもまた、「ユダヤの失われた10種族」のうちのガド族が日本に辿り着いたと考えている。

これは日本の佐伯好郎教授(景教の研究者)が指摘した「ミカド」が「ミ・ガド」から由来するという説と一致するわけである。

ヘブライ語で「ミカド」の「ミ」は「~から」という意味で、英語で言えば「フローム」である。

つまり「ミカド」がもしヘブライ語であるとすれば、「ガド族の子孫」という意味になるわけである。

また彼の説によれば、古代ユダヤ民族たちは各地で多くの迫害にあった。

当時の一般民衆は、自分達と風俗習慣の違う少数民族の存在を非常に嫌ったのである。

この関係は現在も同じことである。

そのために、古代から、ユダヤ民族ははるかかなたの地まで、住みよい土地を求めて移住したのである。

こうした放浪のユダヤの一種族が日本列島に棲みついたのであろうと、グリンバーグは述べている。


また彼は、日本の皇大神宮に納められている「八咫鏡」についても注目している。

その理由は、古代ユダヤ民族においても鏡は神聖視されていたからである。

それは清浄さの印であり、神に対する信仰心の証でもあった。

鏡によって示されたシンボルは、日本の神道においてのシンボルのもつ意味と全く同じであるからである。


また彼は、古代日本民族の「弓月の民」は、「旧約聖書」に述べられた「アイザック」の別名であろうとも考えた。

そして日本語でいう「お札(おふだ)」は古代ヘブライ語の「エフォッド」から由来していると考えた。

これは山伏が胸につけているような一つの胸当てであって、古代ユダヤの僧侶たちが常に付けていたものの名称であろうとも述べている。

さらに面白いのは、彼の説によれば、日本の古代の都である「平安京」という名は、「エルサレム(イエルサレム)」というユダヤ語の意味から名づけられたのではないかとも推測している。

古代ヘブライ語で、エルサレムの「イエル」は「都市」の意味であり、「サレム」は現在の「シャローム」つまり「平安・平和」という意味である。

だからエルサレムは「平安の都」である。

グリンバーグは、日本人の性格とユダヤ人の性格との共通点についても指摘している。

親への尊敬の念、がんこさ、献身を忠実に守る点、集団の中における適応力など、共通な性格的特徴であるとも指摘している。

神道に偶像が存在しないという点も、古代ユダヤにおいて偶像が存在しなかったことと同じだと指摘している。

また祭の様態、死に対するタブーがあること、みそぎ、塩を使う習慣、菊の紋を用いていること、などの共通点を列記している。

更に長い歴史の経過を経ても、日本人は日本人としての主体性を保存しているし、ユダヤ人は歴史的な迫害にも関わらずユダヤ民族の主体性を保存し続けている。

このような特徴もまた、両者の共通点と考えてられている。

他の民族はすべて他の文化に飲み込まれ、民族としての独自性を失ってしまったが、日本人とユダヤ人だけは違っていた。

これらが彼の論文の内容である。


              (引用ここまで)


              *****



2007年に、同じ著者トケィヤー氏が、中丸薫氏と対談している本が出ています。

タイトルは「日本とユダヤ・魂の隠された絆・・日本人の霊力を呼び覚ますユダヤ人の叡智」

冒頭部分は次のように始まっています。


              *****


             (以下引用)


「古の日本にかつて起こったこと、それは「歴史喪失」である」

○中丸

私は、最近京都に行きました。

松尾大社などを見てきたのですが、その時、説明してくださったおじいさんがいたのです。

「ここは石の庭園で中国式です」などといろいろ教えてくださいました。

そのあと私は、

「ここは秦氏一族は関係ないんですか?」と聞いてみたんです。

すると「ええ、関係ありますよ」と答えるんですね。

また私が、

「秦氏はシルクロードを通って、中国にやってきて、さらに朝鮮半島を通って日本にやってきましたが、もとはユダヤの人々じゃないでしょうか?」と聞きますと、

「そうなんです」と。


そこから話が進みまして、

「松尾大社はお酒の神社、お酒の神様を祭っているんです」といった話になりました。

そこは水もいいので、いいお酒ができるんだそうです。

秦氏はユダヤの人々なので、ビジネスもよくおできになる。また、

「お酒とか、京都の西陣織などの織物も、秦氏が作ったものなんです」と説明してくれました。

さらに、「米どころ・・お米の生産なども秦氏が発展させたんです」ということでした。


「すると彼らはものすごい財力をもっていたわけですね?

「結果的には、法隆寺も、広隆寺も、下鴨神社も、上鴨神社も、また京都の太秦一帯なども、みな秦氏の財力や宗教、文化に関係がある」

と、そんな話をしました。

「とくに日本の神社はユダヤと深い関係があるようですね。

おそらくイスラエルの12部族の中の失われた10部族が、まず日本に入ってきて、物部氏とか日本神話の中心的氏族になっていったに違いない。

さらに秦氏も、何派にも分かれて日本に入ってきたようですね」。

そうしたことが、私も最近非常に分かってきました。


ところが日本では、ある勢力がそうした事実をねじ伏せてきたわけです。

たとえば蘇我氏一族。

彼らは自分達も朝鮮半島の百済からやってきましたが、どうも過去を消したかったようです。

仏教派の彼らは、「古事記」・「日本書紀」の成立以前から日本に存在していた歴史書を、焼き払ってしまったのです。

蘇我蝦夷は、自殺する前に朝廷図書館に火をつけてしまいました。(645)

そのために、日本の歴史があたかも「古事記」・「日本書紀」から始まっているみたいになってしまいました。

それで、つじつまが合わないところがたくさんあります。

隠された部分がずいぶんある、と思うのです。

やはりシルクロードを通って渡来人がたくさん日本に入ってきていますから、日本人は決して単一民族ではないわけです。

様々な血が混ざり合っている。

今日の2人の話から、本当の日本の歴史というものを少しでもお知らせしていければと願っています」。


               (引用ここまで)


                 *****

トケィヤー氏の本は非常に読みづらいのですが、こちらは、中丸氏がバッサバッサとまとめて進行してゆくので、たいへん分かりやすくなっています。

しかし書かれていることはやはり、難しいです。



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秦氏はユダヤ民族か?・・日ユ同祖論の検証(3)

2015-05-27 | 古代キリスト教


M・トケイヤー著「ユダヤと日本・謎の古代史」のご紹介を続けます。

40年前に書かれたものです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****


            (引用ここから)


先日わたしは最近刊行された「日本の歴史」という本を読んでいた。

これは小学館から発行されている歴史書で、「古代豪族」という巻に大変興味深い話を見出した。

「日本書紀」の「皇極記」に「常世の神と秦河勝(はたのかわかつ)」という話があり、「「常世の神」というカイコによく似た虫を祀ると富と命が授かるだろう」と世の人々を惑わしていた大生部多(おおうべのおお)という人物が、秦河勝に打ち据えられた」という話である。

著者はこの話について、「秦河勝は仏教の得心者であるから、殴打するなどというのはおかしい」とし、何よりもこんなつまらない事件に中央の朝廷豪族である秦氏が乗り出したというのもおかしい」と疑問を呈している。


著者は大変慎重に書いているので何の結論も出していないが、私はひとつの想像がすぐに浮かんだ。

大陸からやって来た中国系の秦氏の中心人物が、カイコに似た虫を中心として起こった事件に乗り出して、その首謀者を打ち据えたというのは、秦氏がカイコと関係ある何かを握っていたのではないか?

もし秦氏が中国系ユダヤ人ならば、絹とそれに関する産業技術者であると推理することができる。

そして絹とそれに関する技術を独占していた秦河勝は、カイコに似た虫をもてあそんだ人物に対して、何らかの権利をもっていたのではないか、という考えである。

もしわたしの推理が正しければ、秦氏は完全に中国系ユダヤ人ということができるのではないだろうか?


それとは別に、わたしはまた、一人の興味ある人物について語りたい。

中田という日本人がいた。

彼はアメリカに留学し、キリスト教の神学を学んだ。

彼の習ったキリスト教聖書学は、やや初歩的なものであったらしい。

そして彼は非常に原始的なキリスト教徒となった。

日本に帰国してから、彼は自分自身を「僧上」と自称するようになった。

つまり自分のことを「中田僧上」と呼ぶようになったのである。

そしてキリスト教会を作ったのである。

彼は自分の教会を「聖なる教会(きよめ教会)」と命名した。

だがここで中田僧上は非常に不思議なことをしたのである。

1930年当時、まだドイツにはナチスが興っていなかった。

それなのに、中田僧上と彼の信者たちは毎朝、ユダヤ人の安全のためにお祈りを唱えていたのである。

これは非常に不思議なことと言わなければならない。

戦争が終わって1948年に、中田未亡人は日本の占領軍総司令部であるGHQに赴いた。

そこで未亡人は「イスラエルの首席・ラビを祝福したい」と申し出たのである。

「古代ユダヤが崩壊してから数千年の後に、ついにイスラエルの国家が建設されたことを祝いたい」という趣旨であった。

一体こうしたことを申し出るに至るまで、中田家においてはどんなことが行われていたのであろうか?


中田僧上は、1700年前に応神天皇がユダヤ人と接触していたと信じていた。

そして当時、中国大陸から「弓月」と呼ばれる種族が3500人の家族を従えて来日した。

これは「日本書紀」にも記録されているが、その時この「弓月」の人々は初めて日本に絹の織物を持って来たと伝えられている。

その後、仁徳天皇・雄略天皇の時代にも、さらにユダヤ民族の移民が日本にやって来たと彼は信じていた。

これが日本古代史における「秦氏」と呼ばれる人たちであると、彼は考えたのである。

この「秦(=機)」という氏族の名前を、彼は「織物の部族」だと理解したのである。

また「秦氏」の「秦」という字は、秦の始皇帝の「秦」と同じである。

そして「秦氏」は秦の始皇帝の子孫であり、秦の朝廷は古代ユダヤ民族の子孫であると彼は考えたのであった。

これらの「秦氏」は、現在京都にある「太秦(ウズマサ)」の地に移住して生活することになった。

その太秦の「ウズ」は「ユズ」という意味であり、これは「弓月の民」の「ユズキ」から来ているものと考えたのである。

古代中国においては、現在のローマ帝国の首都・ローマを「大秦」という名前で呼んでいた。

これは今述べた京都の「太秦」と大変よく似た漢字が当てはまるのである。

また広隆寺には昔、「大秦寺」という名前がつけられていたそうである。

つまりこれは「古代ユダヤの寺」という意味にも理解できるわけである。

またこの「太秦」の地には「大辟(おおさけ)神社」とよばれる神社がある。

この「大辟」という漢字は、中国語訳「旧約聖書」の「ダビデ」と全く同じ字なのである。

また「太秦」の地には、「イスライの井戸」と呼ばれる井戸が現在でも存在している。

これは恐らく「イスラエル」という言葉から命名されたのではないかと、彼は考えている。

つまり彼の結論によれば、秦氏はユダヤの移民たちであり、その人たちの住んだ京都の「太秦」を、古代ユダヤ人の居留地であったと考えたのである。


「太秦」では、毎年9月になると「牛祭り」というお祭りが行われる。

そしてこの「太秦」で行われる「牛祭り」のときは、面をかぶった踊りが行われる。

この面の顔は、完全に外国人の顔つきなのである。

その時、牛を追い払う行事も行われる。

これと同じような行事はユダヤ民族のなかにも行われている。

ユダヤの暦で、毎年9月の新月の10日後に行われる祭りである。

これは「ヨンキプア」とよばれる贖罪の祭りである。

この祭りのとき、午後に2頭のヤギが引き出され、1頭をユダヤの寺院に連れて行き、もう1頭のヤギを追い払うのである。

「太秦」で現在も行われている「牛祭り」は、これと全くよく似た内容をもっているのである。
            
  
               (引用ここまで)


                 *****

これは大変興味深い話で、ぜひ調査したいと思いました。

当ブログでは、古代の朝鮮半島との関わり、天台宗の〝後ろ戸の神”のこと、オリエントのミトラス神信仰、アジアの弥勒信仰の系譜、など、これに近いテーマをたくさん扱っているので、ますます複雑になってきて、まとめようがないような感じになってきました。

どれかが正しい、とすると、どれかは間違っている、ということになるわけですが、わたしはそうはしたくないと思っています。

歴史の闇、歴史の混沌、あらわになったものと隠されているもの、どれも大切で愛しいと感じます。



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たやすいユダヤ教としてのキリスト教という説・・日ユ同祖論の検証(2)

2015-05-16 | 古代キリスト教


トケィヤー著「ユダヤと日本・謎の古代史」のご紹介を続けます。

40年前に書かれた本です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


          *****


        (引用ここから)


古代ユダヤの民族は12種族あったと「旧約聖書」には述べられている。

ところがそのうちの10種族が突然、歴史上から姿を消した。

これはユダヤ世界のみならず、西欧世界の大きな謎であった。

彼らはどこへ行ってしまったのであろうか?

この失われた古代ユダヤの10種族の一つが、日本に定着したという説があるが、それを説明するにはキリスト教とユダヤ教の違い、景教について触れなければならない。


「キリスト教とユダヤ教」

現在のキリスト教は、完全にヨーロッパ化されたものである。

これは北欧の文化的伝統を強く残していて、ゲルマン的であり、民間伝承的なものを含み、その意味で本来のキリスト教とはかなり異なったものである。

キリスト教はユダヤ教から出発した。

その発祥の地はエルサレムである。

だから中近東において発生した宗教である。

したがって、これはユダヤ的な宗教であるということを理解しなければならない。

また、それが中近東的な宗教の性質をもつということも理解する必要がある。

そこにはなんらのヨーロッパ的な特徴は存在していなかったのである。


キリスト教におけるサンタクロースの話は雪の中をトナカイに引かれたそりに乗る話が有名だが、これは何らエルサレムの伝承には属していない。

エルサレムには、雪は降らないからである。

だから本来のキリスト教には、サンタクロースは存在していないのである。

これは古いヨーロッパの土俗的な民間伝承に基づくものであり、キリスト教とは完全に無縁なものなのである。


またクリスマツツリーについても同様のことがいえる。

イスラエルにはまったくクリスマスツリーという習慣はない。

これはキリスト教よりも古い、ヨーロッパの民間伝承にもとづくものなのである。

これらは単にキリスト教徒たちによって取り入れられた宗教的行事にすぎない。

キリスト教は次第にローマ的になり、ゲルマン的となり、元来持っていたユダヤ的特徴を失うに至った。


しかしながら、景教ネストリウス派はヨーロッパ的ではない。

景教は中近東の人たちによって信仰されていた。

ペルシャ人、シリア人、後に至ってアラブ人たちによって信仰された。

当然アラブ文化よりは古い起源を持っている。

だから景教徒たちの行動習慣は、その隣人たちのユダヤ人のそれと大変よく似たものであった。


彼らがキリスト教となる以前、数百年の間、この人たちはユダヤ的文化の影響の下にあり、その結果彼らは何がユダヤ教であるかということについてよく知っていたのである。

ユダヤ人たちはどのようなことをしているか、また何を信じているかなど。

古代社会においてはユダヤ人がもっとも進歩的で高度な知的能力をもっていたからである。

このような典型的なユダヤ文化における基本的な観念は、ユダヤ民族の周辺に位置する人たちによっても保たれることになったのである。


後世にいたり、キリスト教徒が出現した時、それは〝拡散されたユダヤ教”として理解されたのである。

キリスト教には非常に多くのユダヤ的特徴が取り入れられたが、ユダヤ人でなければ行えないような多くの困難は除去されていた。

たとえば何を食べてもいいし、子どもを割礼させる必要もなかった。

子どもの割礼は多くの人にとって恐怖を与えたからである。

そこでユダヤ文化に非常に接近していたこれらの人々は、すべてキリスト教に変わっていったのであった。

つまりキリスト教は〝たやすいユダヤ教“であったのである。



これが「景教とはどんなものか?」という質問に答える鍵となる。

景教徒のほとんどはユダヤ文化の心酔者であり、ユダヤ人の支持者たちによって構成されていた。

景教徒の多くの行動は、完全にユダヤ的であった。

また、きわめて正統的な立場のユダヤ的行事が行われていたのである。

そこでヨーロッパ的キリスト教徒達は、ユダヤ教徒を迫害したように景教徒も迫害したのであった。

なぜならば景教徒は、ユダヤ人のようにものを考えるからであった。

ユダヤ教においては、神はあくまでも神であり、人間はあくまでも人間だった。

神の母であるマリアなどという考え方は、景教徒においては存在しなかったのである。


ユダヤ教は唯一の神である創造主を認めた。

しかしキリスト教の基本的概念である三位一体説は、完全に拒否されたのである。

いかに説明しようとも3つのものは1つではあり得ず、1つのものは3つであることができない。

だから景教徒たちも、この三位一体説を否定した。

この時、すでにユダヤ教的に思考していたのである。


景教の宣教士たちは、ヨーロッパ的キリスト教徒たちと多くの対立点を持つようになった。

というのは、元来のキリスト教がますますヨーロッパ的になり、非ユダヤ的になっていったからである。

キリスト教宣教士会イエズス会士達が15世紀後半から16世紀初頭に中国大陸を訪れた時、数少ない景教徒と接触することになった。

彼らはもはや何の勢力も持っていなかった。

当時の景教は、すでに崩壊の過程にあったのである。

このイエズス会宣教師たちは、景教徒たちに自分達の教会に来るように招いた。

しかし景教徒たちは教会には現れなかった。

当時景教徒のために、教会は存在していなかった。

景教徒たちが神を礼拝し、宗教的雰囲気を味わいたいと思った時は、キリスト教会に行く代わりにユダヤ教の教会堂シナゴーグに行ったのである。


             (引用ここまで)

        
               *****

書かれていることが歴史的に信憑性があるのかどうかは、少々疑問がありますが、著者は、中近東から中国にかけて、とある連続的な文化があったという考えを述べているのだと思います。

シルクロードという言葉はなぜロマンをかきたてるのか、、それは東洋と西洋が分かちがたく重なり合った情景を呼び起こすからではないかと思います。

著者の述べるところを、ゆっくりと味わうと、今とはちがう世界が感じられるように思います。


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日ユ同祖論の検証(1)・・キリスト教・ユダヤ教・景教

2015-05-13 | 古代キリスト教



M・トケィヤー著・箱崎総一訳「ユダヤと日本・謎の古代史」を読んでみました。

この本は1975年に発行された古い本です。

いわゆる「日ユ同祖論」です。

昔一度読んだ記憶があります。
後年訳者の箱崎氏のカバラの解説書は興味深く読んだことも思いだします。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

ちょっと読みにくい文章である上に、途中をはぶいて、結論に近いところをご紹介しようと思いますので、唐突で分かりにくいと思いますが、他の本の傍証も重ねてご紹介したいと思います。

著者トケィヤー氏はユダヤ人のラビで、日本に長く滞在されている親日家でいらっしゃいます。


               *****


              (引用ここから)


シルクロードの終点は、奈良の正倉院であると言われている。

この正倉院に眠る宝物の数々は、かつて数千年前に広大なシルクロードを横切って現在の場所に落ち着いた。

このような奇蹟が行われたシルクロードには、数々の都市が栄えた。

そしてその都市にはユダヤ人たちの居留区があり、ユダヤ学園があり、大きなユダヤ文化センターを形成していたという。

ここでは主にそれらの跡について、話を進めよう。


☆「シルクロード探検の概略」

日本人はシルクロード地帯を「西域」と呼んでいる。

紀元2世紀ごろ、漢の武帝は中央アジアに大軍を送り、汗血馬を求めようとした。

また西暦166年、ローマの皇帝マルクス・アウレリウスの使者・大秦王・安敦がシルクロードを通って中国に来た。

紀元384年には西域人の僧・摩羅難陀が、百済に仏教を伝えた。

そして紀元399年から412年に亘って、法顕とよぶ中国の僧がインドを大旅行したと述べられている。

下って紀元621年、呼応庵洛陽にゾロアスター教の寺院の建立が許可された。

この次の年に、日本の聖徳太子が死亡している。




紀元635年、ペルシャ人アラホンが中国に来て景教・ネストリウス派キリスト教を伝えた。

その後、景教は、中国において非常に繁栄し、紀元781年には歴史学者にとって有名な「景教流行中国碑」が建設された。


この景教は、ユダヤ教ではなかったか?という説をとなえる研究者も存在している。

当時のシルクロードの往来はきわめて頻繁なものであり、紀元751年、中国の派遣軍である高仙芝にひきいられた軍隊は、西域のタラス河畔でサラセン軍に敗北したことが、歴史的事実として述べられている。

その後12世紀に至って、有名なジンギスカンによるヨーロッパの大征服が行われているのである。


西暦1275年、マルコポーロが中国の皇帝に面会した時、この宮廷にはユダヤ人の政治顧問がいたと、彼の「東方見聞録」には明記されている。

近年に至り、西域地方はスウェーデン人探検家スウェイン・ヘディンによって探検されたが、彼は地理学者であり考古学者ではなかった。


日本人による西域探検は、明治30年に日本陸軍の参謀本部が中央アジアに調査員を派遣したことが記録されている。

また明治24年には日本陸軍の古川大佐という人物が「ペルシャ紀行記」を書いているし、明治39年には日野という軍人によって「イビ紀行」という紀行文が刊行されている。

しかし本格的な探検は、大谷光瑞によって行われた「大谷探検隊」の業績である。

これは明治末年より大正初期にわたって3期に分けて行われ、多くの成果をあげた。

大谷探検隊の初期の目的は、初期の仏典の翻訳を調査することにあり、ことにウイグル語による翻訳文を求めることであった。

つまり大谷探検隊はインド語による仏典またはウイグル語経典を入手するために西域に入ったのである。

しかし結果として大谷探検隊は、シルクロードについての考古学的研究を果たすことになった。

その発見の中にはミイランとよばれる遺跡において天使像を発見したことが注目されている。

これは絹の道の天山南路に位置した、古代都市の遺跡である。

この天使像はヘレニズム文化の強い影響を受けていることが指摘されている。



             (引用ここまで)

               *****


wikipedia「大谷探検隊」より

大谷探検隊は、20世紀初頭に日本の浄土真宗本願寺派第22代法主・大谷光瑞が、中央アジアに派遣した学術探検隊。

シルクロード研究上の貴重な業績を挙げた。

1902年 - 1914年(明治35年 - 大正3年)の間に、前後3次にわたって行われたが、戦時中という状況も重なり活動の詳細は不明なところも多い。



第一次探検

第1次(1902年 - 1904年)は、ロンドン留学中の光瑞自身が赴き、本多恵隆・井上円弘・渡辺哲信・堀賢雄の4名が同行した。

光瑞はカシュガル滞在後インドに向かい、1903年(明治36年)1月14日に、長らく謎の地の山であった霊鷲山を発見し、また、マガダ国の首都王舎城を特定した。

渡辺・堀は分かれてタクラマカン砂漠に入り、ホータン・クチャなどを調査した。

別に雲南省ルートの探検が野村禮譲、茂野純一によって行なわれ、この途上で建築家伊東忠太と遭遇。
これが光瑞師と伊東博士の交流のきっかけとなり、のち築地本願寺の設計依頼へとつながる。

第二次探検

第2次(1908年 - 1909年)は、橘瑞超、野村栄三郎の2名が派遣され、外モンゴルからタリム盆地に入りトルファンを調査した後コルラで二手に分かれた。
野村はカシュガル方面、橘はロプノール湖跡のある楼蘭方面を調査した。
有名な李柏文書はこの時に発見されたと見られる。

第三次探検

第3次(1910年 - 1914年)は、橘瑞超、吉川小一郎の2名が、トルファン・楼蘭などの既調査地の再調査をはじめ、ジュンガリアでも調査を行うほか、敦煌で若干の文書を収集した。

報告書類

三度の探検により貴重な古文化財がもたらされたが、その報告書として『西域考古図譜』2帙(1915年)、『新西域記』2巻(1937年)が刊行され、研究報告として『西域文化研究』全6巻(1958年)がある。
現在では、将来された文書の資料集である『大谷文書集成』1(1984年)も公刊されている。


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ワイン・果物、そしておすすめのメニュー・・・キリストは何を食べていたのか?(5)

2014-11-22 | 古代キリスト教



ドン・コルバート氏著「キリストは何を食べていたのか?」のご紹介をします。

これで最後です。

最後は、ワインと果物です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

             *****

            (引用ここから)

キリストの時代、「ワイン」は、「パン」と「水」と同じく、たいていの人の食事では定番メニューでした。

キリストの最初の奇蹟は、「水」を「ワイン」に変えたことでした。

「ヨハネによる福音書」の初めの箇所で、ある結婚式でイエスが召使たちに6つの大きな水瓶に「水」を満たすよう命じます。

1個でおよそ100リットルは入ろうかという大瓶でした。

キリストは、その「水」を「ワイン」に変えたのです。

「キリストはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を顕わされた。

それで弟子たちはキリストを信じた」とヨハネは書いています。


キリストが飲んできたワインは発酵酒ではなかったと思い込んでいる人はとても多いようです。

その理由はキリストがナジル人だったからです。

「ナジル人の誓願」、、これは、はるか「モーゼの戒律」にまで遡りますが、「民数記」の第6章に出てきます。

この誓願で、「ワイン」に関するくだりは以下のとおりです。

「主はモーゼにおおせになった。

イスラエルの人々に伝えてこう言いなさい。

男であれ女であれ、特別の誓願をたて、主に献身して、ナジル人となるならば、葡萄酒も濃い酒も断ち、葡萄酒の酢も濃い酒の酢も、生の葡萄液は一切飲んではならない。

また葡萄の実は生であれ、干したものであれ食べてはならない」。

「ナジル人の誓願」では、頭髪は伸ばしっぱなしにせよ、というのもあります。

またたとえ両親、兄弟姉妹の亡骸であろうと、死体に近づくこともタブーでした。

この誓願は、特別に神聖な儀式に身を捧げる者が守るべきものとされていました。


キリストがこの「ナジルの誓願」の下で生きたという見方は、「聖書」に言明されていない2つの思い込みに由来しています。

1つ目は、天上の父なる神が、御子キリストを特別に神聖な儀式のため保留していたので、キリストが「ナジル人の誓願」の下で暮らしていた、とするものでした。

2つ目は、聖書ではキリストがナザレ人と呼ばれているので、ナジル人であった、と考えることです。

マタイは自分の福音書の中に、キリストについてこう書いています。

「イエスはナザレという町に行って住んだ。

「彼はナザレの人と呼ばれる」と預言者たちを通して言われていたことを実現するためであった(マタイによる福音書)」。

「聖書」には、産まれる前からナジル人として神に捧げられていた者がもう2人あげられています。

サムエルとバプテスマのヨハネです。


キリストが発酵酒を飲まなかった別の証拠として「レビ記」の「食物規定」を挙げる人がいます。

「レビ記」では、神が大祭司アーロン(モーゼの兄)にこう命じられます。

「あなたであれあなたの子であれ、臨在の幕屋に入る時は葡萄酒や強い酒を飲むな。死を招かないためである。

これは代々守るべき普遍の定めである。

あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること。

またモーゼを通じて主が命じられたすべての掟を、イスラエルの人々に教えることである(レビ記)」。

実際にはキリストはその生涯を通して幕屋でも神殿でも祭司としてのお勤めをしたことはありません。

キリストはユダ族の出で、「レビ族」の出ではありません。

イエスが大祭司となられたのは磔刑、復活、昇天以後のことでした。


キリストは「最後の晩餐」では、ワインの盃を上げて、こう言いました。

「この盃は私の血によって立てられる新しい契約である。

飲む度に私の記念としてこのように行いなさい(コリントの信徒への手紙)。

キリストはまた、盃をとり感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。

「皆、この盃から飲みなさい。

これは罪が許されるように、多くの人のために流される私の契約の血である。

言っておくが、わたしの父の国であなたがたとともに新たに飲むその日まで、今後ブドウの実から作ったものを飲むことは決してあるまい(マタイによる福音書)」。

どう見ても、この夜キリストはワインを飲んだのです。

そして自分が復活するまで、使徒たちとそれを飲むことは二度とないことを知っていたのです。


キリストは自分でワインを飲んだとも言っています。

そして自分を拒否していたパリサイ人やユダヤ教の律法学者らの批判に対して、こう答えました。

「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べず、葡萄酒も飲まずにいると、あなた方は「あれは悪霊に取り付かれている」と言い、人の子が来て飲み食いすると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言う(ルカによる福音書)。

「人の子」とはキリストを指し、彼が飲み食いをした、と言っているのです。

ワインは何千年にも亘って医薬としても使われてもいました。

紀元前400年、医学の父ヒポクラテスは頭痛、気分の乱高下、心臓関連の不調など、おびただしい疾患の治療にワインを使っていました。

消化や睡眠の促進、神経強壮剤としても用いていたのです。


「デザート」

キリストはどんなタイプのお菓子をたべたのでしょうか?

答えは簡単、果物でした。

モーゼはカナンの地を偵察させるために12人の仲間を派遣し、土地の食べ物を少し持ち帰るように命じました。

「民数記」には、こう書かれています。

「エシュコルの谷に着くと、彼らは一房のブドウのついた枝を切り取り、棒に下げ、二人で担いだ。

またザクロやイチジクも取った」。

ブドウ、イチジク、ザクロの3つが、聖書によく出てくる果物の御三家です。

この他にりんご、アプリコット、ベリー、メロン、デーツ、干しブドウも「聖書」に出てきます。

「聖書」に出てくる果物では、「オリーブ」の木と実を別にすれば、ブドウとブドウの木に勝るものはありません。

           (引用ここまで)


              *****


この本は最後に「キリストのレシピを使ってのダイエット計画」というもので締めくくられています。

キリストが食べていたようなものを食べようというわけです。


             *****

 
          (引用ここから)

1・でんぷんは食事1回ごとに1皿に限りましょう。
全粒の穀物と豆類を選びましょう。

2・食事ごとにオリーブオイルを取りましょう。

3・魚を食べましょう。赤味の肉は週1回に。

4・サラダをたっぷり取りましょう。

5・赤ワインを飲みましょう。量はほんの少しに。

6・果物を取りましょう。

             (引用ここまで)


               *****


奇妙な本でしたが、なんとなく心に残りました。

パンとワインの比喩は定番ですが、そういえば、魚も神秘学的にはキリストのシンボルだったことを思い出しました。



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キリストは何を食べていたのか?(4)・・オリーブの清めと、生きた水

2014-11-19 | 古代キリスト教



ドン・コルバード氏著「キリストは何を食べていたのか?」の続きです。

次は、オリーブと水です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

             *****

           (引用ここから)

「オリーブ」

地中海の諸地方で、「オリーブ」の木が最初に栽培され始めたのは、6000年以上も前のことでした。

一番初めはギリシャだった、と信じている人が多いようです。

キリストの時代、「オリーブ」の実は、生か煮炊きして食べていましたが、ほとんどは搾り取って油にしていました。

磔刑に処せられる前夜、キリストは「ゲッセマネの園」へ祈りに行きました。

この園は、「オリーブ」山のふもとにありました。

この山には「オリーブ」林があったので、ぴったりのネーミングです。

ここに「オリーブ」の木が植えられたのは、搾り取った油を深い谷間を渡って直に神殿へ納めるためでした。

これらの木々の実からとった油は、神殿の大きなランプ台で燃やすばかりでなく、生贄を焼いたり、お供えの「パン」(荒野彷徨の時代から、安息日に祭司が幕屋の至聖所で供えた)を焼くのにも使われました。

もちろん普通の「パン」を焼く時も、この油を使ったのです。

「オリーブ」の木立は、安息日のうちに神殿に運び込める距離にあったので、神殿が早く閉まっても、絞りたての油をそのまま行事に間に合わせることができました。

「ゲッセマネ」と言う名は、文字通りだと「搾油器」を指すヘブライ語が起源です。

ですから「ゲッセマネの園」とは、「搾油器の園」ということでしょう。


「わたしを苦しめるものを前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。

わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの盃を溢れさせてくださる」(詩編23)


食前にこのように油を用いたことは、神の霊の前面で全員が食事に参加する、という合図でした。

賑わいだけでなく、信仰と愛とが期待されていたのです。


油を注ぐ習慣は癒しとも関係していて、これは今日の教会でも続いています。

「新約聖書」の「ヤコブの手紙」には、こうあります。


「あなた方の中で病気の人は、教会の長老を招いて主の名によって「オリーブ油」を塗り、祈ってもらいなさい」。

古代から「オリーブ油」はいろいろな料理を作るのに使われてきました。

「パン」を食べる時のバターの代用品でもありました。

「パン」をちぎって、これにつけてから食べるのです


「水」の章

「新約聖書」でキリストの一番有名な逸話の一つは、彼自身が飲む「水」に関するものでした。

「ヨハネによる福音書」に、キリストが弟子たちとエルサレムからガリラヤへ向かう途中、サマリアを通りかかった時、誰もが歩き疲れて、井戸端に座り込む場面があります。

弟子たちはシカルの町へ食べ物を買いに行きますが、キリストは井戸端に残りました。

一人のサマリア女性が「水」を汲みに来たので、キリストは「水を飲ませて下さい」と頼みました。

女は驚きました。

というのも、ユダヤ教徒とサマリア人は互いにほとんど没交渉だったからです。

ソロモン王没後、紀元前933年、パレスチナは南のユダ王国と北のイスラエル王国に分裂、サマリアは北半分のイスラエル王国の首都になりました。

まず紀元前8世紀、アッシリアによる進攻で、紀元前7世紀、カルデアの進攻で、南北両王国は崩壊し、双方の住民の間に対立が残りました。

このことが、このキリストとやもめ女の逸話でうかがえます。

キリスト自身は、北のナザレの出だが、エルサレムという元は南のユダ王国の首都だった場所に信仰の拠点を置いていたため、サマリアでは歓迎されなかった。

しかしこの挿話ではサマリア人は、最後はキリストをメシアとして受け入れます。

女は、言われたとおりにしました。

そこでイエスは、彼女に言ったのです。

「もしあなたが神の承り物を知っており、また「水」を飲ませて下さいと言ったのが誰であるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに「生きた水」を与えたことであろう(ヨハネによる福音書)」

彼は「永遠の命」というたまもののこと、そして神の霊が、人の心に宿ることを言っていたのです。


イエスの時代、家に「水」を持ち帰るのは女性の役目でした。

幼い子供の頃から、普通は午後遅くか夕方、井戸や泉から「水」を汲んで帰るしつけを受けていたのです。

大抵は水差しを持って井戸で「水」を汲んでから、水差しを頭上か肩に乗せて持ち帰りました。

イスラエルでは、「水」はいつも貴重は品物でした。

「水」無しでは、人は死んでしまいます。

そのため井戸は深く掘られ、しっかりと守られていました。

イエスがサマリアの女性に出会ったことで有名なこの井戸は、兄エサウから長子権を手に入れたヤコブの時代に掘られ、息子のヨセフに与えられたとサマリア人たちに信じられていました。

その井戸は今日も存在しています。

イスラエル人がシナイ半島の荒野をさまよっていた頃、深刻な「水」不足に2度、遭遇しています。

どちらの場合も、「水」は超自然的に提供されました。

「出エジプト記」では神がモーゼに「ある岩を杖で打て」と言われ、そうすると水が吹き出ししました。

次には「民数記」で神がモーゼに「杖を取ってある岩に水をくれと頼め」と命じます。

イスラエル時代の人たちは、さぞかし将来自分達に約束された土地にあこがれたことでしょう。

そこは神がこう言われた土地でした。

「よい土地。平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地」(申命記)


(引用ここまで)

*****


水とオリーブという典型的な題材となりました。

日本人なら、オリーブオイル抜きでもいいかな?と感じました。
油で清める、というのは、独特の感性ですね。
日本人なら、水と塩、でしょうか?。。


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脂と血は食べるな・・キリストは何を食べていたのか?(3)

2014-11-14 | 古代キリスト教




ドン・コルバード氏著「キリストは何を食べていたのか?」のご紹介を続けます。

次は、魚と肉と脂肪についてです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****

            (引用ここから)

「魚」の章

わたしたちにはっきりと分かっているのは、キリストはほぼその生涯の毎日に、新鮮な「魚」を食べていたことです。

実のところ、わたしは「魚」と「パン」こそ、キリストの食事の中心だったと信じています。

どうしてかというと、キリストがこの世にいた間の時期、「魚」は一番普通の食べ物だったからです。

キリストの時代、ガリラヤ湖、地中海、ヨルダン川は「魚」の供給源で、ユダヤ教徒らはいろいろな「魚」を食べていました。

エルサレムの市場には「魚」があふれ、この都市の旧市内への入口の門の一つには「魚門」の名がついていたほどです。

キリストの時代、エルサレムの普通の市民は「魚肉」以外の「肉」は特別なお祝いで食べられるだけでした。

しかし「魚肉」は安くて、一般市民の定番メニューだったのです。


キリストは、教えの中でたびたび「魚」に触れています。

またいくつかの場合、キリストの奇蹟には「魚」が関係しています。

キリストは何千もの人々にたった2匹の「魚」を食べさせたことが2度ありました。

5個の「パン」と2匹の「魚」を取って祝福し、それらをちぎると、弟子たちに手渡し、5000人の男たち、彼らと共にいた女と子ども達とにそれを食べさせよ、と命じたのでした(マタイによる福音書)。

また後に、キリストは7個の「パン」と数匹の小さな「魚」を取り、それらを祝福するとちぎって弟子たちに渡し、4000人の男とともにいた女・子どもたちに食べさせたのです(マタイよる福音書)。

小さな「魚」は、イワシだったかもしれません。

どちらの奇蹟でも人々のお腹は十分満たされたばかりか、「魚」も「パン」も食べ残しがでたほどでした。


イエスと弟子たちに関係する大漁は、2回ありました。

一度はキリストが、借りた漁船を、教えを授ける教壇に使い、話がすむと、ペテロと彼の漁師仲間に「その船に乗り、もっと水深のある所へ出て漁をしなさい」と言いました。

ペテロは漁の名人でしたから、真昼の明るい間は魚が網にかからないことを知っていました。

それでもイエスに命じられたので、水深のある所まで乗り出して縄を投げました。

結果は途方もない大漁で、あまりのことにペテロは怖くなりました。

イエスはそれからこう言ったのです。

「わたしに付いて来なさい。人間を捕る猟師にしよう(マルコによる福音書)」と。
男たちはただちに網を捨てて、キリストに付いて行きました。


「肉」の章

キリストの食生活という論点に照らすと、キリストの時代は「牛肉」は少なく、赤身の「肉」は多くはありませんでした。

赤身の「肉」はたいてい、宴会、結婚披露宴、祭日、晩さん会、パーティーなどでしか食べられませんでした。

一年に一度、羊を落としても、それは「過超(すぎこし)祭」用に「肉」をとっておくためでした。

お金のある家族は来たるべき宴会の日や、生贄を捧げる日々に備えて特別な動物を飼っていました。

「放蕩息子帰還の話(ルカによる福音書)」で、キリストが悔い改めた罪人の例えに用いた話では、父親は息子が戻って来たことに大変興奮して、召使たちにこう命じました。

「肥えた子牛を連れて来て、ほふりなさい。食べて祝おう」。

他にも〝天使と分からない天使″が戸口に現れて食事を乞うた時、もてなすためでもありました。

貧しい旅人を変装した天使に見立てて、饗応すれば功徳になりました。

「天使と知らずにもてなす」は「高貴な人と知らずにもてなす」という熟語になっています「ヘブライ人への手紙13」。


この習慣はアブラハムの生涯に起きた出来事として、ユダヤ教徒には周知の話に由来しています。

ある日アブラハムは昼間の日差しを避けてテントに座っていました。ふと目を上げると、3人の旅人が近づいて来るではありませんか。

アブラハムは立って出迎え、テントへと招き入れました。

アブラハムは召使いに命じて、彼らの足を洗わせました。

先ず少しのパンを出しておいてから、アブラハムは妻のサラに小麦粉をこねてパン菓子を作るように言いつけると、自分は牛の群れのところへ走って行き、柔らかくて美味しそうな子牛を選び、召使に渡し、急いで料理させました(創世記)。

やがて彼は、バターと牛乳、そして調理された子牛を旅人達の前に並べました。

まさにこの旅人達が、来年彼はサラによって息子を授かるだろうと告げたのでした。

アブラハムもサラも普通に子どもが産める年齢をはるかに過ぎていました(夫は99才、妻は90才)。

ところが、その息子イサクは予言どおり誕生したのです。

アブラハム以後、ヘブライ人達は、神のお使いが訪ねてきた時に備えて、いつも脂肪がのった子牛を飼っておくのが得策だと思っていたのでした。


「マルコによる福音書5章」に、「豚」にまつわる話が出てきます。

ローマに占領されていたゲラサ人の住む地域に、汚れた霊に取りつかれた男がいました。

キリストは霊たちに、「名前を言え」と迫ります。

男の口を通して、霊達は「名はレギオン、大勢だから」と答えます。

「レギオン」は古代ローマの軍団組織で、数千人からなり、転じて多数を意味します。

その山の近くで「豚」の大群が餌を食べていて、悪霊たちはキリストにこう乞いました。

「「豚」の中に送り込み、乗り移らせてくれ(マルコによる福音書)」

キリストがそれを許すと、悪霊たちは「豚」の大群に乗り移り、群はたちまち険しい崖から海へ飛び込んで、皆溺れ死んでしまいました。

「豚」が清浄な動物であれば、キリストは悪霊を乗り移らせなかったでしょう。

キリストは「豚」が悪魔に捧げられることを知っていて、悪霊たちを地獄へと追いやったのでしょう。

当時のローマ占領地区では、神々に捧げる宴会で、多神教のローマ人の間では、「牛」は「上級の神」に、「豚」は「下級の神」に、生贄として捧げられていたのです。


「脂肪」に対する厳しい規定の一つは、「レビ記」の第3章に出てきます。

「「脂肪」はすべて主のものである。

「脂肪」と「血」は、決して食べてはならない。

これはあなたたちがどこに住もうと、代々に渡って守るべき普遍の定めである。

イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。

牛、羊、山羊の「脂肪」を食べてはならない。

自然に死んだ動物や、野獣に殺された動物の「脂肪」は、いかなる用途に使ってもよいが、食べてはならない。

燃やして主に捧げるものである「脂肪」を食べる者は、すべて自分が属する民から断たれる」。


腰を据えて「肉汁」たっぷりのステーキディナーを食べているキリストなど、「聖書」にはまったく出てきません。

でも「魚」と「パン」だけの食事をゆっくりと味わっているキリストなら、「聖書」に出てきます。


             (引用ここまで)

      
               *****


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「わたしは命のパンである」・・キリストは何を食べていたのか?(2)

2014-11-12 | 古代キリスト教




では、「キリストは何を食べていたのか?」の本文をご紹介します。

わたしは本書の意図にも関わらず、健康法としてでなく、「ユダヤ教徒としてのイエス」という観点に着目して、抜き書きをしました。

            *****

           (引用ここから)


「パン」の章

わたしが天国へ行けたら、神様に聞きたいことはたくさんあります。

真っ先にお聞きしたいのは「マナ(マンナ)」のことです。

エジプトを脱出したイスラエル人たちが、アラビア砂漠で飢えた時、天から降ってきたとされる食べ物で、「旧約聖書」の「出エジプト記」に書かれている「マナ」の、見かけと味はどんなものか?という質問です。

「聖書」が言っているこの食べ物は、間違いなく「天から下されたパン」だったはずなのです。

モーゼがイスラエル人を率いてエジプトを脱出し、彼らが神に約束されていた土地、カナン(パレスチナ・今のイスラエル)へと向かった時、シナイ半島で途方もなくひどい目にあいました。

この半島は、今でも一筋縄ではいかない地域なのです。

40年の間、イスラエルの人たちは「マナ」を主食にしたのです。

神は、モーゼにこう言われました。

「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。

民は出て行って、毎日必要な分だけ集めよ(「出エジプト記」16-4)


モーゼは後に、自分の民にこう告げました。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の曠野の旅を思い起こしなさい。

こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自身の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。

主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのない「マナ」を食べさせられた。

人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった(「申命記」8)」


「マナ」は、イスラエル人には見たこともない食べ物でした。

実際マナという名前が付けられたのも、彼らがそれを初めて見た時「これ何だ?」と聞いたためでした。

「これ何だ?」というヘブライ語こそ、「マナ(マンナ)」なのです。

「マナ」の見かけは、霜のように目の細かい、小さな丸いコリアンダー(香菜)の種のようでした。

色は真珠色、つまり琥珀色でした。

それを穀物のように料理したのです。

石臼でひくか、乳鉢ですりつぶすかした後、平鍋で煮るか、ケーキにしました。

こくのあるクリームのような味(「民数記」)か、蜜の入ったウエハースのような味(「出エジプト記」)がしたそうです。

夜間、野営地に夜露が降りる頃、「マナ」が降りだし、一夜明けると地面いっぱいに積もっていました。

地上に残された「マナ」は、砂漠に照りつける日差しで溶けてしまいました。

「マナ」は面白い特徴を持っていました。

毎日集めるだけで、蓄えてはいけなかったのです。

安息日の前夜だけは、蓄えてもよかったのです。

神も、普段の倍の「マナ」を降らせたのでしょう。

それ以外の日には、「マナ」は一晩置いておくと、うじがわき、臭くなりました。

ところが安息日に限ってそういうことはなかったのです(「出エジプト記」)。

これこそ、食物を巡る奇跡では空前のものではないでしょうか?


キリストが弟子たちに、「私たちに必要な糧を今日与えて下さい(マタイによる福音書)」と祈れと教えたとき、この天から下された「マナ」のことを言っているように思われます。

神がイスラエル人にしてくださった約束とは「わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない(出エジプト記)」ことでした。

この約束を果たすために下されたのが、「マナ」だったのです。

あの荒涼とした旅の間、イスラエルの人々は、神が約束を果たしてくれるのをどれほど切望したことでしょう。

その約束とは、「小麦・大麦・ブドウ・イチジク・ザクロが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地、不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地。

土地は鉄を含み、山からは銅が取れる土地(申命記)」へ行き着かせてくれること)でした。


キリストは、モーゼ時代のイスラエル人たちが旅したような荒野で生きるとはどういうことかを、知っていました。

「マタイ伝第4章」に、キリストが精霊によって荒野へ連れ出され、悪魔の誘惑にさらされる場面があります。

キリストは、人気がない荒涼としたさびしい荒野に40日40夜留まり、断食をしました。

荒野に寝起きしていた間、キリストは自分を誘惑しにきたサタンと3度対決しました。

1回目の誘惑では、「神の子なら、これらの石をパンに変えたらどうだ?(「マタイによる福音書」)」とサタンに迫られたのに対して、キリストはこう切り返しました。

「人はパンだけで生きるものではない。

神の口から出る一つ一つの言葉で生きる「マタイによる福音書」」。

この時キリストがサタンに切り返した言葉こそ、モーセがイスラエル人たちに、神が彼らになぜ「マナ」を与えてくれたかを思い起こさせた「申命記」の章句だったのです。


キリストの生涯と教えの中で、「パン」は重要な役目を果たしました。

しかしキリストの時代の「パン」は、今日私たちがグロサリーで見かける製パン会社で焼かれた「パン」ではありませんでした。

当時の「パン」は、大きく平らな岩の上で焼かれたのです。

生パンをその岩の上に押し広げて、くるくる回し、大きく平らな形にして焼き上げていたのでした。

生パンをこんなふうに焼く光景は、典型的なイタリアン・ピザのレストランで時々見かけます。

焼き上がった「パン」は、パンケーキよりは大きいけれど、紙のように薄かったのでしょう。

今日のピタパンこそ、当時の「パン」の現代版です。

食事の度に、一人がこの「パン」を3枚ずつ食べていました。

キリストははっきりと、「パン」を「善いものだ」と見ていました。

「わたしは命の「パン」である。

あなたたちの先祖は曠野で「マナ」を食べたが、死んでしまった。

しかしこれは「天から降ってきたパン」であり、これを食べる者は死なない。

わたしは天から降って来た、生きた「パン」である。

この「パン」を食べるなら、その人は永遠に生きる。

わたしが与える「パン」は、世を生かすためのわたしの「肉」のことである」。(ヨハネによる福音書)


「旧約聖書」に一番よく出てくる穀類は、大麦と小麦でした。

「聖書」では、小麦は51回出てきます。

小麦の収穫は、「創世記第3章14節」、大麦の取り入れは「ルツ記第1章22節」に描かれていました。

小麦は〝命の杖、穀類の王″と考えられていました。

ついには、財産の尺度に使われるようになったほどです。

大麦は、より安価で生産量も多かったです。

より貧しい人々の食べ物でした。

小麦パンを食べた家族はかなり生活水準が高いと見られ、キリストの時代は、大麦のおおよそ3倍の値段でした。

それは「ヨハネの黙示録」が書かれた、70年後でも変わりませんでした。

「わたしは4つの生き物の間から出る声のようなものがこう言うのを聞いた。

小麦は30リットルで1デナリオン(古代ローマの銀貨)、大麦は90リットル)で1デナリオン。オリーブ油と葡萄酒を損なうな」(ヨハネの黙示録)

           
            (引用ここまで)


               *****


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キリストはなにを食べていたのか?(1)・・ユダヤ教徒としてのイエス

2014-11-08 | 古代キリスト教


「キリストはなにを食べていたか?」という本を読んでみました。

なんと、図書館の「健康」の区域に並んでいたのです。

つまり「健康法」の一つとして、キリストの食生活を調べるという意図で書かれたものです。

なので最初に、翻訳者による「後書き」の説明を見てみたいと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


*****

( 引用ここから)



「後書き」

この本はイエス・キリストの食生活を「聖書」から掘り起し、それを医師としての立場から、現代の乱れた食生活と比べてどんなに理にかなっているかを説いたものです。

本書の面白さは、まずキリスト教がユダヤ教やイスラム教に比べて、霊と肉体を極端に切り離し、肉体をおとしめているのに対して、本書では「キリストが普段何を食べていたか?」という、キリストが肉体の次元に属することに照明を当てていることです。

すると、キリストがとても身近な存在に思えてきませんか?


イエスが普段何を食べていたのか?

こう問い直すと、お堅いキリスト教徒は、何という不謹慎な、と眉を吊り上げることでしょう。

それはイエスの肉体を強調するからです。

彼らにとって地上のキリストは、天上のキリストの幻影だからです。

しかしわたし達がジャンクフードでめちゃくちゃになった肉体から回復するために、イエスと彼の同時代人(=ユダヤ教徒とイエスの弟子たち)が食べていた食べ物にならうことは、新しいイエスの福音だと言えるのではないでしょうか?


肉体をおとしめるキリスト教の極端な傾向が、ジャンクフードというジャンク(がらくた)を平気で食らう傾向の原因になってきたとさえ言えます。

地上のキリストが幻影なら、肉体で生かされている地上の私たちも幻影と言えるでしょう。

私たちは、肉体を持つがゆえに死を逃れない存在です。

だからこそキリスト教は、この肉体を粗略に扱う傾向に歯止めをかけられなかったのかもしれません。


その最たるものが、今日の消費主義です。

おそろしいことに、ジャンクフードを含めた今日の悲惨な消費主義は、ユダヤ教の「旧約聖書」、その「創世記第3章~第4章」で予告されていました。

アダムとイブは蛇にそそのかされて禁断の木の実を食べた結果、神によってエデンの園を追放されました。

二人には息子が二人いました。

小麦などを栽培する長男のカインと、大地の自然の成り物を食べ、羊などを放牧するだけの弟のアベルですが、なんとカインはアベルを殺害しました。

原因は神がアベルの生き方をよしとし、カインの生き方を喜ばなかったので、カインが嫉妬したためです。

つまり自然の成り物で生きるアベルは「狩猟採集経済」のシンボルだったのに対して、小麦を栽培するカインは、「栽培農業経済」、ひいては後の「産業経済」のシンボルでした。

「産業経済」(=カイン)が「狩猟採取経済」(=アベル)を殺したのです。

地球の資源をどんどん加工して人工製品に変えていくのが「産業経済」です。

今や、人類は石油資源を使い果たし、大気を汚染し、オゾン層を破壊しました。

そしてジャンクフードという人工の加工食品で自らの肉体を汚染しているのです。

「禁断の木の実」とは、この「産業経済」の引き金を引かせる悪しき知恵のことだったのです。


人間は地球資源を加工して、高性能製品を開発しては、神の全能の領域に迫ろうとしてきました。

この神を恐れない傲慢さ。。

この恐ろしい「聖書」の予告に、私たちはどう対処すればいいのでしょうか?

本書の著者が言うように、まずは、出来るところから始めましょう。

私たちは死を逃れない存在だからこそ、自らの肉体を大切に扱うべきなのです。

正しい食べ物を規定したユダヤ教、特に「旧約聖書」の「レビ記」に従って、短い人生を深刻な使命と緊張の中に生きた地上のキリスト。

その「ひそみ」に倣うことが、一番分かりやすい「まっとうな生き方」ではないでしょうか?


「レビ記」その他のユダヤ教の食物規定は、この世が始まった時から存在したように語られていますが、その多くは、モーゼに率いられてエジプトを脱出し、40年間砂漠をさまよった時期に生まれたものと考えられます。

昔、ヨーロッパにペストが流行をきわめた時、ユダヤ教徒だけが罹患率が極端に低かったのも、日頃の食物規定で食べ物の扱いに細心の注意を払っていたせいだったと言われています。

もっとも、そのためにキリスト教徒たちは「やつらは魔術を使って生き延びた。いやこのペスト自体、奴らが俺たちを滅ぼすために引き起こしたんだ」と勘違いして、一層ユダヤ教徒らを迫害したのでしたが。


「聖書」の物語はあくまで伝説ですが、考古学の成果で少しずつ、歴史との接続がなされてきました。

わたしはアメリカ人の精神的中枢に食い込んだ「キリスト教右派」の研究者でもありますが、

なにしろブッシュ政権の車の両輪が、「ネオコン」と「キリスト教右派」である以上、良くも悪くも、この信仰集団(全米で4000万人)は無視できない勢力なのです。

しかし昨今、この勢力は単なる無知蒙昧な人々ではなくなり、大学院出の信徒らが続出する事態です。

2006年秋の中間選挙では、彼らの28パーセントが共和党を離れて民主党に票を入れ、民主党の上下両院制覇をもたらしたと言われています。

本書の著者の人気も、「キリスト教右派」の良い方向への脱皮の現れもしれませんね。


博士が「ユダヤ教徒としてのイエス」を強調し、ユダヤ教の食物規定を重視したことは、本来のキリスト教徒の一部の反感もかいました。

しかし「キリスト教右派」の斬新さは、「終末到来の現場としてのイスラエル」の重要性にかんがみて、従来のキリスト教のように、ユダヤ教徒を「イエス殺しの元凶」呼ばわりせず、積極的にユダヤ教徒と連携し始めたことです。

ともかく産業主義の弊害に目覚め始めたアメリカ人の多くは今、懸命に自分の方向修正を図りつつあります。

同じ弊害は、日本をも襲いつつあります。

本書が、そのための解決法の一つになることを祈りたいと思います。


             (引用ここまで)


               *****


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「蛇と十字架」(2)・・卍、あるいは十字架の起源

2013-06-15 | 古代キリスト教



引き続き、安田喜憲氏の「蛇と十字架」という本のご紹介をさせていただきます。

安田氏は、ヨーロッパの古い姿に思いをはせておられます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

       
           *****


         (引用ここから)


紀元前7世紀ごろから、イタリア地方では都市国家エトルリアが大発展した。

ちょうどバルカン半島では、ギリシアが文明の発展期に入る頃であり、フェニキアが植民都市カルタゴを建設する頃にあたっていた。

エトルリアはイタリア半島南部に植民してきたギリシアと戦ったり、カルタゴと同盟を結んだりしながら、独自の文明を発展させた。


そのエトルリアの遺跡から出土した遺物を展示するローマの博物館で、私は不思議な壺をみつけた。


それは高さ60センチメートル前後の壺であった。

解説には「墓地から出土した紀元前9~7世紀の骨壺」と書かれていた。

骨壺は円錐形をして、家型の蓋がついているものが多かった。


わたしを引き付けたのは、その骨壺に描かれた文様であった。

はっきりと「蛇」を描いたもの、

2匹の「蛇」が交合している波状の文様をほどこしたもの、

さらにそれが幾何学的文様に発展した「卍」の連続文様、

そして、「卍」を一個描いたものなどがあった。


遺跡から出土した紀元前630年ごろの壺には、壺の口に2匹の「蛇」が交合する波状紋様が、

壺の中央には、鳥と聖なる木が、

そして壺の下部には、幾何学的な「卍」の連続紋が描かれていた。


大半の黒色の骨壺には、「卍」が描かれていた。

そしていくつもの「卍」が、星のような点で結ばれているものもあった。


この「卍」は、いったい何を意味するのであろうか?


エトルリアの人々も、また同盟関係にあったカルタゴの人々も、霊魂不滅の信仰をもっていた。

火葬された死体は灰にいたるまで集められ、骨壺に入れられた。

この時代、カルタゴでは人間の犠牲、とりわけ小児の犠牲がおこなわれていた。

おそらくこのエトルリアでも、小さな骨壺の中には犠牲に捧げられた小児の骨と灰が入れられていたものがあるのであろう。

そんな骨壺に、「蛇」が描かれている。


「蛇」を具象的に描いたものから、抽象的なものまで、すべて描かれた文様は「蛇」を連想させるものであった。

2匹の交合した「蛇」が波状の連続紋となり、そして幾何学的な「卍」の連続紋となり、そして最後に単独の「卍」となる。

少なくともエトルリアの骨壺に描かれた「卍」の文様は2匹の交合する「蛇」を抽象化したものに違いなかった。


またバチカン博物館には、「卍」と「X」が描いてある骨壺もあった。

「X」もまた、「卍」と同じく2匹の交合する「蛇」を抽象化したものに間違いないであろう。


そして「X」は、十字架の起源であるとも言われている。



十字架の起源を辿った時、古代地中海世界において、十字架は私たちが現在思い描くような「聖なるもの」ではなく、もっとドロドロした多神教的な性格が強いものであったのではないだろうか?

キリスト教もその起源においては、多神教的な世界から出発しているのである。

イエスキリストは、奴隷を処刑する時にしか使用しない十字架にかけられた。

そのことは十字架の起源が、元々はこうした多神教的な世界に出発していることと関わっているのではなかろうか?


しかしその十字架にイエスキリストがかけられ、処刑されたことで、十字架は人類を救済するシンボルとなった。

キリスト教は十字架を背負って誕生した。

それは多神教の世界を背負って誕生したことを意味するのではないだろうか?


イエス・キリストが本当に愛したのはパウロではなく、マリア崇拝をおこしたヨハネではなかったか?

そしてイエスは田園と自然を愛し、人を愛したのではないだろうか?

イエスのシンボルは、「X」印にPを付加したものであった。


マリア崇拝が、大地母神信仰の系譜を受け継いだ性格を強く持っていることは多く指摘されている。

キリスト教もまた大地母神の信仰から完全に自由ではないのである。


              (引用ここまで)


                 *****


壺に描かれた図形から、蛇と卍と十字架とキリスト教を一気に結び付けるのは、相当な気合が必要であろうと思いますが、とにかく著者は、そのインスピレーションに導かれて、一気に駆け抜けていくのでした。

狐ツキの人がいるように、蛇ツキの人も古来、古今東西に存在したのだと思います。

蛇については、重大な問題が存在すると思いますので、今後とも考えてゆきたいと思っております。



Wikipedia「エトルリア」より


エトルリアは、紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群。ギリシャ語ではティレニア 。

各都市国家は宗教・言語などの面で共通点があり、統一国家を形成することはなかったものの、12都市連盟と呼ばれ、ゆるやかな連合を形成し、祭司・軍事で協力することもあった。

古代ギリシアとは異なる独自の文化を持っていた。

当時としては高い建築技術を持ち、その技術は都市国家ローマの建設にも活かされた。

王政ローマの7人の王の最後の3人はエトルリア系である。

鉄を輸出し古代ギリシアの国家と貿易を行っていた。

夫婦と思われる男女の横たわる石像が残っており、男女平等の考えを持つ稀な民族だった。

ヘロドトスによれば、エトルリア人は小アジアのリディアからこの地にやってきたと言う。

一方、ハリカルナッソスのディオニュシオスは、エトルリア人はイタリア古来の民族だと述べている。

現在の調査では正式には、エトルリア人が小アジアの出自である事を直接結び付ける証拠はない。

しかしながら、ある調査ではエーゲ海のレムノス島では紀元前6世紀までインド・ヨーロッパ語ではない民族が居住していた跡が見られ、その民族の言語がエトルリア人と似ている事が指摘されている。

また、エトルリア人は海を往来する民族でもあり、古代地中海世界の至る所からその存在が記述されている。

一説には古代エジプト第20王朝に記述のある「海の民」はエトルリア人ではなかったかとも言われている。


エトルリア人について残る最も古い記述は、ヘシオドスの著した『神統記』の中に「ティレニア海の輝けるすべての民」として、イタリアにおける非ギリシア民を含む意味合いで言及されている。

ヘシオドスは彼の著作を紀元前7世紀初め頃に記しているが、この時期(紀元前690年 - 680年)の最も古いエトルリアの碑文に、すでにアルファベットの使用が認められ、これはエトルリア商人が商業地であるクマ(現ナポリ)でギリシア人との交易から、少なくともこれより70年前に学んだものであることは確実である。

エトルリアは、紀元前10世紀頃から花開いたヴィッラノーヴァ文明に端を発する。

可能性として、すでにこの半島の各地にそれぞれ異なる文化圏の形成があったと考えられ、これがかのヴィッラノーヴァ文明にほかならない。

紀元前4世紀、ローマの勢力が強くなると、周縁の都市から順に少しずつローマに併合され、最終的には完全にローマに同化した。

紀元前87年ユーリウス法で、エトルリア人もローマ市民権を得ている。


エトルリア人は独自のエトルリア語を使っていた。

エトルリア語はアルファベットで記述されているので文字を読むことはできるが、意味はすべては解読されていない。

エトルリア人はインド・ヨーロッパ語に関連する言語は話していなかったと考えられている。

最近の研究では、エトルリア社会ではエトルリア語とフェニキア語の2言語が日常的に使われていた事がわかっているが、未だ解明からは程遠い。


ヴィッラノーヴァ時代

「ヴィッラノヴィアーノ」という名は、1850年に、考古学愛好家であるジョヴァンニ・ゴッツァディーニ伯爵が、非常に変わった特徴を持つ共同墓地を発見したボローニャ郊外の小さな町ヴィッラノーヴァ(現在のカステナーゾの一地区)に由来する。

埋葬の特徴というのは、円錐を2つ合わせた形の骨壺(死者の遺品を納める)で、椀形の蓋をもち、大きな石のプレートで囲まれた空間に置かれていた。

研究者たちは、この文化の“準備期間”にあたるものが青銅器時代末期(紀元前12 - 10世紀)のマントヴァ、ウンブリア、トスカーナ、カンパーニア、シチリア、リーパリ島に見られるとしている。

ここにはすでに、のちのヴィッラノーヴァ文化で導入されるすべての要素の前触れがある。

それらは南イタリアの国々では、早くに現れたギリシア植民都市建設(紀元前8世紀)の影響のために、それ以上発展することはなかった。

頻繁に見られる要素の1つとして、遺灰(火葬)を納めるための骨壺がある。

多くのタイプがあり、精密な装飾が施されたものも多い。

直線や分割、刻印、幾何学的模様によって芸術的効果が加えられたが、使われた粘土は粗いものだった。

兵士の埋葬の場合は、円錐を2つ合わせた形の骨壺に銅製の兜で蓋がされた。

この習慣が伝わったラツィオでは、遺灰を両円錐型の壷ではなく、羊飼いの小屋の形をした壷に納めることがあった。



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