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牛殺しの風習と、牛の王・・新羅と日本(2)

2011-06-01 | 日本の不思議(古代)
引き続き、日本の源郷について、考えています。

前回と同じく、出羽弘明氏の「新羅神社と日本」の紹介をさせていただきます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

筆者の視点は国境を超え、日本とは何かという問いを投げかけます。



     *****


    (引用ここから)


水野佑は「入門・古風土記」において、

「スサノオノミコトは新羅から出雲へ移動して来た移住民集団が奉祀していた神である。

古くは出雲、壱岐など日本海沿岸では「スサヲ」という神の信仰があった。

さらに新羅第二代の王の名「次次雄」は「スサング」と同義語で巫を意味する。」

と説明している。


「次次雄」は紀元4~24年であるので、スサノオノミコトはその頃の神であろうか。

スサノオノミコトは子神の五十猛命(いそたけるのみこと)とともに新羅に降り、「ソシモリ」に住んだが、そこにいることを望まず、出雲国の鳥上山に至ったと言われている。

「記・紀」に記載されている渡来神の中では渡来が一番古い。


スサノオノミコトは新羅の人なのか、倭人なのかはっきりしないが、半島と倭国を自由に行き往来していたようである。

「古事記・日本書紀」の神話の中心はスサノオノミコトの一族(新羅系の人々)である。

このことは古代日本の国家創造に携わった人々は新羅系の人々であったということである。


朝鮮半島からの渡来は、縄文の時代から何回となく行われているが、律令制の確立とともに、古い族とその系譜、また、新しい渡来の人々に対する多くの圧迫が見られる。

桓武天皇の延暦10年には、「牛を殺して漢神をまつるを禁ずる」とある。


牛を殺して天を祀るのは大陸や半島から伝来した風習である。



環日本海文化圏

古来の九州南部と朝鮮は、同一の文化圏であった。

出雲や若狭、丹後、越などの地方も同じ文化圏であったと考えられる。

最も早くから朝鮮半島と交流があったのは、対馬を含む九州地方であったことは「魏志」の記述から見ても間違いはない。

紀元前後ごろから紀元後400年代後半ごろまで、このような状態が続いた。

      
            (引用ここまで・続く)


          *****


筆者は、紀元前後から紀元後4世紀ごろ、朝鮮半島と日本列島の人々は、日本海を仲立ちとして相当深い交流があったことを指摘しています。

スサノオが朝鮮の山を訪れた話は「日本書紀」にも記載されている事柄ですが、視点を朝鮮半島に移して考えると、朝鮮半島の人々にとって日本は活動範囲内であった、ということであると思います。

発想の転換を迫られて、大変刺激的に思います。

また、桓武天皇が「牛を殺して漢神をまつるを禁ずる」ことを指示したということですが、「牛を殺して漢神を祀っていた」という史実があったとしたら、大変興味深いことに思えます。

このような「まつり」は、どのように行われていたのでしょうか?



川村湊氏の「牛頭天王と蘇民将来」という本は、同テーマを以下のように分析しています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


          ・・・・・

   
            (引用ここから)


こうした禁令がしばしば出されること自体が、牛を犠牲獣として祭事に殺す行事や習慣があったことを示しており、雨乞いや祟りのお祓いや、祭りの供御として殺牛が行われていた。

(中略)

この殺牛の儀式が「漢神を祭る」とあるように、渡来神の祭儀における犠牲を意味していることは明らかだろう。

死穢(しえ)を忌避する神道や仏教には、動物をほふって神に捧げるという慣習はなかったと考えられる。

それは異国の異神に供御をする方法なのであり、エキゾチックで、異様な儀式と当時の日本人の目には映ったはずである。

しかしその分だけ、きわめて強烈な刺激と印象を与えたことは疑いなく、それは一種の流行神へのもてなし方として、あるいは祈念や願望を叶えるための強烈な秘法として人々をとらえたと言ってよいのである。


(中略)


またそれは、前田憲二監督の記録映画「土俗の乱声」の最初の刺激的な殺牛シーンのように、中国の苗族では、いまでに行われている祭儀であり、はるか古代に遡るものであることが定説になっている。

この苗族の祭のような「殺牛祭神」が、朝鮮ーー日本での殺牛祭神の儀式の直接的な伝播の源泉にあるものと言えるかどうかは不確かだが、こうした風習が大陸起源のものであることは明らかなのである。

       (引用ここまで)


              ・・・・・


同書については、また改めて取り上げたいと思いますが、川村氏は、「牛頭天王(ごずてんのう)」という謎めいた王への信仰の歴史から、日本には渡来民族による渡来文化の痕跡がはっきりと見られることを詳しく論証しています。



さらに、久慈力氏の「シルクロード渡来人が建国した日本」という本では、この「牛を殺して祀る」風習について、次のように論じられています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

         
             ・・・・・


               (引用ここから)


「牛頭天王」の来歴については、ユーラシア各地にさまざまな説がある。

新羅の牛頭山に天下ったスサノオだという説、朝鮮、満州の檀君(だんくん・古朝鮮を建国したとされる神)だという説、中国の盤古(ばんこ・漢民族や少数民族の神話に出てくる神)、、

(中略)

さらに遡ってペルシアのミトラ神、古代イスラエルのタゴン神、古代フェニキアのバール神まで辿れるだろう。

その根源をどんどん遡っていくと、シルクロードからオリエントにまで行き着いてしまう。


             (引用ここまで)

           
                  ・・・・・


この本も、また改めて研究したいと思っていますが、今回はこの部分のみ紹介させていただきます。

私も、「牛」と聞くと、やはりミトラス神の祭祀を連想してしまいます。

簡単に結びつけることもできないでしょうが、簡単に切り離すこともできない問題のように思います。




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wikipedia「牛頭天王」より

牛頭天王(ごずてんのう)とは、日本の神仏習合における神である。

京都祇園や播磨国広峰山に鎮座する神であり、蘇民将来説話の武塔天神と同一視された。

インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神ともされ、祇園神とも呼ばれた。

陰陽道では天道神と同一視された。

神仏習合では薬師如来の垂迹であるとともに、スサノオの本地とされた。

感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。
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2 コメント

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新羅というと (あまつのりと)
2017-11-01 15:54:12
新羅というとすぐに、半島の中国のなんて話をする方が多いのですが、新羅のガラス細工は、東洋の文化圏に属すものではなく、ローマ文化圏に属するものと考えられております。また、中国からしても新羅は、中国からの文化交流には冷淡で、独自の人々であったとされております。当然、スサノオにカバーされている牛頭天王信仰は、遠く、牛を生け贄にさざけるミトラ信仰につながると考えています。スサノオが、半島にいた地名は、切られた酋長の名前にちなんでいることから、スサノオがこの地を離れることにしたのは、別にこの地が、重要でもなかった証ではないかと思いますが、 いかがですか?
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コメントありがとうございます。 (veera)
2017-11-04 06:28:03
あまつのりと 様

コメントをどうもありがとうございます。

わたしも、牛の密儀というと、ミトラ信仰の匂いを感じる者です。
 
そもそも、日本国の正史に、こんなにはっきりと、スサノオの出自が記してあるのですから、スサノオは「異国の人」と考える他にないと思います。

また、アマテラスにしても、日本の心の故郷、というようには思えませんよね。

アマテラスも深い謎を秘めた出自を持っているように思います。

以前、アマテラスと卑弥呼と神功皇后は同じ人物ではないか、というテーマの研究者の集まりの講演会を聞きに行きましたが、研究者たちも、全く別でもないし、全く同じかどうかも分からないと言っていました。

では、スサノオとアマテラスとツクヨミとは誰なのか?と、もう一度問い直されなければならないと思います。

明らかになっていることより、不明なことの方が多いように思われるのですから。。

東洋という枠の内に入りきらない、東西交流があったのだろうと、わたしは思います。

ただし、わたしが鏡で自分の顔を見ると、典型的な黄色人種だなぁ、とも思いますが。。

心の中は、どこまでもインターナショナルに、広がってゆきたいと願っています。
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