ユダヤ教の記事がありました。
パレスチナ問題などはよく目にしますが、文化遺跡の記事は珍しいと思いました。
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「ローマ時代のイスラエル北部・・ユダヤの公共建築物か」
読売新聞2013年10月9日
イスラエル北部・下ガリラヤ地方の都市遺跡遺構を発掘調査している日本の調査隊が今夏、古代ローマ時代の石積みの大型建物跡で、ランプやコインなどユダヤ人が使った遺物を発見した。
さまざまな民族が混在していた紀元前後のこの地方に、ユダヤ人が重要な公共建築を持っていた可能性が高まった。
同遺跡は南北約350メートル、東西150メートルの卵型で、紀元前3000年ごろから紀元後200年ごろにかけて人々が生活した跡が積み重なって丘状になっている。
ローマ時代の建物跡はこれまでに約10メートル四方を発掘、5部屋がみつかっており、階段の一部が残ることから2階建てだったことが分かっている。
細長い石材を連続した窓のように組んだ「ウインドーウォール」と呼ばれる、格式の高さをうかがわせる建築手法の壁も用いられていた。
今年、建物跡からユダヤ人が用いた独特な形式のランプと、ユダヤ教で汚れを免れるとされる石製容器の多数の破片、コインなどが発見され、ユダヤ人の建物だったことが確実になった。
ランプなどの形式から、紀元前1~後2世紀ごろのものの可能性が高い。
この時代は、ローマ帝国へのユダヤ人の反乱が元で起きた2次に亘る「ユダヤ戦争」の時期にあたる。
紀元後66年に起きた「第一次ユダヤ戦争」では、エルサレムのユダヤ教神殿が破壊され、ユダヤ教の主流が神殿祭祀を行わず共同体ごとにシナゴーグ(礼拝所)を持つ形への変化が進んだとされる。
更に多くのユダヤ人がエルサレム周辺から追われて、ガリラヤ地方に散ったと言われる。
月本昭男・立教大教授(旧約聖書学)は「紀元後132年に始まる「第二次ユダヤ戦争」で放棄されるまで建物が使われた可能性がある。近くで最古級のシナゴーグがみつかる可能性もある。ユダヤ人社会が大きく変化する中で、農村部でユダヤ教がどのように信仰されたかを示す遺跡だ」と話す。
一方、同遺跡内の別の調査では、少なくとも55メートル四方に及ぶ鉄器時代の大型建物の発掘が進んでいる。
今年出土した土器などから、紀元前7~紀元前6世紀頃の建物だったことが判明した。
当時新バビロニアの傭兵としてオリエントに入っていたとされる、スキタイ人に特徴的な青銅製の矢じりも出土した。
この建物の時代は、当初はアッシリア、次いでバビロニアがこの地域を支配したとされる。
イスラエル北部では、これまでみつかった同時期の最大規模の建物で、長谷川修一・盛岡大准教授(聖書考古学)は「軍事キャンプのような施設だったのでは。帝国の交代期にどのような属州の支配が行われていたかを解明する手がかりになる」と期待している。
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wikipedia「シナゴーグ」より
シナゴーグとは、ギリシャ語のシュナゴゲー(集会所)に由来するユダヤ教の会堂のことである。
聖書には「会堂」の名で登場し、ユダヤ教会と俗称されることもある。
キリスト教の教会の前身であるが、役割はやや異なる。
もともとは聖書の朗読と解説を行う集会所であった。
現在では祈りの場であると同時に、各地のディアスポラのユダヤ人の礼拝や結婚、教育の場となり、また文化行事などを行うコミュニティーの中心的存在ともなっている。
エルサレム神殿破壊後はユダヤ教の宗教生活の中心となる。
ディアスポラ民族主義者や改革派は「神殿(Tempel)」という言葉を用いることがあるが、正統派の中にはこういった「擬似神殿」の敷居を跨ぐことを拒否するものもいる。
ディアスポラの地では改革派から超正統派までディアスポラの立場を取る者たちなどによって守られているが、イスラエルへの移住によって無人のシナゴーグ も多く出てきている。
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