一年前からの続きものです。。
ゴミ屋敷の片づけのアルバイトをした時、
ごみを片づけたら、なにが残るのか?
家とはなにか?ということを考えて、書いたものがありました。
家といえば、まずは柱が必要か?ということで、柱のことを調べてみました。
植田文雄著「古代の立柱祭祀」からの紹介を続けます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
筆者は本書で、諏訪大社の“柱”に目を移します。
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(引用ここから)
「御柱祭り」は、諏訪湖のほとりの諏訪大社で行われる。
諏訪大社は古事記にも登場する古社で、平安時代初めの桓武天皇の代に始まったというから、1200年以上も続いていることになる。
祭りのクライマックス、柱を立てる「建御柱」(たておんばしら)はその年の5月におこなわれるが、実際は山から巨大なモミの木を切り出し、長い距離を引いて宮に来るまで3年を要している。
新しい柱を立てた3年後には、もう次の御柱祭りにとりかかっていることになる。
この祭りの起源についてはわからないことが多い。
神社が四方に建てられたことから、4の数にまつわる理由が考えられたりしている。
たとえば風水の四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)に求める説や、仏教の四天王説もある。
また朝鮮半島のソッテや、東南アジアの祭祀と比較して、聖域の区画や焼き畑農耕民の新年祭との関係を述べる学者もいる。
ただ、少し視点を変えると別の意味も見えている。
諏訪大社には、拝殿はあっても御神体の陳座する本殿はない。
御神体は背後にある御神木である。
本殿を持たない神社は、三輪山を御神体とする奈良県桜井の大神神社などごく少数で、非常に古い形態と言われる。
そうすると、諏訪大社の成立が律令期よりさかのぼる可能性も出てくる。
しかしそれでも、当初から御柱祭りが行われていた根拠はない。
御柱祭りでは、力を鼓舞するのに「木やり」が謡われる。
上社の第一声は
「御小屋の山のモミの木は、里に下りて神となる」
で、柱が神に変化することが歌われている。
よって氏子連中には、御柱が神そのもと見られている。
しかし御柱をよく見ると、てっぺんは鉛筆のようにとがっている。
これは天上の神が先端に降臨することを意味しており、神のよりしろとなっているのだ。
ちなみに正月の松竹梅も新しい年神様を迎えるためのもので、松葉、竹の笹、梅の枝がとがっていることに意味があるのだ。
また諏訪大社地方には、村落単位で行う御柱祭りが実に3000か所もあるという。
柳田国男は柱を立てる風習を日本各地に見出し、「柱松」(はしらまつ)や、「ぼんてん」と呼ばれる立柱が新年に立てられるという。
それらは山民に限らず、農民や漁民にも浸透していたようだ。
諏訪御柱祭りは激しさや巨大さから人々を惹きつけるが、起源はさておき、柱を立てる祭りへの執着は、広く深いものと言えるだろう。
(引用ここまで)
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筆者は、諏訪の御柱祭には、平安時代の律令制度を反映した、当時の一般的な祭りの部分と、平安時代より時代をさかのぼった古い文化を継承した部分とがあると述べています。
筆者が引用しているように、柳田国男も御柱の「柱」は、ヨリシロとしての「木」という要素が非常に強いと考えており、それは律令制度以前からの日本の民俗学的なテーマであると考えています。
「柱」そのものが神なのか?
それとも、「柱」は神のよりしろなのか?
そして、なぜかくも大きな木を引き出し、立てる必要があるのか?
その歴史の根源に辿りつくのは、簡単なことではないようです。
しかし、この大きな「木の柱」がもつ力強さは印象的です。
現代の心からはすでに切り離されてしまった「なにものか」に基づく原理があるのだろうとしか言いようがありません。
諏訪の御柱は4本柱。
三内丸山は6本柱。。
これらはどのように関わりあうのか?
本来この4本柱に囲まれていたのは、どのようなものだったのか?
土着神を祀る祭りだったとしたら、その神はどのような姿だったのだろう?
wikipediaに、諏訪の土着神[ミシャグジ]についての説明がありました。
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(引用ここから)
wikipedia「ミシャグジ」より
ミシャグジは、古来より日本に伝わるが、謂れのよくわからない神である。
ミシャグジ信仰は東日本の広域に渡って分布しており、主に石や樹木を依代とする神で蛇の姿をしているとも言われている。
その信仰形態や神性は多様で、地域によって差異があり、その土地の神や他の神の神性が習合されている場合がある。
信仰の分布域と重なる縄文時代の遺跡からミシャグジ神の御神体となっている物や依代とされている物と同じ物が出土している事等から、この信仰が縄文時代から存在していたと考えられている。
諏訪地方では特に諏訪の蛇神であるソソウ神と習合されたためか白蛇の姿をしているともいわれており、建御名方神や洩矢神(モレヤ神)と同一視されることもある。
この神を祀っていた守屋神社(もりやじんじゃ)では、神官に憑依して宣託を下す神とされた。
(引用ここまで)
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諏訪地方には、縄文時代からある古代的な信仰が濃厚に反映しているということです。
それは石神であり、また蛇神でもあろうということですが、そのような習俗は、一地方のみの習俗ではないように思われます。
しかし、文中に書かれている[洩矢神]という名の神は、諏訪地方の土着神であるということです。
wikipediaにおける[洩矢神]の説明は以下のようです。
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(引用ここから)
wikipedia「洩矢神」より
洩矢神(もりやしん、もれやしん)は、長野県諏訪地方を中心に信仰を集めた土着神。
諏訪信仰の一翼を担う神であり、史料としては『諏訪大明神絵詞』にその存在が確認できる。ミシャグジと同一視されることもある。
『諏訪大明神絵詞』などの伝承によれば洩矢神は古来諏訪地方を統べる神であった。
しかし建御名方神が諏訪に侵入し争いとなると、洩矢神は鉄輪を武具として迎え撃つが、建御名方神の持つ藤の枝により鉄輪が朽ちてしまい敗北した。
以後、洩矢神は諏訪地方の祭神の地位を建御名方神に譲り、その支配下に入ることとなったという。
また、その名が残る洩矢神社(長野県岡谷市川岸区橋原)はこの戦いの際の洩矢神の本陣があった場所とされる。
中世・近世においては建御名方神の末裔とされる諏訪氏が諏訪大社上社の大祝を務めたのに対し、洩矢神の末裔とされる守矢氏は筆頭神官である神長を務めた。
(引用ここまで)
・・・・・
鉄輪の武具をもつ土着神。。
しかし、藤の枝をもつ神に負けてしまうとは。
なにが起きたのか、たいへん興味深い部分です。
柱によって、天と地がつながるものならば、あらゆる建築物は柱によって切り開かれた空間をもっているように思われます。
開かれ、聖別された空間を生きる。
それが人の営みなのでしょう。
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