前回の続きです。
カレン・キング著「マグダラのマリアによる福音書」を読むことで、マリアの語るマリアの近辺の使徒たちの姿を見てみたいと思います。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどからご購入になれます。
*****
(引用ここから)
彼女は言った。
「わたしは主(イエス)を幻の中に見たのです。
そしてわたしはあの方(イエス)に言いました。
『主よ、わたしはあなたを幻の中に見ました。』
あの方は私に答えました。
『(よみがえった)わたしを見て動揺しないとは、あなたはなんとすばらしい。
心のあるところには、宝があるのです。』
わたしはあの方(イエス)に言いました。
『それでは主よ。
幻を見る者は魂によって見るのでしょうか、それとも霊によって見るのでしょうか?』
救済者(イエス)は答えました。
『人が幻を見るのは、魂によってでも、霊によってでもない。
むしろその二つの間にある知性によって見るのである。
そしてそれが。。(欠落)』
『世界にあって、わたしが拘束から解かれたのは、世界からであって、そして範型の中にあって、上なる範型からであり、また時間の中にある忘却の鎖からである。
これから先、アイオーンのしかるべき時のために、わたしは沈黙の内に休息を受けよう。』」
マリアはこれらのことを言ってから、沈黙した。
救済者(イエス)が彼女に語ったのはここまでであったから。
アンデレが答えて、兄弟姉妹たちに話しかけた。
「彼女が語った事柄について、あなた方に言いたいことがあれば、言うがよい。
わたしに関する限り、救済者(イエス)がこのようなことを言ったとは信じられない。
これらの教えはなじみのない考え方である。」
ペトロが答えて、同じような懸念を持ちだした。
彼は救済者(イエス)について彼らに尋ねた。
「あの方が私たちには隠れて、内密に女と話したのか?
私たちの方が向きを変えて、彼女に聴くことになるのか?
あの方はわたしたちを飛び超えて彼女を選んだのか?」
その時マリアが泣き、そしてペトロに言った。
「わたしの兄弟ペトロよ。
あなたは何を想像しているのですか?
わたしがこのようなことを自分一人で勝手に考えたり、あるいは救済者(イエス)について私が虚偽を語っているとでも思っているのですか?」
レビが答えてペトロに言った。
「ペトロよ、あなたは前々から怒りっぽい人だ。
あなたはまるで敵対者に対するように、この女性に議論を仕掛けている。
もし救済者(イエス)が彼女を価値ある人としたのであれば、彼女を拒否するあなたはいったい何者なのか?
たしかに、救済者の彼女に関する知識は完全に信用に値する。
あの方(イエス)が私たちより彼女の方を愛したのはもっともなことである。
むしろ、私たちは恥じ入るべきなのだ。
わたしたちは完全な人間を身にまとい、あの方がわたしたちに命じたように、わたしたち自身まことの人間を身につけ祝福の告知に向かうべきだ。
救済者(イエス)が語ったこととは違う規定や法は、一切定めないで。」
彼(レビ)はこれらのことを言った後、彼らは教えるために、そして宣教するために出て行った。
「マリアによる福音書」終
(引用ここまで)
*****
「人が幻を見るのは、魂によってでも、霊によってでもない。
むしろその二つの間にある知性によって見るのである。」
とイエスは語ったのだとマリアは言っています。
そしてマリアはそのように知性をもってして幻を見たことで、使徒たちよりイエスに近い者とされ、イエスについて述べることを求められています。
そして、イエスは語りました。
「これから先、アイオーンのしかるべき時のために、わたしは沈黙の内に休息を受けよう。」
と、本当にイエスが言ったのだとすれば、イエスは今安らかに休息しているのでしょう。
そうだとすれば、それはよかったと思わずにいられません。
イエスが言う“しかるべき時”とはいつなのか、触れられていませんが、あまり切迫した感じはありません。
歴史を予言の実現としてとらえる思考形態からのへだたりを感じます。
そして、マリアが聞いた言葉はこれで終わりだと語られます。
もし、そうだとすると、他の福音書のおびただしい言葉はなんだったのだろうということになります。
そしてマリアの言葉を聞いた使徒たちが、なんとも人間臭い話し合いを展開しますが、最後には使徒の一人は次のように決断したと書かれています。
「わたしたちは、あの方がわたしたちに命じたように、わたしたち自身まことの人間を身につけ祝福の告知に向かうべきだ。
救済者(イエス)が語ったこととは違う規定や法は、一切定めないで。」
イエスの後継者たちの中には、“イエスが語ったこととは違う規定や法を定めた人々もいる”ということが暗に示されているのだと思われます。
これは一体どういうことなのかをめぐって、同書は詳しく論じています。
同書の解説を少し紹介しますが、マリアが伝えたイエスの言葉は本当のものなのでしょうか?
そして、ここに書かれたような使徒たちの初歩的な話し合いは本当にあったのでしょうか?
マリアはその後自分で伝道をしたのでしょうか?
マリアは教会を建てたのでしょうか?
マリアを継ぐ者はいたのでしょうか?
*****
(引用ここから)
キリスト教の起源に関わる名作(=新約聖書)によれば、イエスは生前、男性の弟子たちに真の教えを伝えた。
復活の証人としての彼らは、地の果てまで出て行ってこの教えを広めるように命令された。
その“真の使徒たち”の教えが“サタンによって改ざんされる”のは、後代になってからであるとされる。
サタンが、“異端”という雑草の種子を使徒たちの畑に播いた、というのである。
しかし、『マリア福音書』のシナリオによれば、その雑草の種子は使徒たち自身によって播かれたのである。
ペトロやアンデレのような男性が、救済者(イエス)の教えを誤解し、教団内に不和の種子を播いたのだ。
例の名作(=新約聖書)によれば、キリスト教の教義全体はイエスによって定められ、教会の教義という形で伝えられたという。
『マリア福音書』はそうではなく、福音書の物語は未完だという。
キリスト教の教義と慣行は、普遍の原則ではない、これをそのまま受け入れることもあれば、拒否することもある、というのである。
近年歴史家はますます、「マリア福音書」の描写を、・・その(新約聖書の)仮想に基づく念入りな仕上げにも関わらず・・新約聖書の描写よりもいくつかの点で歴史的に正確であると理解するに至っている。
われわれがこの福音書に注目するのは、この最初期のキリスト教文書が調和のとれた、画一化された霊的に完全な教会の産物ではなく、意見の対立する問題をとおして機能しつづける共同体のものであるからである。
エジプト出土の古代テクストを見れば、初期のキリスト教徒が、“イエスの十字架と肉体的復活が救いにとって大切であるかどうか”といった極めて重大な問題についてさえ、同意見ではなかったことがわかる。
「マリア福音書」などの著者は、イエスの教えを自分のものにすることこそが真の弟子となり、救いに達する道であると力説している。
(引用ここまで)
*****
Wikipedia「ナグ・ハマディ写本(ナグ・ハマディ文書)」より
1945年に上エジプトのナグ・ハマディ村の近くで見つかった初期キリスト教文書。
農夫ムハンマド・アリ・サマン(Mohammed Ali Samman)が壷におさめられ、皮で綴じられたコデックス(冊子状のの写本)を土中から掘り出したことで発見された。
写本の多くはグノーシス主義の教えに関するものであるが、グノーシス主義だけでなくヘルメス思想に分類される写本やプラトンの『国家』の抄訳も含まれている。
ナグ・ハマディ写本研究の第一人者ジェームズ・ロビンソン(James Robinson)による英語版の『ナグ・ハマディ写本』の解説では、本書はもともとエジプトのパコミオス派の修道院に所蔵されていたが、司教であったアレクサンドリアのアタナシオスから367年に聖書正典ではない文書を用いないようにという指示が出た[1]ために隠匿されたのではないかとしている。
写本はコプト語で書かれているが、ギリシャ語から翻訳されたものがほとんどであると考えられている。
写本の中でもっとも有名なものは新約聖書外典である『トマスによる福音書』である。(同福音書の完全な写本はナグ・ハマディ写本が唯一。)
調査によって、ナグ・ハマディ写本に含まれるイエスの語録が1898年に発見された「オクシリンコス・パピルス」の内容とも共通することがわかっている。
そして、このイエスの語録は初期キリスト教においてさかんに引用されたものと同じであるとみなされる。
このことから本写本の成立はギリシャ語で「トマスによる福音書」が書かれた80年以降、すなわち1世紀から2世紀で、土中に秘匿されたのが3世紀から4世紀であるとみなされている。
ナグ・ハマディ文書そのものは現在カイロのコプト博物館に所蔵されており、日本語を含む各国語に翻訳されている。(日本語版は1997年から1998年にかけて岩波書店から全四冊で出版されている。)
カレン・キング著「マグダラのマリアによる福音書」を読むことで、マリアの語るマリアの近辺の使徒たちの姿を見てみたいと思います。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどからご購入になれます。
*****
(引用ここから)
彼女は言った。
「わたしは主(イエス)を幻の中に見たのです。
そしてわたしはあの方(イエス)に言いました。
『主よ、わたしはあなたを幻の中に見ました。』
あの方は私に答えました。
『(よみがえった)わたしを見て動揺しないとは、あなたはなんとすばらしい。
心のあるところには、宝があるのです。』
わたしはあの方(イエス)に言いました。
『それでは主よ。
幻を見る者は魂によって見るのでしょうか、それとも霊によって見るのでしょうか?』
救済者(イエス)は答えました。
『人が幻を見るのは、魂によってでも、霊によってでもない。
むしろその二つの間にある知性によって見るのである。
そしてそれが。。(欠落)』
『世界にあって、わたしが拘束から解かれたのは、世界からであって、そして範型の中にあって、上なる範型からであり、また時間の中にある忘却の鎖からである。
これから先、アイオーンのしかるべき時のために、わたしは沈黙の内に休息を受けよう。』」
マリアはこれらのことを言ってから、沈黙した。
救済者(イエス)が彼女に語ったのはここまでであったから。
アンデレが答えて、兄弟姉妹たちに話しかけた。
「彼女が語った事柄について、あなた方に言いたいことがあれば、言うがよい。
わたしに関する限り、救済者(イエス)がこのようなことを言ったとは信じられない。
これらの教えはなじみのない考え方である。」
ペトロが答えて、同じような懸念を持ちだした。
彼は救済者(イエス)について彼らに尋ねた。
「あの方が私たちには隠れて、内密に女と話したのか?
私たちの方が向きを変えて、彼女に聴くことになるのか?
あの方はわたしたちを飛び超えて彼女を選んだのか?」
その時マリアが泣き、そしてペトロに言った。
「わたしの兄弟ペトロよ。
あなたは何を想像しているのですか?
わたしがこのようなことを自分一人で勝手に考えたり、あるいは救済者(イエス)について私が虚偽を語っているとでも思っているのですか?」
レビが答えてペトロに言った。
「ペトロよ、あなたは前々から怒りっぽい人だ。
あなたはまるで敵対者に対するように、この女性に議論を仕掛けている。
もし救済者(イエス)が彼女を価値ある人としたのであれば、彼女を拒否するあなたはいったい何者なのか?
たしかに、救済者の彼女に関する知識は完全に信用に値する。
あの方(イエス)が私たちより彼女の方を愛したのはもっともなことである。
むしろ、私たちは恥じ入るべきなのだ。
わたしたちは完全な人間を身にまとい、あの方がわたしたちに命じたように、わたしたち自身まことの人間を身につけ祝福の告知に向かうべきだ。
救済者(イエス)が語ったこととは違う規定や法は、一切定めないで。」
彼(レビ)はこれらのことを言った後、彼らは教えるために、そして宣教するために出て行った。
「マリアによる福音書」終
(引用ここまで)
*****
「人が幻を見るのは、魂によってでも、霊によってでもない。
むしろその二つの間にある知性によって見るのである。」
とイエスは語ったのだとマリアは言っています。
そしてマリアはそのように知性をもってして幻を見たことで、使徒たちよりイエスに近い者とされ、イエスについて述べることを求められています。
そして、イエスは語りました。
「これから先、アイオーンのしかるべき時のために、わたしは沈黙の内に休息を受けよう。」
と、本当にイエスが言ったのだとすれば、イエスは今安らかに休息しているのでしょう。
そうだとすれば、それはよかったと思わずにいられません。
イエスが言う“しかるべき時”とはいつなのか、触れられていませんが、あまり切迫した感じはありません。
歴史を予言の実現としてとらえる思考形態からのへだたりを感じます。
そして、マリアが聞いた言葉はこれで終わりだと語られます。
もし、そうだとすると、他の福音書のおびただしい言葉はなんだったのだろうということになります。
そしてマリアの言葉を聞いた使徒たちが、なんとも人間臭い話し合いを展開しますが、最後には使徒の一人は次のように決断したと書かれています。
「わたしたちは、あの方がわたしたちに命じたように、わたしたち自身まことの人間を身につけ祝福の告知に向かうべきだ。
救済者(イエス)が語ったこととは違う規定や法は、一切定めないで。」
イエスの後継者たちの中には、“イエスが語ったこととは違う規定や法を定めた人々もいる”ということが暗に示されているのだと思われます。
これは一体どういうことなのかをめぐって、同書は詳しく論じています。
同書の解説を少し紹介しますが、マリアが伝えたイエスの言葉は本当のものなのでしょうか?
そして、ここに書かれたような使徒たちの初歩的な話し合いは本当にあったのでしょうか?
マリアはその後自分で伝道をしたのでしょうか?
マリアは教会を建てたのでしょうか?
マリアを継ぐ者はいたのでしょうか?
*****
(引用ここから)
キリスト教の起源に関わる名作(=新約聖書)によれば、イエスは生前、男性の弟子たちに真の教えを伝えた。
復活の証人としての彼らは、地の果てまで出て行ってこの教えを広めるように命令された。
その“真の使徒たち”の教えが“サタンによって改ざんされる”のは、後代になってからであるとされる。
サタンが、“異端”という雑草の種子を使徒たちの畑に播いた、というのである。
しかし、『マリア福音書』のシナリオによれば、その雑草の種子は使徒たち自身によって播かれたのである。
ペトロやアンデレのような男性が、救済者(イエス)の教えを誤解し、教団内に不和の種子を播いたのだ。
例の名作(=新約聖書)によれば、キリスト教の教義全体はイエスによって定められ、教会の教義という形で伝えられたという。
『マリア福音書』はそうではなく、福音書の物語は未完だという。
キリスト教の教義と慣行は、普遍の原則ではない、これをそのまま受け入れることもあれば、拒否することもある、というのである。
近年歴史家はますます、「マリア福音書」の描写を、・・その(新約聖書の)仮想に基づく念入りな仕上げにも関わらず・・新約聖書の描写よりもいくつかの点で歴史的に正確であると理解するに至っている。
われわれがこの福音書に注目するのは、この最初期のキリスト教文書が調和のとれた、画一化された霊的に完全な教会の産物ではなく、意見の対立する問題をとおして機能しつづける共同体のものであるからである。
エジプト出土の古代テクストを見れば、初期のキリスト教徒が、“イエスの十字架と肉体的復活が救いにとって大切であるかどうか”といった極めて重大な問題についてさえ、同意見ではなかったことがわかる。
「マリア福音書」などの著者は、イエスの教えを自分のものにすることこそが真の弟子となり、救いに達する道であると力説している。
(引用ここまで)
*****
Wikipedia「ナグ・ハマディ写本(ナグ・ハマディ文書)」より
1945年に上エジプトのナグ・ハマディ村の近くで見つかった初期キリスト教文書。
農夫ムハンマド・アリ・サマン(Mohammed Ali Samman)が壷におさめられ、皮で綴じられたコデックス(冊子状のの写本)を土中から掘り出したことで発見された。
写本の多くはグノーシス主義の教えに関するものであるが、グノーシス主義だけでなくヘルメス思想に分類される写本やプラトンの『国家』の抄訳も含まれている。
ナグ・ハマディ写本研究の第一人者ジェームズ・ロビンソン(James Robinson)による英語版の『ナグ・ハマディ写本』の解説では、本書はもともとエジプトのパコミオス派の修道院に所蔵されていたが、司教であったアレクサンドリアのアタナシオスから367年に聖書正典ではない文書を用いないようにという指示が出た[1]ために隠匿されたのではないかとしている。
写本はコプト語で書かれているが、ギリシャ語から翻訳されたものがほとんどであると考えられている。
写本の中でもっとも有名なものは新約聖書外典である『トマスによる福音書』である。(同福音書の完全な写本はナグ・ハマディ写本が唯一。)
調査によって、ナグ・ハマディ写本に含まれるイエスの語録が1898年に発見された「オクシリンコス・パピルス」の内容とも共通することがわかっている。
そして、このイエスの語録は初期キリスト教においてさかんに引用されたものと同じであるとみなされる。
このことから本写本の成立はギリシャ語で「トマスによる福音書」が書かれた80年以降、すなわち1世紀から2世紀で、土中に秘匿されたのが3世紀から4世紀であるとみなされている。
ナグ・ハマディ文書そのものは現在カイロのコプト博物館に所蔵されており、日本語を含む各国語に翻訳されている。(日本語版は1997年から1998年にかけて岩波書店から全四冊で出版されている。)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます