7世紀の唐の時代の中国に栄えたとされる、「景教」について調べてみました。
神直道氏著「景教入門」という本を読んでみました。
はっきりとした記録が少なく、謎めいた「景教」について、わかりやすく書かれていると思います。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
筆者はまず、「景教」という言葉について、「はじめに」という部分で述べています。
*****
(引用ここから)
キリスト教で異端とされたネストリウス派が、シリアからイランに入り、更に東漸した。
唐・太宗の時(西暦635年)、阿羅本(アラボン)と表記される人物によって正式に入唐し、長安で歓迎され、布教し教勢を拡張したが、武宗の代に圧迫され、衰退した。
元代に若干の復興をみたが、後にカトリック派に押され、明代にいたって消滅した。
現在では、一般に上記のように記され、常識となっている。
わずか数行の記述であり、文化史的、宗教史的な意味はまったく触れられていない。
これは当然なことであって、文献や研究論文が人の目にふれぬ場所にしまいこまれ、あるいは棚ざらしになっているからである。
「景教」という名称について、少し考えてみたい。
唐時代およびその前後に、異国から入ってきた諸宗教の名前の付け方は、じつはなかなか興味ある問題である。
仏教=教祖の名をそのまま使用している。
梵語のブッダを漢字の表記で浮図(ふと)または浮屠(ふと)と印記し、佛、すなわち人にあらざる者、一般の人と比較して比較できないほどのすぐれた人という意味である。
マニ教=教祖マニの名をそのまま採って表音化する。
回教=ウイグル(回鵜)人が信仰していたイスラム教を、民族名の頭文字をとって名付ける。回回教(フイフイ教)ともいう。
祆教(けんきょう)=最高神アフラマズダを天の神とすることから、漢字の“示す篇”を用いて(神事をあらわす)、右に天を添えた。祭儀形式から、拝火教ともいう。
このように教祖の名、信仰民族の名、最高神または祭儀形態から、諸教が名づけられているのに対し、景教のみは抽象的な意味の「景」が使われている。
景教は「大秦景教流行中国碑」という碑文が発見され、その中に「強いて景教と称す」とあるところから一般的となったが、これは自称語である。
もちろん、碑文成立前の諸経典の中に、「景教」「景尊」(メシアの意味)の文字が使用されている。
この「景」の文字をめぐり、解釈に諸説ある。
故佐伯好郎氏は「景」の文字を、「日」と「京」に分解し、京、すなわち「多い」なり「高い」などの意味であるとして、「大日教を意味する」と述べている。
筆者は大日教とはいかなる宗教なのか知らないが、多分に太陽神信仰や大日如来信仰のニュアンスを感じる。
また、光り輝く宗教の意味であるとする説もある
これは漢字の意味を日本語的に訳したにすぎない。
筆者は一つの提案として景教の唐音(king-kau)が、中世ペルシア語のjad-denに似ていることを重視したい。
ペルシア語の同語は「他とは異なる教え」という意味である。
碑文に記された「強いて景教と称する」という文の「強いて」という後の意味が生きてくることになるように思う。
「他とは異なる、すぐれた教え」というほどの意味である。
(引用ここまで)
*****
景教の全体像をとらえようと、ずいぶん努力をしたのですが、うまくいきませんでした。
それで、wikipediaの力を借りて、概観をとらえようと思います。
・・・・・
wikipedia「大秦景教流行中国碑」より
大秦景教流行中国碑(だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ)は、明末に長安の崇聖寺の境内で発掘された古碑。
ネストリウス派(景教)の教義や中国への伝来などを刻す。
唐代781年(建中2年)に「伊斯」が建立した。碑文は「景浄」。
古代キリスト教関連の古碑ということで世界的に有名。
現在西安碑林博物館に保管されている。
431年にエフェソス公会議で異端として禁止されたネストリウス派は、西アジア・中央アジアに伝播。
そのころ唐は西方に国威を伸長しており、635年(貞観9年)「阿羅本」という者が始めて景教を中国に伝えた。
それから約150年間、不遇の時代もあったものの王朝の保護もあり隆盛。
781年(建中2年)に中央アジアバルフ出身で唐に登用された「伊斯」という人物がこの記念碑を長安の大秦寺に建立、景教の教義や中国伝来の歴史を残した。
しかし9世紀半ばに即位した武宗は、道教に傾斜し、仏教をはじめ他の宗教を弾圧(会昌の廃仏)。
景教も例に漏れず弾圧を受け、多くの大秦寺が破壊される。
その際に、碑は土中に埋没したと考えられている。
出土したのは、埋没から約800年後の明末の長安。
異説もあり年代ははっきりしないが、1623年(天啓3年)または1625年(天啓5年)出土というのが有力。
明末の陽瑪諾(洋名Emmanuel Diaz)の『唐景教碑頌正詮』の序には「大明天啓三年」とある。
出土の状況は、ポルトガルのイエズス会士セメド(Álvaro Semedo、漢名魯徳照)の『支那通史』に記されている。
出土から30年足らずで少なくとも3ヶ国語8種類の碑文の西洋語訳が出るなど、即座にヨーロッパに紹介された。
石碑は長安の金勝寺境内に碑亭を建て安置されていたが、1860年代にこの地方で回教徒による騒乱が起き、金勝寺が焼払われ碑亭も失われてしまう。
その後西安碑林に運ばれ、現在はその碑林を母体とする西安碑林博物館が所蔵している。
日本にはその模造碑が、高野山奥之院と京都大学の2ヶ所にある。
碑のシリア文字
碑は黒色の石灰石からなり、高さは台の亀趺(亀形の碑趺)を除いて約270cm、幅は平均約100cm、厚さ約28cm。
題額には「大秦景教流行中国碑」とあり、その上部に十字架が線刻されている。
碑文は32行、毎行62字、計約1900字。景浄の撰。書は呂秀巌で格調高い。
漢字の外にエストランゲロと呼ばれる当時伝導に使用された古体のシリア文字が若干刻されている。
この文字はおおよそ景教に関係ある僧侶約70人の名を記したもので、その大部分には相当する漢名を添える。
碑文は『大正新脩大蔵経』外教部に納められている。
『全唐文』にも収められているが、遺漏が多いとされる。
なお方壺島というサイトに書き下し文、日本語訳、詳注が載る。
景浄
円照が編纂した仏典目録の『貞元新定釈教目録』巻第17に、インド僧般若三蔵が胡本(ソグド語版)の『大乗理趣六波羅蜜多経』を翻訳する際、「波斯僧景淨」の協力を仰いだとある。
すなわち碑文を撰した景浄はペルシャ人であり、また般若三蔵と交流があった。
804年末に長安に入った空海が、サンスクリット語を学んだのがこの般若三蔵であり、また空海の長安での住居西明寺や般若三蔵の醴泉寺は大秦寺に近いことから、空海が景教に触れた可能性は高い。
なお、この『貞元録』は800年に徳宗へ上進されたほぼ同時代の証言なので信用できる。
・・・・・
>804年末に長安に入った空海が、サンスクリット語を学んだのがこの般若三蔵であり、また空海の長安での住居・西明寺や般若三蔵の醴泉寺は大秦寺に近いことから、空海が景教に触れた可能性は高い。
この空海が関連しているあたりが、また大変興味深いところです。
当時最先端の思想であったであろう、異端ネストリウス派キリスト教と空海、、。
空海は洗礼を受けたのでしょうか?
空海にとって、キリスト教はどのような意味を持っていたのでしょうか?
東洋と西洋の接点としての景教、、どのような教えだったのでしょうか?
ブログ内関連記事
「中国のマニ教図が奈良に所蔵されていた」
「マニ教研究6・・中国での盛衰」
「新仏出現して旧魔を除去する、という騒乱が発生する・・弥勒とアジア(6)」
「おシャカにならないホトケさん・・日本のミイラ(6)」
「古代キリスト教」カテゴリー全般
「マニ・ゾロアスター」カテゴリー全般
「ブログ内検索」で
ネストリウス 3件
ペルシア 15件
景教 2件
空海 7件
ソグド語 1件
などあります。(重複しています)