トケィヤー著「ユダヤと日本・謎の古代史」のご紹介を続けます。
40年前に書かれた本です。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
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(引用ここから)
古代ユダヤの民族は12種族あったと「旧約聖書」には述べられている。
ところがそのうちの10種族が突然、歴史上から姿を消した。
これはユダヤ世界のみならず、西欧世界の大きな謎であった。
彼らはどこへ行ってしまったのであろうか?
この失われた古代ユダヤの10種族の一つが、日本に定着したという説があるが、それを説明するにはキリスト教とユダヤ教の違い、景教について触れなければならない。
「キリスト教とユダヤ教」
現在のキリスト教は、完全にヨーロッパ化されたものである。
これは北欧の文化的伝統を強く残していて、ゲルマン的であり、民間伝承的なものを含み、その意味で本来のキリスト教とはかなり異なったものである。
キリスト教はユダヤ教から出発した。
その発祥の地はエルサレムである。
だから中近東において発生した宗教である。
したがって、これはユダヤ的な宗教であるということを理解しなければならない。
また、それが中近東的な宗教の性質をもつということも理解する必要がある。
そこにはなんらのヨーロッパ的な特徴は存在していなかったのである。
キリスト教におけるサンタクロースの話は雪の中をトナカイに引かれたそりに乗る話が有名だが、これは何らエルサレムの伝承には属していない。
エルサレムには、雪は降らないからである。
だから本来のキリスト教には、サンタクロースは存在していないのである。
これは古いヨーロッパの土俗的な民間伝承に基づくものであり、キリスト教とは完全に無縁なものなのである。
またクリスマツツリーについても同様のことがいえる。
イスラエルにはまったくクリスマスツリーという習慣はない。
これはキリスト教よりも古い、ヨーロッパの民間伝承にもとづくものなのである。
これらは単にキリスト教徒たちによって取り入れられた宗教的行事にすぎない。
キリスト教は次第にローマ的になり、ゲルマン的となり、元来持っていたユダヤ的特徴を失うに至った。
しかしながら、景教ネストリウス派はヨーロッパ的ではない。
景教は中近東の人たちによって信仰されていた。
ペルシャ人、シリア人、後に至ってアラブ人たちによって信仰された。
当然アラブ文化よりは古い起源を持っている。
だから景教徒たちの行動習慣は、その隣人たちのユダヤ人のそれと大変よく似たものであった。
彼らがキリスト教となる以前、数百年の間、この人たちはユダヤ的文化の影響の下にあり、その結果彼らは何がユダヤ教であるかということについてよく知っていたのである。
ユダヤ人たちはどのようなことをしているか、また何を信じているかなど。
古代社会においてはユダヤ人がもっとも進歩的で高度な知的能力をもっていたからである。
このような典型的なユダヤ文化における基本的な観念は、ユダヤ民族の周辺に位置する人たちによっても保たれることになったのである。
後世にいたり、キリスト教徒が出現した時、それは〝拡散されたユダヤ教”として理解されたのである。
キリスト教には非常に多くのユダヤ的特徴が取り入れられたが、ユダヤ人でなければ行えないような多くの困難は除去されていた。
たとえば何を食べてもいいし、子どもを割礼させる必要もなかった。
子どもの割礼は多くの人にとって恐怖を与えたからである。
そこでユダヤ文化に非常に接近していたこれらの人々は、すべてキリスト教に変わっていったのであった。
つまりキリスト教は〝たやすいユダヤ教“であったのである。
これが「景教とはどんなものか?」という質問に答える鍵となる。
景教徒のほとんどはユダヤ文化の心酔者であり、ユダヤ人の支持者たちによって構成されていた。
景教徒の多くの行動は、完全にユダヤ的であった。
また、きわめて正統的な立場のユダヤ的行事が行われていたのである。
そこでヨーロッパ的キリスト教徒達は、ユダヤ教徒を迫害したように景教徒も迫害したのであった。
なぜならば景教徒は、ユダヤ人のようにものを考えるからであった。
ユダヤ教においては、神はあくまでも神であり、人間はあくまでも人間だった。
神の母であるマリアなどという考え方は、景教徒においては存在しなかったのである。
ユダヤ教は唯一の神である創造主を認めた。
しかしキリスト教の基本的概念である三位一体説は、完全に拒否されたのである。
いかに説明しようとも3つのものは1つではあり得ず、1つのものは3つであることができない。
だから景教徒たちも、この三位一体説を否定した。
この時、すでにユダヤ教的に思考していたのである。
景教の宣教士たちは、ヨーロッパ的キリスト教徒たちと多くの対立点を持つようになった。
というのは、元来のキリスト教がますますヨーロッパ的になり、非ユダヤ的になっていったからである。
キリスト教宣教士会イエズス会士達が15世紀後半から16世紀初頭に中国大陸を訪れた時、数少ない景教徒と接触することになった。
彼らはもはや何の勢力も持っていなかった。
当時の景教は、すでに崩壊の過程にあったのである。
このイエズス会宣教師たちは、景教徒たちに自分達の教会に来るように招いた。
しかし景教徒たちは教会には現れなかった。
当時景教徒のために、教会は存在していなかった。
景教徒たちが神を礼拝し、宗教的雰囲気を味わいたいと思った時は、キリスト教会に行く代わりにユダヤ教の教会堂シナゴーグに行ったのである。
(引用ここまで)
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書かれていることが歴史的に信憑性があるのかどうかは、少々疑問がありますが、著者は、中近東から中国にかけて、とある連続的な文化があったという考えを述べているのだと思います。
シルクロードという言葉はなぜロマンをかきたてるのか、、それは東洋と西洋が分かちがたく重なり合った情景を呼び起こすからではないかと思います。
著者の述べるところを、ゆっくりと味わうと、今とはちがう世界が感じられるように思います。
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