梅原猛氏の「葬られた王国・古代出雲の謎を解く」を読んでみました。
いろいろなことに言及してあり、かつ全体のバランスがとれている大著だと思いました。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
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(引用ここから)
わたしはイザナギ・イザナミは縄文の神であると思う。
縄文の哲学は産みの哲学である。
タカミムスビ・カミムスビの「ムスビ」というのは、子を産むことを意味する。
このような「ムスビ」の神が、縄文時代において最も崇拝されていたことは、縄文時代にあまねく崇拝された石棒を見ても分かる。
これに対してイザナギ・イザナミに続く神々は、明らかに弥生の神であり、農耕の神々であろう。
「古事記」では国産みの後に神産みの話が続く。
イザナギはその最後にアマテラス・ツクヨミ・スサノオを産んだというが、この三人はいずれも農耕の神々である。
つまり縄文時代が終わり、弥生時代が始まるのである。
このように考えるとスサノオ、オオクニヌシの出雲神話は弥生時代の話なのであろう。
この弥生時代について、これまで紀元前5世紀から紀元後3世紀頃の間の約800年間と考えられていたのだが、放射性炭素年代測定法により、その始まりが通説より500年ほど遡った。
つまり紀元前10世紀頃にはすでに稲作農業が日本で行われていたと考えられる。
新たに認識された約3000年前の弥生時代初期に目を向ける時、われわれは古代の日本が現代の日本とははなはだ違う状況にあったことを認識しなければなるまい。
それは、かつてはこの日本列島の文化的中心は太平洋沿岸ではなく、日本海沿岸であったということである。
このような日本海沿岸の高い文化を示すものに、主として北陸地方に出土する巨大なウッドサークルの遺跡がある。
その代表的なものが能登半島の間脇遺跡であろう。
最大直径1メートルもある10本の栗の木が柱の断面を外側に向けている環状木柱列が発見された。
そのサークル状の柱の穴は幾重にも重なっていて、10本の柱が何年かに一度、立て替えられていたことを示していた。
また少し時代は後になるが、そこに無数のイルカの骨塚があったのが発見されている。
そこはおそらくアイヌの「熊送り」のように、「イルカ送り」をした場所であったのであろう。
サークル状に配された10本の柱は、生命の永劫回帰を意味するのかもしれない。
巨大な建造物の遺跡は山陰にもある。
このような伝統の下で、出雲のオオクニヌシの隠居の宮殿として、現在の出雲大社の本殿の高さの二倍もある巨大な宮殿が建てられたと見るべきであろう。
そしてもう一つ、この日本海沿岸で栄えた文明は、「玉 」の文明であった。
近年の調査で、新潟県糸魚川地方がヒスイの現産地であることが確かめられた。
この勾玉の起源を猪や魚の形をした獣型勾玉に求める梅原氏の説に、わたしはたいへん興味を覚えた。
アイヌ語は縄文語の名残を留めている言語だと私は考えているが、アイヌ語の「タマ」は「カムイ」と同じように霊的な存在を意味する。
玉はまさに霊的な存在であり、特に、勾玉は霊的存在の最たるものである。
勾玉はやはり魂の形を示しているのであろう。
その魂は植物の魂であるよりは動物の魂であろう。
動物と植物の違いは、動物にははっきりと死があることである。
それは動物の肉体から魂が去っていくからであろう。
魂の去った肉体はむしろなきがらであり、縄文人にとっては全く意味のないものであった。
縄文人はそのようななきがらを山に捨てて二度と参ろうとは思わなかった。
彼らが参るのは別の墓なのである。
縄文人は人が死ねばその魂は西の空に行き、そこでほぼこの世と同じ生活をすると考えてきた。
そしてその人物の子孫に妊娠が告げられると、あの世にいる祖先の誰かの魂が選ばれ、またこ
の世に帰ってくると考えていたのである。
それゆえ魂はこの世とあの世との間を永遠に行き来するものであった。
勾玉はそのような魂を表わすものであると考えられる。
人間をはじめすべての獣の、死からの復活を願う祈りが込められている。
「古事記」にある出雲の神オオクニヌシの越の神ヌナガワヒメに対する恋の話は、同時に征服の話なのである。
勾玉文化の中心地、越はついに出雲のオオクニヌシの手に帰したのである。
出雲の地は長年、ヒスイ王国・越の支配下にあった。
その越の支配からの解放が、スサノオによる越のヤマタノオロチの退治の話であり、逆に出雲による越の征服の話がオオクニヌシの強引なヌナガワヒメとの結婚の話であろう。
(引用ここまで)
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遠い昔、日本列島の人々がどのように暮らしていたのかを想像して、心踊りました。
日本列島と大陸の間には、多くの人が行き来をしていたようです。
遺跡の調査からは、日本海を泳ぐイルカを捕って食料にしたり、ウッドサークルを作って祭祀をしていたことが明らかになっているようです。
それらの人々の動向が、日本の神話である「古事記」には隠しようもなく反映している、と著者は考えています。
縄文時代の荒々しさ、弥生時代の発展が、イザナギ・イザナミからスサノオを産み、スサノオがオオクニヌシを産んでいったという指摘は大変面白いと思いました。
またアイヌと縄文というテーマも大変興味深く思いました。
巨木でできたサークルというものも、非常に大きなテーマだと思います。
これらが地中から掘り出され、この世に再び姿を現してくれたことが奇跡のように思えます。
いろいろと調べてみたいことがたくさんあります。
wikipedia「間脇遺跡」より
真脇遺跡(まわきいせき)は、石川県鳳珠郡能登町字真脇にある縄文時代前期から晩期にいたる集落跡の遺跡である。
真脇遺跡は能登半島の先端から少し内海に入ったところにある入江の奥に位置する。
用水路工事に伴う1982-83年にかけて行われた発掘調査により発見された。
遺跡は入江奥の沖積低地の包含層の、最近の水田の土地の約1メートル下にあって、そこから約3メートル下に亙って遺跡の含まれる層が年代順に層を成していた。
そこから発掘される史料なども豊富であるため、「考古学の教科書」などとも呼ばれる。
約6000年前から約2000年前まで、採集・漁撈の生活を営む集落があったものと考えられている。
発掘で出土した厚く堆積した300体を超える大量のイルカの骨や、長さ2.5メートルもある巨大な彫刻柱、土偶、埋葬人骨、厳つい風貌の土面は後期に属する日本最古の仮面、整然とした地層などが話題を呼んだ。
この遺跡に住んでいた人々はイルカ漁を盛んに行ったらしく、大量のイルカの骨が発掘されている(特に前期-中期にかけて多く見られる)。
イルカの骨には石器の鏃や槍が残っていて、獲ったイルカは食用に供せられるほか、骨を再利用したり、油を採ったりされた。
また、イルカは、この土地だけでなく他地域との交易に使われたと考えられる。
船は出土しなかったが、船の櫂(ヤチダモ材)が出土している。
さらに中部山岳地帯や東北地方からの土器や玉が出土していることからも分かる。
遺跡最晩期の地層からは、円状に並べられたクリ材の半円柱が発掘された。
10本の柱で囲んだと思われる直径7.4メートルの環状木柱列で、各々の柱を半分に割り、丸い方を円の内側に向けている。
その太さは直径80~96センチもある。
小さな環状木柱列もあり、これらは何度も立て替えられたと考えられる。
同じ石川県金沢市で先に確認されたチカモリ遺跡の環状木柱列(ウッド・サークル)と良く似ており、注目されている。
このような巨木を用いた建物や構築物は巨木文化と呼ばれ、日本海沿岸から中央高地にかけていくつか確認されている(新潟県糸魚川市の寺地遺跡、富山市古沢の古沢A遺跡、長野県原村の阿久遺跡など)。
2000年11月の発掘で、縄文時代中期頃の盛り土で区画された大規模な集団墓地遺構が検出された。
大量の土を動かし、それを積み上げて盛り土をし、墓を造っている。
盛り土は、日本列島では、縄文時代後期に属する北海道斜里郡斜里町の環状土籬、弥生時代の墳丘墓、古墳時代の各種の古墳などがある。
人間の労働力を集中して自然の景観を変えてしまう共同作業が縄文の時代にも行われていた。
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さらに述べると国生み神話がある島根県あたりはかつて出雲の国と呼ばれ、神世から神代の大半がここで行われたと古事記は記している。
そう考えると、古事記の言う大和王権の実質の系譜は九州にありというストーリーに対する不協和音になっており、古代天皇の原点の真実が見えてくると思う。国家の原点を着実に明確化することで日本は強靭になるのではないのだろうか?
そこで考古学である四隅突出墳丘墓の扱いが気になってくる。これこそが日本最古の古墳で、出雲地域で作られていた。なのに考古学者たちは色々いって、これは弥生時代のものであり古墳時代のものではない。だから墳丘墓と名付け、原点解明を解りにくくした罪があると思う。島根を注視しないで日本の原点を語れるのだろうかという思いにいたる。
松岡将門様
コメントをどうもありがとうございました。
お返事が遅くなりまして、大変失礼いたしました。
毎日のテレビの天気予報でも、表日本と裏日本という言い方をしています。
気候でいっても、いわゆる表日本は冬もほとんど晴れており、いわゆる裏日本は雪の日々のようです。
このような日常的な感覚からすると、日本の表と裏は歴然、という感じがあるのですが、そうはいかぬがイカ屋の天ぷら。
一書にいわく、という文言は貴重だと思います。
それがなければ、私たちは歴史に触れることすらできないのですから。
まして、はなから文字の無い文明には、手も出せません。
表日本と裏日本という現在の概念は、おそらくひっくり返される運命にあるのでしょう。
ぜひまた、貴重なご高察を賜りますようお願い申し上げます。