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始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

ツングースのシャーマンの代替わり・・憑霊の人間学(4)

2013-06-04 | その他先住民族


引き続き、佐々木宏幹・鎌田東二氏共著「憑霊の人間学」にある、満州族の世界を紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                  *****


               (引用ここから)


そのスピリッツがうまく統御されている時、ツングース社会自身も、経済的なものも、生産性もうまくいく。

ところが一たび自分たちを取り巻く力、つまり精霊として意識されている存在がコントロールされないと、とたんに食物にするような野生の動物が減り、女性のメンバーは赤ちゃんを産めなくなる。

父系社会ですので、男の赤ちゃんを産んでくれないと、この社会では大問題です。

狩猟民族でありますから、頑健な身体に育てて、狩猟し、荒っぽい動物を手なづけていく男性がほしい。

もちろん女性も大事ですが、男の子が非常に大事だということになります。

ところが一族が女の子ばかり産んで、男の子が産めなくなるというと、「そろそろ自分を超えた力がマイナスに働いているようだ、氏族サマンはもっと力を出してコントロールしてくれないといけない」、こういう考え方であります。

シャーマンが若々しくて、精神的かつ身体的に非常に気力充実している頃は、自分を取り巻く目に見えない存在はみなコントロールされています。

しかしスピリットを統御していくためには、シャーマン自身だけでよいかというと、実はそうではなく、諸々の魑魅魍魎を統率するためには、ツングースのパンテオンの比較的上に属する守護霊と自分が仲良くしないといけないわけです。

そして高い守護霊を自分の身に着けて危機存亡の時には「神よ、お願いだ」とその守護霊にお願いする。
そして、その守護霊が出てきて、シャーマンを助けてやる。

その守護霊を自分のものにして、その力を借りて他の使役霊を駆使して闘わせるわけです。

シャーマンがみずから戦うのではなくて、その精霊たちを差し向けて戦わせるのです。

ところがシャーマンの体力がだんだん衰えてくると、守護霊そのものがシャーマンの言うことを聞かなくなる。

やがてますます体力が落ちて病気になりますと大変なことがおこります。


つまりマスター・オブ・スピリッツのコントロールパワーがなくなる。

それがなくなった時を狙って諸々の魑魅魍魎たちがツングース社会に雪崩うって来る。


そこで、どういうことが起こるか?

シャーマンが病気になって寝込んだとか、不幸にして死んだということになると、その氏族の全員に訳の分からない心身症が発生する。

それが「サイコメンタル・コンプレックス」と名付けたものなんです。

いままでは矢をつがえれば一発のもとに動物を殺した人が、ぼーとして原野をさまようばかりになる。

それから女の人は一生懸命革をなめしたり、男の人の矢を作ったりしていたのが、なんにもやる気が無くなってごろごろし始める。

動物も、今までのように捕れなくなり、それから子供たちを含めて病人が続出する。


そこで大騒ぎになっている時に、必ず若者の中から巫病が出てきます。

つまりシャーマンになるための心身症です。

この心身症の兆候は、神ごとの夢を見る、
日本でいえば祝詞のような唱え事をぶつぶつ口にする、
そして太鼓を欲しがるなどです。

こういうのを見ると、氏族メンバー達はまもなく出るぞ、出るぞ、とみんなでその人を囃し立ててサマンにさせる。

やがててんかんのように口からアブクなどを吐いてガタガタしますと、「これはもう神聖な救いの神が現れたのだから」と長老たちが出てきて、「早くあの男に、(あるいはあの女に)太鼓とバチを与えろ」となる。

そうしてそれをもった途端にドンツクドンツクやりだす。

その時に、今までの年寄りのシャーマンの持っていた守護霊が、次のシャーマンに引き移って、守護霊として役立っていくのです。


              (引用ここまで)


                *****


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ツングースのサマン(シャーマン)・・憑霊の人間学(3)

2013-05-31 | その他先住民族



引き続き、佐々木宏幹・鎌田東二氏共著「憑霊の人間学」を紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

この部分が、前にご紹介した新聞記事の満州族のサマン=シャーマンを扱った部分です。

テングリという言葉ははじめて聞きましたが、「青く澄みきった空」が根源的なものだとする世界観には、大変心惹かれます。


                   *****

                
                 (引用ここから)



シャーマニズムのあるところには、多かれ少なかれ神の序列、つまりパンテオンというものがある。

最もプリミティブな、、たとえばツングース族その他の北アジア諸族の場合でもそうですが、大体がパンテオンがあるんです。

強い精霊と、並みの精霊と、弱い精霊の序列と言ってもいい。

仏教でも、おしゃかさんがあり、おしゃかさんの後になると、薬師如来だとか阿弥陀如来だとかいろんな如来が出てきます。

生身の存在として悟ったのが釈迦ですから、釈迦仏が根源にあって、その下位に化身、仮仏と言いますか、地蔵菩薩や弥勒菩薩、観音菩薩などがきまして、さらにその下に明王たちがいろいろきます。

さらにその下に諸天と言いまして、天使のような存在がたくさんある。

これがスリランカに行くとスリランカの土着の多神教的なものがその中に入るわけです。

スリランカから海を渡って小乗仏教がビルマやタイに入ると、またビルマやタイの土着の神がみが下に取り入れられていく、こういう仕掛けがでてきます。

もちろん、スリランカの仏教のパンテオンの中にはヒンズー教の多神教や所在不明の神々がいっぱい入っている。


こうした仏教パンテオンの下位の神々が、仏教とともに日本に入ってきますと、大筋において僧侶は上位の仏に関わり、他方シャーマンは下位の明王や諸天に関わるという構造ができます。

その中間には、僧侶にしてシャーマンのような中間的な存在がいるということも、少なくないのです。


ユーラシア大陸の北辺地域では、一番高い神に「テングリ」などがおり、天を象徴する大きな存在で、これはなかなかシャーマンには憑かないんです。

ずーっと奥のほうにいて、宇宙全体を統一支配している神なのです。

そして「憑く」のは、位の低い下の精霊たちです。


シンコゴロフが1935年に有名な本を出版しています。

シンコゴロフの扱ったツングース族は、満州からずっと北の方に分布し、西はバイカルからモンゴルのあたり、東はオホーツク海あたりまでの広大な地域を、静かに移動して狩猟に従事している人々で、社会は父系制をとっている民族です。

そしてパオという折り畳み式の家屋に住んでいたわけです。

家族はだいたい4,5人くらい。
社会的単位は氏族(クラン)です。

ここの中には族長、クラン・チーフというのがいます。

他の社会であったならば、族長がそのまま宗教の親玉をなすのでしょうが、ここの組織の中では、いわゆるサマン=シャーマンが一番偉い。

族長というのは世俗権を握っているのだけれども、サマンがいわばツングース社会の栄枯盛衰を握っている、という位置づけになります。

サマンは男女おりますが、男が非常に多いようです。

このサマンたちの役割は、今言いましたパンテオンと関係しています。


ツングース社会の現実認識によりますと、たとえばAというクランが住んでいますね。

800人なら800人が、いくつにも分かれてパオに住んでいる。

そうすると、それを取り巻くのは原野です。

その外側にはツンドラその他、無人の荒野が取り囲んでいる。

さらにその外側には、魑魅魍魎さまざまな精霊その他が、ずっと自分たちを取り囲んでいる。

そしてその精霊たちは虎視眈々としており、少しでも油断するとツングースに襲いかかろうとしている。

しかしその力がほどほどに調整されていれば、つまり精霊とツングースのクラン社会との間で、うまく調和を保っていれば、トナカイのような動物も十分に採れる。

ところが両者のバランスが崩れると、トナカイも手に入らないし、社会もめちゃめちゃになる。

もともとトナカイが適度に飼育され、適度に増殖くし、そして皮や肉その他を自分たちに与えてくれるのが、いわば精霊たちであり、その力であると信じられているのです。

自然の力と言ってもいいでしょう。

そしてそれには風が吹くとか日が照るとか雪が降るということがありますから、天空を含めた自然の諸力、彼らはそれを「精霊」というように規定します。

つまりスピリッツが無数にあるのだと。

       
              (引用ここまで)

            
                 *****



wikipedia「テングリ」より

天神(匈奴語:撐犂(とうり)、突: 、回語:Täŋri、現代、 蒙:Тэнгэрээ(『元朝秘史』の蒙古語:騰格里(拼音:Ténggélǐ))、土:Tanrı、チャガタイ語:تنكري Tangrī)とは、アジア北方の遊牧民族に共通な、「天上世界」もしくは「天上神」、「運命神」、「創造神」を意味する概念。

中国史の史料上は、屡々「天」と訳されている。

定義と特徴

「テングリ」は中国史における「天」概念と非常に類似しており、天上世界を指すとともに運命神であることも共通している。

ただし中国史において天の人格神である天帝が北極星と同一視されているのに対し、テングリは澄みきった青空のことであると考えられており、その点で相違する。

「テングリ」崇拝は匈奴の時代から確認されている。

又、人格神としての「テングリ」はモンゴルの宇宙創造神話において「テングリ・ハイラハン」という地上を作った創造神として現れ、これも中国には見られない。

ブリヤート族の神話では「西の善きテングリ」「東の悪しきテングリ」という表現が見られ、この二元性は祆教の影響によるものとも考えられている。

又、このことからテングリは必ずしも唯一的な存在ではないことも看取され、これも天とは相違する。

テングリは男性神であり、女性神である大地に対応する。

今日においてはカムチャツカ半島からマルマラ海に至るまで遊牧民の間でシャーマニズムに基づいてテングリへの祭祀が行われている。


外のアジア諸国での影響

テングリ崇拝は中国の天命思想の影響のもとに成立したという見方が有る。

又、反対に中国の火の神「重黎(diung li)」をテングリの音写であるとし、中国の「天」はテングリから派生したものだとする見方もある。

「天」と「テングリ」のどちらかが古く、起源としてさかのぼれるかはいまのところ明らかではない。

日本の「高天原」とテングリを語彙上の結びつきがあるという見方が有る。

ポリネシアのタナガロアもテングリに由来すると考える見方も有る。

但し、以上の論は十分に検証されておらず、テングリ崇拝自体が多様な神話となって複雑なものであるため、関連性を論じるにはいまだテングリ概念自体の解明が不足している。



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満州族伝統、サマン再生、保護、観光、芽生える民族意識・・生きているシャーマニズム

2013-05-20 | その他先住民族



趣味の新聞切抜きの続きです。
まだまだ、たくさんあります。
富士山の話が中途半端ですみません。
あれこれ、いろいろと続きます。


               *****

2011年7月25日
朝日新聞

「満州族伝統、サマン再生・・保護、観光、芽生える民族意識」


吉林省九台市小韓村にある満州族の古びた民家の庭。

白い上着に青いスカートのような服を着た「サマン」の石さんは突然目を閉じ、身体を震わせた。

「ザイリ」と呼ばれる介添え役は、倒れかかった石さんを支え、額からにじんだ汗をタオルで何度も拭いた。

石さんはなにか叫ぶと、腰に巻いた金属製の筒がついた「腰鈴」をジャラン、ジャランと鳴らして踊り出した。

「大英雄神」が乗り移った瞬間だ。


石一族の守り神で、中朝国境の長白山から一足飛びにやってきたというのが、周囲の説明だ。

英雄神や蛇神、オオカミ神、虎神など約50の守護神がいるという。


この儀式は旧正月や秋の収穫後の祭りなどで行われている。

清代から11代に亘って「サマン」を輩出している石一族には現在4人の「サマン」がおり、伝統の儀式がほぼ完全な形で保存されている。

神霊や祖先の霊と交信して占いや予言をする人を指す「シャーマン」という言葉は、満州語を含むツングース語系言語の「サマン」が発祥だ。

古来、病気の治療などでも活躍し、欠くべからざる存在だった。


「大英雄神」が乗り移った石さんは、太鼓や槍を振り回して勇壮な舞を披露し、「一族は太平か?」「家族たちは元気か?」などと、満州語で問いかけた。


続いて屋内に入り、「大英雄神」を送り出す儀式に取りかかる。

石さんは、叫び声を上げて踊り続ける。

他の「サマン」達は、石さんを玄関から外に出そうとするが、もがいてなかなか外に出ない。

「サマン」達は「大英雄神がもっと武術を披露したくて去りたくないようだ」と説明してくれた。


やっと「大英雄神」が去ると、石さんは我に返った。

この間のことは何も覚えていないという。


石さんは吉林市で内装業を営む普通の若者だ。

2004年に数か月、老サマンの指導で神に捧げる文言や様々な神を呼ぶ儀式などを学び、長老たちの選考を経て「サマン」になった。


満州族の「サマン」文化は数千年前に発祥したとみられ、かつては満州族の集落には必ず「サマン」がいた。

今では20から30人が確認されているだけだ。


1950年代までは、重病にかかった幼児の中で、神が選ぶ条件とされる兆候に当てはまる子が「サマン」となった。

60年代以降は、「サマン」の教義を学ぶ子供の中から、一族の合議で素質があるとみなしたものを選ぶ形式が定着した。


石一族の長は語る。

「神々が一族の繁栄や豊作を守ってくれる。

600年前から代々受け継いできたサマン文化は貴重な遺産です」


わずか数十万人で「清」を建国し、広大な中国大陸を3世紀にわたって支配した満州族だが、1911年の辛亥革命で「清」が崩壊すると、旧支配層の満州族は排斥された。

1932年には清朝最後の皇帝が日本のかいらい国家「満州国」の建国に利用される。


戦後、侵略者と手を組んだとみなされた満州族の立場は苦しかった。

1949年に新中国が成立すると、文化大革命など政治運動の災禍が襲う。

「サマン」らは「封建時代の迷信を広めた」として捕らえられ、紅衛兵は儀式に関連した道具や書物を焼き払ったという。

石一族の長老の一人は、「家に隠れて伝統行事を守り続けた」と振り返る。


1980年代に改革開放が本格化すると、風向きが変わった。

堂々と伝統儀式を行えるようになり、「サマン文化」の研究も盛んになった。

最近は、文化財保護や観光資源として活用する観点から、地元政府も「サマン文化」に注目、「サマン文化と東北民族研究センター」と「サマン文化博物館」が相次いで開設された。

石一族の伝統儀式は無形文化財に指定された。


歴史の荒波を経て、満州語を話せる人はほとんどいなくなり、氏名も漢族と見分けがつかないほど漢化が進んだ満州族だが、時代の追い風もあって民族意識が芽生えている。

とりわけ「サマン文化」は、数少ない満州文化のシンボル的存在だ。

満州族の文化を紹介するウェブサイトも増え、満州語教室も盛況だ。

かつて満州族が重視した家系図「家譜」を作る人も増えている。

満州語の歌を歌う歌手も現れた。

「サマン文化」を研究している所長は、「われわれ満州族は服装も言語もみんな漢族と見分けがつかなくなってしまったが、祖先から伝承された「サマン文化」は満州族の根っこだ。

しっかり継承しなければ祖先に申し訳ない」と語った。


                *****


新聞は、たいがいの記事は面白くもなんともないのですが、時々こういう記事があるので、つい毎日見てしまいます。

関連記事は後ほど書きます。


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ベルベル人の祭りが再開・・ノアの方舟が着地した地の、自由人と呼ばれる人々

2013-05-09 | その他先住民族


だいぶ古い記事ですが、ベルベル人という言葉を見た時、なぜか心がときめきました。

ウィキペディアによれば、1万年以上の先住民。やっぱり。

そして、まるで世界史の教科書を読んでいるかのように、西洋・中東史の始まりから存在しつづけた人々。。

「キリスト教徒にとっては、ノアの方舟が辿り着いた聖地アララト山に住んでいた人々」という意味をもつという。

彼ら西洋地域の人々にとっては、日本で感じるよりもはるかに複雑微妙な、陰影を含んだ存在なのだろうと思います。

いわゆる「消滅言語」の問題でもあると思いました。



2010年7月21日の朝日新聞の記事です。


                *****

               (引用ここから)

「昔々・・ 物語ふたたび・・10年ぶりベルベル人の祭り」


モロッコ・アトラス山脈の奥深い村々では、独自の言語をもつ北アフリカの先住民族ベルベル人が年に1度の祭りで民話を語り次いできた。

祭りは近代化の波に押され、10年前に途絶。

しかし村人たちは、今春文化人類学専攻の学生の協力を得て、伝統の祭りを復活させた。

現地で古老の話に耳を傾けた。

モロッコ中心都市マラケシュから約6時間車に揺られ、さらに1時間近く歩く。

4000メートル級の山並みに切り込む渓谷にあるイグブラは、むき出しの岩肌に囲まれた人口約250人の山村だ。

村ではかつて、毎年秋に周辺の5村共同の収穫祭「アマワ」が5日間にわたって催され、古老らが若者や子ども達に物語を語って聞かせていた。

その祭が久々に開かれた5月2日夜、村の広場のテントに約40人が集まった。

「昔々あるところに、漁師が息子と娘とくらしておったと。。」

モハメドさんがベルベル語で語り始めた。

少年達が熱心に聞き入る。

それはグリム童話のヘンゼルとグレーテルにちょっと似たストーリーだった。

漁師の後妻の命令で、子供たちは森に捨てられる。

機転がきく妹のおかげで2人は生き延び、人食い鬼の家で暮らす。

成長し美しくなった娘の前に、漁師がやってくる。


別の老人は、賢いネズミがライオンと戦って、人間を守る物語をかたった。

また獲物のない漁師が代わりに持って帰った蛇が子どもを噛んでしまう話も。

いずれも登場人物の失敗がかもしだすユーモアと子どもたちが学ぶべき教訓を含んでいた。

祭りには周辺の村々からも大勢訪れ、地元の歌や踊りや寸劇を楽しんだ。

今回は3日間だけの開催だった。


北アフリカに残るベルベル語は、後にこの地方の支配言語となったアラビア語とは全く異なる文法を持ち、童話や民話の形式の対話など、独自の口承文学を花開かせた。

特に民話が豊かで、村では少なくとも50本ほどの物語が伝えられている。

しかし村では出稼ぎが増えて若年層が減り、「アマワ」は途絶えた。

5年前には村々に電気が入り、テレビの衛星放送が受信できるようになったことから、民話を語る機会もめっきり減ったという。

「テレビで使われるアラビア語の会話が増え、村人はベルベル語を忘れるほどでした」と話す。

カナダ・モントリオール大で文化人類学を専攻するサラさんは2年前、多くの民話が残る地域があるとの噂を聞いて村を訪問、5か月滞在して収集に取り組んだ。

イブグラ村は無医村で、電気が通った後も水道と電話はない。

当初村人らは民話に関心を示さず、不便さばかりを訴えたという。

でもサラさんの相手をしていて初めて、村人らは「自分たちの伝える民話の価値に気づいた」と村人は言う。

「復活を主導したのは村人。彼らの熱意が伝統文化を継承させた」とサラさん。

本来は秋の収穫祭のはずが、ずれ込んで春祭りになった。

しかしイスラム教指導者として村人をまとめたモハメドさんは「時代に応じて祭りも変化して当然。
今後は「伝統文化保存」と「生活の向上」の二兎を追いたい」と話す。

            ・・・

独自文化、復権の兆し

ベルベル人はアラブ人の到来以前から北アフリカにいた先住民族だ。

人口は今なお約2000万人に達し、宗主国フランスなどへの移住者も少なくない。

ベルベル系の著名人としては14世紀の大旅行家イブン・バトゥータや、両親がアルジェリア出身のサッカーの元フランス代表ジダン選手らが知られる。

一部の住民の間には反アラブ意識が強く、アラブ人主導の政府と対立することもしばしばだった。

逆に政府としてはベルベル人組織を「分離主義的」として危険視したという。

モロッコではベルベル人が人口の半数近くに達すると言われる。

険しいアトラス山脈山中に住む人が多く、発展から取り残されがち。

それが逆に口承文学や音楽、踊りなど独自の文化を育むことにつながった。

オランダ・アライダデン大学のダニエラ・メローラ准教授によると、「アトラス山中のベルベル人は性におおらかで、民話や芸能でも男女関係をユーモラスに歌うものが少なくなかった。

しかし近年はアラブ化と厳格なイスラム教の浸透で、男女を分ける傾向が強くなった」という。

ベルベル語はモロッコの公共の場から排除され、話し手が減少したが、同国の民主化の進展によって近年はやや改善されているという。

メローラ准教授は村の祭り復活について「ベルベル人としての自覚を持ち、文化を後世に伝えようとする動きが強まっている」と評価している。

                   ・・・


               (引用ここまで)


                 *****



Wikipedia「ベルベル人」より

ベルベル人は、北アフリカ(マグレブ)の広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称。

北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族である。

形質的にはコーカソイドで、宗教はイスラム教を信じる。

ヨーロッパの諸言語で Berber と表記され、日本語ではベルベルと呼ぶのは、ギリシャ語で「わけのわからない言葉を話す者」を意味するバルバロイに由来するが、自称はアマジグ、アマーズィーグ)といい、その名は「高貴な出自の人」「自由人」を意味する。


ベルベル人の先祖はタドラルト・アカクス(1万2000年前)やタッシリ・ナジェールに代表されるカプサ文化(1万年前 - 4000年前)と呼ばれる石器文化を築いた人々と考えられており、チュニジア周辺から北アフリカ全域に広がったとみられている。

ベルベル人の歴史は侵略者との戦いと敗北の連続に彩られている。

紀元前10世紀頃、フェニキア人が北アフリカの沿岸に至ってカルタゴなどの交易都市を建設すると、ヌミディアのヌミディア人やマウレタニアのマウリ人などのベルベル系先住民族は彼らとの隊商交易に従事し、傭兵としても用いられた。

古代カルタゴ(前650年–前146年)の末期、前219年の第二次ポエニ戦争でカルタゴが衰えた後、その西のヌミディア(前202年–前46年)でも紀元前112年から共和政ローマの侵攻を受けユグルタ戦争となった。

長い抵抗の末にローマ帝国に屈服し、その属州となった。

ラテン語が公用語として高い権威を持つようになり、ベルベル人の知識人や指導者もラテン語を解するようになった。

ローマ帝国がキリスト教化された後には、ベルベル人のキリスト教化が進んだ。

ローマ帝国の衰退の後、フン族の侵入に押される形でゲルマン民族であるヴァンダル人が北ヨーロッパからガリア、ヒスパニアを越えて侵入し、ベルベル人を征服してヴァンダル王国を樹立した。

王朝の公用語はゲルマン語とラテン語であり、ベルベル語はやはり下位言語であった。

ローマ帝国時代からヴァンダル王国の時代にかけて、一部のベルベル人は言語的にロマンス化し、民衆ラテン語の方言(マグレブ・ロマンス語)を話すようになった。

ヴァンダル王国は6世紀に入ると、ベルベル人の反乱や東ゴート王国との戦争により衰退し、最終的に東ローマ帝国によって征服された。

当時の東ローマ帝国はすでにギリシャ化が進んでいたため、ラテン語に代わりギリシャ語が公用語として通用した。

ベルベル語はやはり下位言語とされ、書かれることも少なかった。

7世紀に入ると、東ローマ帝国の国力の衰退を好機として、アラビア半島からアラブ人のイスラム教徒が北アフリカに侵攻した。

エジプトを征服した彼らは、その勢いを駆ってベルベル人の住む領域まで攻め込んだ。

ベルベル人はこの新たな侵略者と数十年間戦ったが、7世紀末に行われた抵抗(カルタゴの戦い (698年))を最後に大規模な戦いは終結し、8世紀初頭にウマイヤ朝のワリード1世の治世に、総督ムーサー・ビン=ヌサイルや将軍ウクバ・イブン・ナフィによっ
てベルベル人攻略の拠点カイラワーンが設置され、アラブの支配下に服した。

イスラーム帝国の支配の下、北アフリカにはアラブ人の遊牧民が多く流入し、ベルベル人との混交、ベルベルのイスラム化が急速に進んだ。

また言語的にも公用語となったアラビア語への移行が進んだ。

ベルベル語は書かれることも少なく、威信のない民衆言語にとどまった。

イスラーム帝国の支配下でも、ベルベル人は優秀な戦士として重用された。

711年にアンダルス(イベリア半島)に派遣されて西ゴート王国を滅ぼしたイスラム軍の多くはイスラムに改宗したベルベル人からなっており、その司令官であるターリク・イブン=ズィヤードは解放奴隷出身でムーサーに仕えるマワーリー(被保護者)であった。

ベルベル人は征服されたアンダルスにおいて、軍人や下級官吏としてアラブ人とロマンス語話者のイベリア人との間に立った。

彼らは数的にはアラブ人より多く、イベリア人より少なかった。

時とともに三者は遺伝的・文化的に入り混じっていき、現在のスペイン語にはアラビア語とともにベルベル語の影響が見られる。

またベルベル人の遺伝子もスペイン人やポルトガル人の遺伝子プールに影響を与えた。

イスラム化して以降のベルベル人はむしろ熱心なムスリム(イスラム教徒)となり、11世紀、12世紀にはモロッコでイスラムの改革思想を奉じる宗教的情熱に支えられたベルベル人の運動から発展した国家、ムラービト朝、ムワッヒド朝が相次いで興った。

彼らもイベリア半島に侵入し、征服王朝を樹立した。

これらはベルベル人が他民族を支配した数少ない王朝であったが、王朝の公用語はムスリムである以上アラビア語であり、ベルベル語ではなかった。

アンダルスに入ったベルベル人は当初、支配者はより一層アラブ化してアラビア語を話すようになり、下位の者は民衆に同化してロマンス語を話すようになった。

しかし年月がたち、改宗によってムスリム支配下の南部イベリアにおけるムスリムの全人口に占める割合が増加するにつれ、アラビア語の圧力はさらに高まり、ベルベル語話者やロマンス語話者の多くが民衆アラビア語に同化していった。

グラナダ王国の時代、支配下の人民の多くがロマンス語やベルベル語の影響を受けたアル・アンダルス=アラビア語を用いていたとされる。

ムワッヒド朝はアンダルスでのキリスト教徒との戦いに敗れて衰退、滅亡し、代わってモロッコ地域にはマリーン朝、チェニジア地域にはハフス朝というベルベル人王朝が興隆した。

マリーン朝はキリスト教徒の侵入に抵抗するグラナダ王国などのイスラーム勢力を支援し、イベリアのキリスト教勢力と激しい戦いを行ったが、アルジェリア地域のベルベル人王朝であるザイヤーン朝との戦いにより国力を一時失い、それに乗じたカスティーリャ王国により1340年にはチュニスが占領された。

しかしスルタンであるアブー・アルハサン・アリーにより王朝は一時的に持ち直し、1347年にはチュニスを奪回した。

しかしマリーン朝の復興は長く続かず、アブー・アルハサンの次のスルタンであるアブー・イナーン・ファーリスの死後は再び有力者同士の内紛で衰亡し、ポルトガル王国により地中海や大西洋沿岸の諸都市を占領された。

マリーン朝は最終的に15世紀の半ばに崩壊し、以後モロッコ地域は神秘主義教団の長や地方の部族が割拠する状態になった。

1492年にグラナダ王国が陥落すると、イベリアに居住していたベルベル系のムスリムは、アラブ系やイベリア系のムスリムとともにモリスコとされた。

モリスコは当初一定程度の人権を保障されていたが、やがてキリスト教への強制改宗によりイベリア人のキリスト教社会に同化させられ、それを拒む者はマグレブへと追放された(モリスコ追放)。

現在でもマグレブではこの時代にスペインから追放された人々の子孫が存在している。

16世紀には、東からオスマン帝国が進出した。

1533年にはアルジェの海賊、バルバロッサがオスマン帝国の宗主権を受け入れた。

1550年にオスマン帝国はザイヤーン朝を滅ぼした。

オスマン帝国の治下ではトルコ人による支配体制が築かれ、前近代を通じて、バーバリ諸国(英語版)におけるベルベル人のアラブ化は徐々に進んでいった。

今日アラブ人として知られる部族の多くは、実際はこの時代にアラブ語を受け入れたベルベル人部族の子孫である。

19世紀以降、マグレブ地域はフランスによる侵略と植民地支配を受けた。

フランス語がアラビア語に代わる公用語となり、アラブ人の一部にはアラビア語を捨ててフランス語に乗り換えるものもいたが、ベルベル人の一部も同様であった。

彼らはフランスの植民地支配に協力的な知識人層を形成し、フランス支配の中間層として働いた。

しかし一方で植民地支配に対する抵抗も継続し、このときベルベル人はアラブ人とともに植民地支配者のフランス人に対抗して、ムスリムとしての一体性を高めた。

しかし、独立後のマグリブ諸国では、近代国民国家を建設しようとする動きの中で、ベルベル文化への圧迫とアラブ化政策がかつてない規模で進められ、人口比の関係からもアラビア語を話す者が増えたため、20世紀後半にはベルベル語と固有文化を守っていこうとする運動が起こった。


wikipedia「コーカソイド」より

コーカソイドは、自然人類学における人種分類の概念の一つ。

欧州人を指すために使われてきたため白色人種、白人とも訳されるが、日照量の多い中東やインド亜大陸に居住したコーカソイドは肌が浅黒い者も多い。

コーカソイド とは、カスピ海と黒海に挟まれた所に実在するカフカース地方にある「コーカサス」(コーカサス山脈)に「…のような」を意味する接尾語のoidをつけた造語で、「コーカサス系の人種」という意味であり、インドから北西アジア(中近東)へ拡散し東ヨーロッパまで広範囲に拡散した。

元々はドイツの哲学者クリストフ・マイナースが提唱した用語であった。

彼に影響を受けた人類学者ブルーメンバッハが生物学上の理論として五大人種説を唱えた際、ヨーロッパに住まう人々を「コーカシアン」なる人種と定義した事で世界的に知られるようになった。

人類学が成立したヨーロッパは20世紀の半ばまで、ユダヤ教やそこから派生したキリスト教に由来する価値観が今以上に重んじられていた。

そのため、『創世記』のノアの方舟がたどり着いたとされたアララト山があるコーカサス地方はヨーロッパ人の起源地と考えられ、神聖視されていた(アルメニア教会に至っては聖地とされている)。

また聖典である『旧約聖書』の創世記1〜6章では、白い色は光・昼・人・善を表し、黒い色は闇・夜・獣・悪を表していた。

これらから初期の人類学を主導したヨーロッパ人学者は、自分たちヨーロッパ人を「ノアの箱舟でコーカサス地方にたどり着いた人々の子孫で、白い肌を持つ善なる人」と定義し、それを表した呼称として「コーカソイド」を用いたのである。

もっともアラブ人やペルシャ人も、宗教はアブラハムの宗教の1つであるイスラム教であり、コーカソイドという宗教用語を当てはめることもできるが、ヒンドゥー教を信仰するアーリア人は語源に合わないことになる。


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ドラヴィダ語の起源と系統は謎・・ロヒンギャ族のゆくえ(4)

2013-01-12 | その他先住民族


中央アジア考古学の研究者、堀晄(あきら)氏の「古代インド文明の謎」を読んでみました。続きです。

著者はインダス文明をインドだけで見ることなく、当時のオリエント世界全体の中でとらえようとしておられます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



              *****


            (引用ここから)



インドの中石器時代の人骨の形質人類学的な研究でも、それを支持する結果が出されている。

それはK・A・R・ケネディによる中石器時代人骨の研究である。

彼は12000年~9359年前と推定されるインドの遺跡から出土した人骨の形質を研究し、それらが西アジアの中石器人骨とは異なること、

またヨーロッパの後期旧石器(特に後半の前19000年頃や、前18000年~10000年)の人骨に近いことを明らかにしたのである。


中央アジアやウラル方面から出土する人骨に関するDNA分析は、ほとんど行われていないのが現実であり、形質人類学の研究成果が重要となる。

その中で特に重要なのは、P・C・ドッタの研究であろう。

彼はハラッパー遺跡から出土した人骨をイランのヒッサール遺跡3期(前3000年から2000年)及びエジプト(バダリ期など)の人骨と比較した。


この結果から彼は、

1・従来インドとイランとエジプトが同一のクラスターに入るはずはないとして、「インダス文明」ハラッパー期以前の人骨が研究されていないが、このギャップを埋めることが必要であるとした。


2・パンジャブ地方の現代人の形質は、わずかな違いは認められるものの、ハラッパー期の人骨と同系統であると結論づけた。


1について言えば、西アジアや中央アジア、ヨーロッパを含めた広い範囲の人骨の比較研究を進めなければ結論は出ないであろう。


2はきわめて重要な結果である。

「インダス文明」の人骨と現代のパキスタン北部の人々(いわゆるインド・アーリア系)が形質的に同じ系統に属するということは、歴史的に大きな民族変動がなかったことを示す可能性があるからである。


同時に彼の研究では、インダス文明のハラッパー人とイランのヒッサール人が同じクラスターに入るとされ、現代人のDNA分析データとは異なった様相が、古代インドにあった可能性も示唆されている。


現代インド諸民族のDNA研究は、民族のるつぼと言われる状況を反映し活発に行われている。

その中でも、アナラブハ・バスらの研究は広範な分析を行っており、重要である。

彼らは58のDNA比較指標を用い、次のような見通しを得た。


1・オーストラロ・アジア系が最も古くインドに定着した。

2・チベット・ビルマ系はオーストラロ・アジア系と共通する要素が多く、南中国を起点に定着していったと考えられる。

3・「ドラヴィダ系」はインドの支配的住民であったが、印欧系の侵入によって南に追いやられたと考えられる。

4・上級カーストの構成員は中央アジアの人々と極めて近い。ただし南に行くほど関係は疎遠になる。


この分析結果は、定説である「インド・アーリア侵入説」とは矛盾していない。


中央アジアを介して、印欧語族がインド世界に入ってきたことは確実であろう。

問題は考古学的発掘で得られた人骨のDNA分析が全く進められていないことである。

古代における民族移動の様相を、同時代的な資料で明らかにすることこそ、今後の課題である。


インド・アーリア語は、インドヨーロッパ系言語群の中でイラン語とグループを形成している。

最新の系統樹は、2003年にニュージーランドの言語学者グレイによって発表された。

グレイによれば、現在知られているかぎり最も古い印欧語はヒッタイト語であり、その他の印欧語諸語と分岐したのは8700年前頃と推定されている。

印欧語の拡散の古い段階で、インド・イラン諸語が東方群として分岐している。

やがてそれらはインド諸語とイラン語に分離独立してゆくのである。


インドではヒンディー語は人口のおよそ30%の人々が話し、また十分理解できる人口はおそらくこれ以上の数に及ぶ。


ドラヴィダ語はドラヴィダ族の人々が使用する諸言語で、およそ26の言語が含まれる。

ドラヴィダ語は主として南インドとスリランカで話されているが、またパキスタン、ネパール、そして東部および中央インドの特定の地域でも話されている。

ドラヴィダ語は2億人を超える人々に話されているが、孤立語として、その系統や起源は明らかではない。

ドラヴィダ語と、ウラル語およびアルタイ語のグループの間には著しい類似性が存在し、このことは両者が共通の起源よりの派生であるとはとても思えないにしても、これらの語族の間で展開のある段階において、長期間にわたる接触が存在したことを示唆する。

その他に多数のチベット、ビルマ語派(シナ・チベット語族内の語派)の言語やオーストロ・アジア語族の言語が、少数民族の間で使われている。


印欧語を話す人々は、おそらく印欧語の故地である西方から、ある段階でやってきたに違いない。

それ以前は一般に言われるように、ドラヴィダ語、そしてさらに前にはオーストロ・アジア語が使われていたのであろう。


DNA人類学の成果では、東北インドから南インドにかけては、西北インドとは異なった人間集団がいることが明らかにされている。

彼らはドラヴィダ系言語を話す人々であり、それ以前のオーストロ・アジア語を話す人々はほとんど消滅し、少数民族として存在するにすぎない。


東北インドの人々はDNAの分類では南インドの人々と同じグループをなすが、言語的には西北インドの影響を受け、印欧語系統の言葉を話すようになったと読み取れる。

かつての「インダス文化」地域を含めた西北インドは、インドで最も古く農耕文化が定着した地域であり、その農耕文化はイラン高原から伝えられたことは明らかである。


したがって、「インダス文化」を含めた初期農耕文化の人々は印欧語を話す集団であったと考えられる。

やがてインド・イラン系の言語から独立し、インド・アーリア語を形成していった。

インド・アーリア語が東北インド一帯に広がったのは、「インダス文化」後期から初期鉄器時代にかけての、農業拡張の時代であったと推定するのが、最も素直な解釈であろう。


  (引用ここまで)

 
   *****


>かつての「インダス文化」地域を含めた西北インドは、インドで最も古く農耕文化が定着した地域であり、その農耕文化はイラン高原から伝えられたことは明らかである。

>したがって、「インダス文化」を含めた初期農耕文化の人々は印欧語を話す集団であったと考えられる。


私の理解違いでなければ、著者はインダス文明はインド文明と異質なものではなく、連続した文明であると考えていると思われます。

一般的にはインダス文明はドラヴィダ語を話すドラヴィダ族により作られ、アーリア人によるインド文明に淘汰されたと考えられていますが、著者はインダス文明は最初から印欧語の文明であり、理解不能のインダス文字は文字ではなく、呪文のしるしであり、ドラヴィダ語とは関係がない、ということではないかと思います。


>ドラヴィダ語は2億人を超える人々に話されているが、孤立語として、その系統や起源は明らかではない。

>ドラヴィダ語と、ウラル語およびアルタイ語のグループの間には著しい類似性が存在し、このことは両者が共通の起源よりの派生であるとはとても思えないにしても、これらの語族の間で展開のある段階において、長期間にわたる接触が存在したことを示唆する。


著者は、ドラヴィダ語は系統不明の言語であり、起源を跡付けることはできないこと、またウラル語・アルタイ語との親近性から、ドラヴィダ族は印欧語文明とは異なった民族との文化的接触があったことを想定しているのだと思われます。


>タミル(Tamiḻ)という名称は、ドラミラ Dramiḻa(ドラヴィダ Dravida)の変化した形という説もある。

wikipediaによる上記の記述も興味深く思いました。

かつて大野晋氏の「日本語タミル語起源説」が流行ったことがあったことを思い出しました。

そういったことにも考えを広げていければ、と思っています。

追い詰められ、彷徨うミャンマーのロヒンギャ族の方々の姿は、遠い遠い昔の古代ドラヴィダ族の、かつては栄え、消え去った文明を彷彿とさせるように思われます。




wikipedia「ウラル・アルタイ語族」より

ウラル・アルタイ語族は、言語の分類の一つであり、かつては、印欧語族、セム・ハム語族(現在のアフロ・アジア語族)とともに世界の3大語族とされていた。

現在、ウラル・アルタイ語族は、ウラル語族とアルタイ諸語の関連性が否定され、別々に扱われている。

日本語・朝鮮語をウラル・アルタイ語族(アルタイ諸語)に含める説もあった。

共通の特徴としては、膠着語であり、SOV語順(例外もある)、母音調和があることが挙げられる。

しかし共通する基礎語彙は(ウラル語族を除いて)ほとんどなく、上の特徴も地域特性(言語連合)である可能性が高い。

そのため現在は、それぞれウラル語族、アルタイ諸語に分類されている。


wikipedia「タミル語」より

タミル語は、ドラヴィダ語族に属する言語で、南インドのタミル人の言語である。

同じドラヴィダ語族に属するマラヤーラム語ときわめて近い類縁関係の言語だが、後者がサンスクリットからの膨大な借用語を持つのに対し、タミル語にはそれが(比較的)少ないため、主に語彙の面で隔離されており意思疎通は容易でない。

インドではタミル・ナードゥ州の公用語であり、また連邦レベルでも憲法の第8付則に定められた22の指定言語のひとつであるほか、スリランカとシンガポールでは国の公用語の一つにもなっている。

世界で18番目に多い7400万人の話者人口を持つ。

1998年に大ヒットした映画『ムトゥ 踊るマハラジャ』で日本でも一躍注目された言語である。

「タミール語」と呼称・表記されることもあるが、タミル語は母音の長短を区別する言語であり、かつ Tamiḻ の i は明白な短母音である。

そのため、原語の発音に忠実にという原則からすれば明らかに誤った表記といえる。

タミル(Tamiḻ)という名称は、ドラミラ Dramiḻa(ドラヴィダ Dravida)の変化した形という説もある。

Tamiḻ という単語自体は sweetness という意味を持つ。

なお、ドラヴィダとは中世にサンスクリットで南方の諸民族を総称した語で、彼らの自称ではなく、ドラヴィダ語族を確立したイギリス人僧侶 Caldwell による再命名である。



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アーリア人侵入説への疑問・・ロヒンギャ族のゆくえ(3)

2013-01-09 | その他先住民族


堀晄(あきら)氏の「古代インド文明の謎」という本を読んでみました。

表紙の帯には「アーリア人征服説は虚構だった」と書いてありました。

堀氏は中央アジア考古学の研究者です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                 *****


                (引用ここから)


「インド文明」の歴史は、「リグ・ヴェーダ」という神話から歴史記述が始められる極めてまれな地域である。

そして「インド文明」という場合は、アーリア出現から現在までの社会を指し、「インダス文明」は、それ以前のエピソードとして扱われることがほとんどであった。

「インダス文字」はドラヴィダ語やエラム語で解釈できるにちがいないという思い込みがあったから、その後のアーリア社会とは別物とされてきたのである。

しかし「インダス文字」がそのような“言葉”を示すものではなく、インド社会に深く根付いた行者の“呪文”に関わるものだとしたら、これまでの見方を大いに変える必要があるだろう。

インドでは長らく無文字社会が続き「ヴェーダ」などの聖典も口承で伝えられた。

「インダス文明」でも呪文が文字ではない方法で残されたが、文字そのもので経典や信仰文書が記されることはなかったのである。

(註・筆者は誰も解読できない「インダス文字」は文字ではなく呪術的な記号だと考えています)


「インダス文明」は「インド文明」そのものであり、その後の社会に大きな影響を及ぼした。

「インダス文明」は滅んだのではなく、また滅ぼされたのでもなく、紀元前2000年紀に新しい社会へと変貌していったに違いない。

「インダス文明」の遺跡モヘンジョ・ダロから出土した銅製の踊り子像は、後世インドのヤクシー(ヒンズー教の豊穣と多産の女神)そのものではないだろうか。

菩提樹に囲まれた神像が「インダス文明」の印章に刻まれているが、それは後世ブッダを菩提樹のそばにある金剛座に招いた「木の精霊」に通じてはいないだろうか。


私は「インダス文明」という名称をやめて、「インダス文化」と呼ぶことを提唱したい。

「メソポタミア文明」の最初の輝かしい時代を「シュメール文化」と呼ぶように、連綿と続く「インド文明」の一員として、その最初の花開いた時代として位置付けたいのである。


「インド文明」史は“アーリア人の侵入”というまったく証明もされていない呪縛思想によって無残な姿を呈していると私には思えてならない。

アーリア人が南ロシアから中央アジアを通って侵入し、「インダス文明」を滅ぼしたという威勢のよい説、あるいは「インダス文明」の退潮期に入り込んできたという折衷案が提示されてきたが、その根拠は言語学の仮説以外には何もないのである。

言語の伝播は人間集団の移動を前提にするものでは決してない。

政治的、経済的なさまざまな要因が絡んでおり、単純な民族移動説は19世紀の遺物に他ならない。


青銅器時代後半から初期鉄器時代の中央アジアには、他地域から侵入して在地の文化を圧倒した集団、あるいは文化は認められないであろう。

青銅器時代前期、中期、あるいは金石併用期に遡っても、この状況は変わらない。


“インド・アーリア語族、あるいはインド・イラン語族の大規模な民族移動があった”という仮説は、考古学的には支持するに足る証拠は全くない。

しかし歴史時代初頭のイランから来たインドの住民が、イラン系とインド系の人々だったことは間違いない。

とすれば、人々の移動は青銅器時代や金石併用期時代以前・・すなわち新石器時代に求めざるを得ないのである。


「インダス文明」は他の古代文明と様相が異なる。

「インダス文明」は紀元前2600年から紀元前1900年にかけて、およそ700年に亘って続き、主に農業と交易によって栄えた。

他の古代文明地域では都市文明が成立すると、やがて間をおかずに国家が形成された。

それに対し、「インダス文明」では計画に基づいた整然とした都市が建設されたが、王宮や大規模な神殿は全く見られず、圧倒的な権力者がいなかったのではないかと考えられている。



南アジア人の人類学的位置

インド・アーリア民族の侵略があったかどうか、これはなによりも人間集団の移動の問題であるから、人類学的研究が重要な役割を果たすと考えられよう。

キャバリ=スフォルツァらによると、新人類はアフリカで10~15万年前位に誕生し、旧人(ホモ・サピエンス、ネアンデルターレンシス)を滅ぼしながら世界に拡散していったと考えられている。


その拡散の一番古い波は新大陸、シベリア東端、シベリア北端、東南アジアの一部そしてアフリカ南端に分布している。


次に古いのは新大陸には達しておらず、シベリアから中国、中央アジアからインド、アフリカ北部に広がっている。


最も新しい波はヨーロッパ北部、中央アジア、イラン、アラビアに分布する。


その他のグループは旧世界に関係がないので、新世界に分布した人類が特殊化したものと考えられよう。


ここで扱われているのは新人類の拡散であるから、その時間軸は今から5万年以内に収まっている。


一番新しい拡散は、新石器時代の農業の広がりに対応するものであろう。

西アジア型農業はレヴァントからシリアにかけての地域で、1万年前頃に始まり、ヨーロッパへと広がっていった。

農業の広がりは、農民の移住と農地開発に密接に結びついていることを示している。


次にやってきた人類の拡散の波は、後期旧石器時代末期の拡散に関連しているのだろう。


北ヨーロッパ、中央アジア、南アジア、北アフリカに同じタイプの人類が分布しているということは、黒人、白人、黄色人種などという人種分類は無意味であることを示唆している。

肌の色は紫外線の強度に対する適応にすぎず、“遷移的”な分布を示すのである。


           ・・・

wikipedia「遷移 (生物学)」より

生物学分野での遷移(せんい)とは、ある環境条件下での生物群集の非周期的な変化を指す言葉である。

たとえば、野原に草が伸び、そのうちに木が生えてきて、いつの間にか森林になるような変化がそれに当たる。

           ・・・



また時間的にも、一万年程度でこのような変化が起きてしまう表面的な現象にすぎないのである。

この遺伝子分布地図によれば、北インドも南インドも、同じタイプの人類が分布し、バルチスタン以西のイラン系のタイプとは一線を画していることが注目される。

「南インドには肌の黒いドラヴィダ系民族、北インドには肌の白いアーリア系民族が住んでいる」、と一般には説明されているが、それらは肌色の傾向の違いにすぎず、遺伝子的には同じタイプに属していると考えられるのである。

彼らによる研究は、旧石器時代後期に北ヨーロッパ、中央アジア、南アジア、北アフリカに同じタイプの人類が分布していたことを示唆している。


              (引用ここまで)


                *****


大変興味深い考察だと思いました。

図書館にある「インダス文明」に関するたいていの本は、やはり「インダス文明はアーリア人の侵入以前に存在した古代文明」と説明されていましたので、「インダス文明」と「インド文明」は抗争したのではなく、穏やかに連続している、という本書の説は珍しいと思いました。

秩序や計画性はあるけれど、支配的な王様や権力者はいなかった、という「インダス文明」という古代文明には、エジプト文明ともマヤ文明とも異なった、アジア的なる精神を感じます。


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ロヒンギャ族のゆくえ(2)・・紀元前に滅びたインダス文明と、インドのドラヴィダ人

2013-01-05 | その他先住民族




開けまして おめでとうございます。
あれこれ、いろいろなテーマに手を付けながら、年を越してしまいました。

本年もどうかよろしくお願い申し上げます。




ミャンマーの少数民族ロヒンギャ族の血筋を辿ると、インドの古い先住民族ドラヴィダ人であるということです。

ドラヴィダ人が築いたインダス文明、いまだ解読されていないインダス文字、紀元前に消滅した古代文明。。

インダス文明について、がぜん興味が湧いてきました。

吉村作治氏監修の「地上から消えた謎の文明」の中の「インダス文明」の項を見てみました。

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             *****

           (引用ここから)


インダス文明はインダス川をはじめとする河川の流域に栄えた文明で、河の恵みのもとに栄えた文明といえる。

この地域では、紀元前7000年ごろ、南アジアで最古の農耕村落遺跡であるメヘルガルがみつかっている。

そして紀元前3500年ごろには町が造られ、公益活動があったことを示す印章なども出土している。

やがて紀元前2600年ごろから、この地で計画的な都市が作られるようになる。

これがインダス文明だ。


インダス文明の都市として有名なのは、モヘンジョ=ダロ遺跡とハラッパ遺跡だが、他にもインドとパキスタンの両国で、多数の遺跡がみつかっている。

インダス文明の範囲は驚くほど広く、人々が住み慣れた環境の土地をみつけて移住したり、新たな素材や交通路を確保するために移住したりして、広がっていったものといわれている。

インダス文明を築いたのは、インドの先住民族であるドラヴィダ族だと考えられており、紀元前1800年ごろから衰退がはじまって、紀元前1500年ごろには完全に滅亡した。

滅んだ原因はよく分かっていない。


               (引用ここまで)


                *****


次に、中村元氏の「古代インド」を読んでみました。

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                *****


               (引用ここから)


インドにも氷河期があり、西暦紀元前約40万年から前20万年ごろまで続いたらしい。
それ以降の人類の遺跡がインドでみつかっている。

インドについては、考古学的時代の区分がヨーロッパにおけるように画一的にはなされ得ない。

つまり人類の使用した道具に従った旧石器、中石器、金石併用、青銅器、鉄器、鋼鉄といった諸時代の順が、インドにおいては必ずしもあてはまらない。

原始的な様式のすぐ後に発達した文化が来たり、起源不明の雑種文化がその後を占めることもあったのである。

インド地域の石器時代の人間は、集団生活をしながら、狩猟をしたり、食物を採集するなどしていた。

そしておそらく西暦紀元前6000年頃から、環境に対して積極的な態度をとるようになり、農耕による収穫を行い、家畜を飼い、土器を作り、衣服を織るようになった。

すでによく研磨された石器を使用したが、しかし最近に至るまで山岳地帯の先住民はまだこの状態にあった。


インドは古来幾多の民族の活動舞台となり、そこにおいては異なった多数の諸民族の文化が栄えたのであるが、インド文化形成活動の主導的地位を占めてきたのはアーリア人である。


しかしアーリア人がインドの内部に侵入してくる以前に、インドにはすでに他の諸民族が居住し、それぞれ異質的な、また程度の異なる諸々の文化を発達させていた。

これら先住民の生活記録は、なに一つとして今日に伝わっていないから、彼らの社会生活の詳細は今日の我々には不明となっている。

当時のインドにはムンダ人種、ドラヴィダ人種、モンゴロイド人種その他多数の先住民族が生息していた。

それらの文化の程度はまだ低かったが、ただインダス文明だけは特に注目すべきものである。


アーリア人がインドに侵入してきた時、最も主要な敵対者はドラヴィダ人であった。

ドラヴィダ人の起源はよくわからない。

「リグ・ヴェーダ神話」には、“アーリア人が神々の助けを受けて悪魔を退治した”、ということがしばしば伝えられている。

これらの“悪魔”は祭式を持たず、供儀を行わず、奇異な警戒を保ち、神々をののしるなどと言われ、彼らの宗教がアーリア人のそれと異なっていたことを示している。

インドラ神は、この“悪魔”を退治する。

彼ら“悪魔”たちは、どもった言葉を話す。

彼らは鼻が無い、と言われているから、鼻の平たいドラヴィダ人のタイプによく合致する。

おそらくドラヴィダ人に言及しているのであろう。


また「リグ・ヴェーダ」では、悪魔よりもっと人間的な存在として“先住民ダーサ”を伝えている。

彼らは諸々の氏族を構成し、諸々の城塞を持っていた。

彼らは黒い色の皮膚をし、鼻を持たず、どもった言葉を語る。

彼らは征服されて隷族となった。

したがって「リグ・ヴェーダ」において、すでに“ダーサ”とは奴隷を意味する語とされている。


当時のドラヴィダ人の文献が残っていないから、我々は後世のドラヴィダ人の生活並びに文献及び「リグ・ヴェーダ」のうちの言及に基づいて彼らの社会生活を想像するしかない。

それらによるとアーリア人が侵入してきた時には、ドラヴィダ人は大河の流域、あるいは平原の諸地に住み、森林を開拓して耕地あるいは牧場とし、小村落を形成し、部族としての集団生活を営んでいた。

そして周囲の部族の侵入を防ぐための防御施設として城塞を築いていた。


ドラヴィダ人の宗教は、詳細は不明であるが、幾多の農耕社会におけると同様に、彼らの共同社会の守護神として女神を崇拝していた。

また性器崇拝、蛇神、および樹木の崇拝をも行っていた。

インドに侵入したアーリア人は、最初のうちはこれらに嫌悪の情を抱いていたが、後にドラヴィダ人と混血し融合するにつれて、それらは特に“シヴァ神崇拝”の中に接収され、容認されるに至った。

また“蛇神崇拝”、“樹木崇拝”はその変容された形態において、インドの諸宗教の民間信仰の中にも著しい影響を及ぼし、また現在にいたるまで、ヒンドゥー教の信仰の中にも生きて働いている。

“蛇神崇拝”の変形である“竜神信仰”は、仏教と共に日本にも渡来した。

四国讃岐の金毘羅信仰の「金毘羅=コンビーラ」とは、もとはガンジス川のワニのことである。



古代インド史においては、人種的にモンゴロイド型の人々は重要な役割を果たしていない。

古代インドの先住民は政治的には侵入者であるアーリア人に征服され、その社会に吸収され、政治的自立性を失った。

彼らは奴隷としてアーリア人の社会に編入された。

しかしながら、ドラヴィダ人などのアーリア化は完全には達成されなかった。

かえってアーリア人のサンスクリット語の中にドラヴィダ人など先住民の単語が取り入れられるようなことさえもおこった。

彼らは自己の習俗、文化を守りつつ、紀元後には独自の文化の花を咲かせた。

今日でも南方インドの住民は主としてドラヴィダ人であり、ドラヴィダ系言語を語っている。

現在インドには純粋のドラヴィダ人は約1億人以上おり、インド総人口の約2割に相当する。

インド人の皮膚の色は様々であるが、白い人はだいたいアーリア人で、黒い人はドラヴィダ人など先住民の子孫である。

その他ドラヴィダ人とアーリア人、サカ人、蒙古人などが混血して成立した人種が非常に多い。

ドラヴィダ人の中にはアーリア文化の影響をほとんど受けていない人々もかなり多い。


ドラヴィダ文化の異質性ということは今日のインドでも大問題である。

独立後のインドは15年間に英語を駆逐してヒンディー語を公用語にすることに決めたが、これに対してドラヴィダ人のうちのタミル人は殊に強硬に反対し、もしヒンディー語を公用語として強制するなら、タミル語も全インドの学校で教えよ、と強調している。


                (引用ここまで)
 

                 *****


ほぼ単一民族に近い日本列島に住む日本人には、このような“人種のるつぼインド亜大陸”の長い、複雑な歴史の実態は想像を超えています。

ただ、インダス文明はアーリア人の南下によって崩壊し、以後アーリア人は特色あるインド文明を築きあげた、という教科書で習った説を今一度思い返すと、はて、駆逐されたインドの先住民族はどうなったのだろうか?という視点から、もう一度考え直してみたい気持ちが強くなりました。

“ロヒンギャ族のゆくえ”、というよりは、“ロヒンギャ族の来歴”のようなことになりますが、「インドらしさ」の源はインドの外側からもたらされたという、アーリア人の侵入説は、巨大国家インドの抱える壮大なパラドックスであるように思えてなりません。



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ロヒンギャ族のゆくえ(1)

2012-12-21 | その他先住民族


ミャンマーの少数民族ロヒンギャ族の人々が、国籍も与えられず、国内からは迫害され、また、他国に脱出しようとすると、他国に拒絶されて、行き場を失っている、という報道があり、胸が痛みます。



                     *****


「ロヒンギャ族の船沈没 バングラデシュ沖、50人不明」

朝日新聞デジタル 11月8日(木)0時54分配信

 バングラデシュ南東部のテクナフ沖のベンガル湾で7日、ミャンマー国境付近からマレーシアに向かっていた多数のイスラム教徒のロヒンギャ族らを乗せた船が沈没した。

ロイター通信によると、バングラデシュの国境警備隊などが約70人を救出したが、残りの約50人が行方不明。

ミャンマーでは、仏教徒との衝突で多数の死傷者が出たロヒンギャ族が国外に逃げる動きが続いており、こうした人々が乗船していたとみられている。

 ベンガル湾では10月28日にも、ロヒンギャ族ら約130人を乗せた船が沈没し、大半が行方不明になっている。

朝日新聞社
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121108-00000005-asahi-int


                *****


http://www.asahi.com/international/update/1031/TKY201210310720.html?ref=yahoo

【1月18日 AFP】インド政府は18日、ミャンマーからタイへの難民数百人がタイ海軍によって拘束された後、洋上へ放置されインド沖で遭難しているとし、タイ政府を強く非難した。

 インド沿岸警備隊は同日、ミャンマーとバングラデシュ国境に住むイスラム系少数民族ロヒンギャ(Rohingya)の難民数百人を救助したと発表した。

同警備隊はさらに数百人が行方不明になった恐れがあるとみている。

 インド側は、タイ沿岸にボート難民として漂着したロヒンギャの移住希望者を、タイ海軍が拘束し、外洋までけん引していき置き去りにしたと、タイ政府を非難している。

 タイ政府はこの説明を否定しているが、生存者の証言やインド沿岸警備隊の最新報告によって同政府への圧力が強まった結果、19日に人権擁護グループらと会見するとしている。


■タイ軍艦船でえい航して沖合いに放置か

 インド領アンダマン諸島とニコバル諸島を管轄する警察の幹部は、「彼らはタイ沖の島に連行され、そこで暴力を受け、無理やりボートに詰め込まれてボートごと外洋に置いていかれた」と語った。

 AFPの取材に応じたインド沿岸警備隊のS・P・シャルマ司令官によると、まだ数百人が行方不明になっている恐れがある。

インドは前月末以降、ボート4隻に乗っていた446人の難民を救出したという。

香港英字紙サンデー・モーニング・ポストも行方不明者と死者の合計が538人に上ったと報じている。

 シャルマ司令官は、難民たちはタイ当局に拘束され、エンジンや航海装備のない船で沖に放り出されたと述べた。

「数人の生存者がタイ軍によって沖までえい航されたと証言している。

海の真っただ中に置き去りにされる前に、米飯2袋、水2ガロン(約8リットル)が与えられたようだ」(シャルマ司令官)
 
 タイ政府は、分離独立を主張する南部の反政府勢力と激しく戦っており、過去5年間で3500人以上が死亡している。

このため政府はあらゆる移民の大量流入に神経をとがらせている。

 しかし、タイ側は海軍、政府ともにインド側の非難を否定している。

タイ海軍のPrachachart Sirisawat報道官は「当局は密入国者を拘束した際の通常の手続きをとった」とAFPに反論した。
 
 一方で、証拠写真やアンダマン諸島を最近訪れた欧米人旅行者らの証言が次々に明らかになり、インド側の主張を裏付けている。

浜辺に並んだ難民たちが頭上で腕を縛られている写真も報道された。



■ミャンマー軍政の迫害逃れるロヒンギャ人

 国連難民高等弁務官事務所では前週、疑惑が浮上した段階ですでにタイ政府に接触したが、これまでのところタイ政府からの回答はないという。

 イスラム系少数民族ロヒンギャの人びとは国家に属さず、ミャンマーの軍事政権に迫害されている。

このため貧困と抑圧を逃れ、毎年数千人がイスラム教国であるマレーシアへの逃亡を目指して小船での脱出を図っている。

 米ニューヨークに拠点を置く国際人権監視団体「ヒューマン・ライツ・ウオッチ」のミャンマー専門家、デビッド・マシソン氏によると、タイ経由の亡命の増加を阻止したいタイ政府はここ数年、同国沿岸に漂着したロヒンギャの難民たちに過酷な対応を行っている。

 またこうした措置は、難民たちの一部がタイの反政府勢力に合流することをタイ政府が恐れたからでもあるが、マチソン氏はそうした懸念を裏付ける証拠はないと述べた。(c)AFP



               *****

HP「ビルマ情報ネットワーク」
http://www.burmainfo.org/article/article.php?mode=1&articleid=135
には、この問題の詳しい歴史が書いてありました。

アウンサン・スーチー氏も、この問題にはノーコメントだと語っています。
ロヒンギャ族は不法移民であり、ミャンマー人と認められないと考えているのだと思われます。


               *****

「ミャンマーの民主化活動家、ロヒンギャ族への支持を拒否」
Iran Japanese Radio 2012 ・11・04



ミャンマーの民主化活動家でノーベル平和賞の受賞者であるアウンサン・スーチー氏が、ミャンマーのイスラム教徒に対する仏教徒の暴力に対し沈黙し、ロヒンギャ族のイスラム教徒への支持を拒否しています。

人口の大部分を仏教徒が占めているミャンマーには、多くのイスラム教徒も暮らしており、国連の報告によれば、ミャンマーの少数派のうちで、ロヒンギャ族のイスラム教徒が、最も虐待を受けている民族だとされています。

様々な報告によりますと、ミャンマーでのイスラム教徒に対する過激派の仏教徒の最近の攻撃により、300名以上が死亡しています。

アウンサン・スーチー氏は3日土曜、BBCのインタビューにおいて、「ロヒンギャ族のイスラム教徒を支持することはない」とし、「私は、この事件に対しては沈着冷静を保つよう求めている」と語りました。

ミャンマーのラカイン州で仏教徒の襲撃により死亡し、または住む家を追われているイスラム教徒に対する暴力について、スーチー氏が立場を表明したのははじめてのことです。

世界の人権擁護活動家は、ロヒンギャ族のイスラム教徒に対する暴力にスーチー氏が沈黙していることを強く非難しています。

世界の主要なメディアは、ミャンマーの仏教徒や政府軍によるイスラム教徒への虐待や拷問に関する証拠資料を作成しています。

主に仏教徒の閣僚から構成されているミャンマー政府は、ロヒンギャ族のイスラム教徒を少数派として正式に認めておらず、これらのイスラム教徒は現地住民ではなく、不法な移民である、と主張しています。

国連難民高等弁務官事務所の報告によりますと、今年10月の1ヶ月間だけで、ミャンマーでは2万8000人以上が民族間の暴力の拡大を恐れて、住む家を離れている」とされています。




                      *****




そこで「wikipedia」でロヒンギャ族の人種を見てみました。


ロヒンギャ族は「ミャンマーのベンガル系少数民族」とあり、ベンガル系とは、「ドラヴィダ人とアーリア人の混血」であるとありました。

ドラヴィダ人とは、古代インダス文明を作ったと考えられている人々ですから、ミャンマーにおいては少数民族とはいえ、古い民であるのだと確認しました。


                  ・・・・・


wikipedia「オーストラロイド」より

オーストラロイド(英: Australoid)は、人種概念の一つで、コーカソイド、ネグロイド、モンゴロイドと並び四大人種と呼ばれる。

オーストラリア大陸、ニューギニア、メラネシアを中心としたオセアニア州及びスンダ列島、フィリピン、タイ、スリランカ、ムンバイを中心としたインド西南部から南部などの東南アジアから南アジアにかけての地域に分布する。

ユーラシア大陸に進出した人類のうち、7 - 5万年前に、インド南部の海岸地帯からスリランカ・スンダ列島を経由し、サフール大陸(ニューギニア・オーストラリア大陸を中心とした現在のオセアニア地域。サフル大陸とも)に進出した人類の子孫と考えられている。

後には遺伝子の研究により、オーストラロイドが遺伝的に従来の狭義のモンゴロイドと近いことから、共に広義のモンゴロイドに含める学説も出た。

近年の学会では、「人種」でなく地域集団として捉える考え方が主流となってきており、その場合オーストラロイドはサフール人と称される。

遺伝的に近い、旧来の狭義のモンゴロイドである東ユーラシア人(東・東南アジア人)・南北アメリカ人(アメリカ先住民)にサフール人を含めて、以前の広義のモンゴロイドを「環太平洋人」とする学説も出ている。

オーストラロイドは一見、地域ごとに人種が枝分かれする以前の、初期ホモ・サピエンスの特徴を残しているようにも見え、しばしば原生人種などと呼ばれることがあった。

しかし遺伝的には初期人類との隔たりが大きく、かつDNA分析からは西ユーラシア人(コーカソイド)から、あるいは東ユーラシア人から分岐したことが証明されており、過酷な環境への適応によって形成された特殊な文化的なイメージと形質からそのような誤解を持たれているに過ぎない。

なおオーストラロイドは、ネグロイドと同等程度に皮膚の色が極めて濃い。

肌の色とは対照的であるが、髪の色が明色で金髪という個体がアボリジニやメラネシア人の女性や子どもによく見受けられる。

なお髪の色は 成長するにしたがってしだいに黒くなっていく。

主なオーストラロイド民族

• アボリジニ(オーストラリア大陸先住民族/インド洋大語族)
• パプア人(ニューギニア島先住民族/インド洋大語族)
• メラネシア人(メラネシアに居住/大洋州諸語)
o カナック(メラネシア系民族)
o カロリン人(メラネシア系民族)
• ネグリト人(大洋州ピグミー・メラネシアピグミー)/(アンダマン諸島・フィリピン諸島・マレー半島・スマト         ラ島・ニュージーランドの先住民族)
o セマン族(ネグリト系マレーシア先住民族のオラン・アスリで非マレー民族)
• ヴェッダ人(ベッダ族)/(セイロン島先住民族)
o セノイ族(ヴェッダ系マレーシア先住民族のオラン・アスリで非マレー民族)
• ムンダ族(北西部インド大陸先住民族だがアーリア人に追いやられてからはビハール州に移住/オーストロアジア        語族)
• ゴンド族(インドのデカン高原先住民族/ドラヴィダ語族)
• ドラヴィダ人(南インド大陸に居住)
o タミル人(インドのタミル・ナードゥ州に居住/ドラヴィダ系民族)
• ベンガル人(バングラデシュの主要民族/ドラヴィダ人とアーリア人等の混血民族)
o ロヒンギャ族(ミャンマーのベンガル系少数民族)

                   ・・・・・




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英国の原住民はヘブライ起源、という説・・ケルトの古さに関して

2009-11-30 | その他先住民族
英国では「ドルイド」の復権、復元はどのようになされたのか?ということについて、
17,18世紀イギリスで行われた、イギリス王室とヘブライ語との関連付けについて、見てみます。

時間があいてしまいましたが、ストーンヘンジについての記事です。
「ケルトの宗教ドルイディズム」から抜粋して引用しますが、
イギリスのネイティブ探しと言ってよいと思われます。

文中の「キンブリ族」については、「図説ドルイド」には以下のように書かれていますが、一般的には“正体不明の古代ヨーロッパの一民族”と考えられているようです。

   
       *****

             (引用ここから)


ゲルマン族の一部族であるキンブリー族は厳密にはケルト人ではない。

しかし首狩り、人身御供、聖なる大がまの利用などの祭儀に関しては、ケルト人と同じ習慣を持っていた。

カエサル、ストラボン、タキトゥスは皆、ゲルマン族の女祭司について記し、その主な役割は占いであり、予言の多くは戦争に係るものだったと述べている。

      (引用ここまで)

          *****



イギリスの原住民は、どこからやってきたどのような民族なのでしょう。

島国ですから、いずれの海かから渡ってきたのだと思いますが。。

それは北方民族なのでしょうか。
ケルト人なのでしょうか。
それ以外の民族なのでしょうか。

以下、「ケルトの宗教ドルイディズム」より引用します。


    *****


       (引用ここから)


英国では「ドルイド」の復権、復元はどのようになされたのか?

ここでもまた王や国家のヘブライ直系の主張は展開されているが、フランスの主張とは微妙な違いを見せている。

それは再び「ゴメル」という根拠である。

すなわちヤペテの子であるゴメル族は、「ゴメリ」と呼ばれるが、この名称の音韻はギリシア人の記録にある古代ヨーロッパの民族「キンブリ」と類音であり、またキンブリと同義の「キンメリ」と「キムリ」(ウェールズ人・ウェールズ語)が類音であると考えられた。

このことから、ウェールズ語はヘブライ語であったという説や、サクソン人の祖先である「キンブリ」族の言語こそアダムとイブによって話されていたヘブライ語だった、という説が唱えられたのであった。


「キンブリ」とは放浪の民で、海峡から森林地帯まで広範囲に居住し、ケルト人と隣接して活動していた北方民族である。

ストラボンの「地理誌」では、ケルト人と同様、奇妙な習慣をいとなむ蛮族として描かれている。


なおギリシア人は「キンブリ」族のことを「キンメリオイ」と呼んだ。

このような古典文献に記載された幻の民族を召喚して、それをノアの孫の名前と類比し、そこから英国のヘブライ的聖書的正当性を導きだしているのである。


“ゴメルの言語であるヘブライ語を話していたウェールズ人はヨーロッパで最も古い民族である。”という説が創造されたのである。

このことによって、英国王はヨーロッパ史の「最古」を保有していることが証明されるのだ。


聖書的言語起源論からケルト人の「古さ」を立証する以上の考え方は17,18世紀の英国考古学、歴史学における起源問題に枠組みを与えることになるのである。

       (引用ここまで)

              *****



写真は“ブリタニアに到着したキムリ人”(「ブリテンのキムリ人」の挿絵 1857年)
「ケルトの宗教ドルイディズム」より


WIKI「キンブリ・テウトニ戦争」より

キンブリ・テウトニ戦争とは、紀元前2世紀の終わり(紀元前113年-101年)に民族系統不明のキンブリ人、ゲルマン系の民族であるテウトニ人が、共和政ローマの本拠地であるイタリア半島へ侵攻したことによって起きた戦争である。



TGEパウエル著「ケルト人の世界」より

紀元前113年、アルプス山脈東部にあったケルト人の王国が北方からの侵入者と闘うのを支援するためにローマは派兵したが、敗れてしまった。

この侵入者はキンブリー族という名で知られる。

彼らはケルト人の地を漂泊した。

とかくするうちにチュートン族と呼ばれる人々が彼らに合流したが、このチュートン族は不確かながら北方を原郷土とする人々であり、二つの合体した勢力はローマ軍を破った。

彼らがいかなる民族であるかを軽々に推断すべきではない。

知られている彼らの指導者の名はすべて純粋にケルト的であり、チュートンという名称は「人々」を意味するケルト語のラテン形である。


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ヘブライ語とケルト人・・神官ドルイドはアブラハムを継ぐ者なり、という説

2009-08-28 | その他先住民族
引き続き、中沢新一 編著の「ケルトの宗教・ドルイディズム」という本の中の、鶴岡真弓さんの「ドルイドと創られた古代」という章より、抜粋して引用します。

ヨーロッパの人々が、カトリックの権威からはなれて、自分たちのアイデンティティを模索し始めた時、新しい視点から自分たちの歴史をみることになりました。

日本にも、「日ユ同祖論」による国の成り立ちを説く仮説が根強くあるように、ヨーロッパの人々も、ユダヤと自分たちの歴史的因縁を直観することから「我らの国の成り立ち」を模索する人々が登場しました。

一方、自分たちの魂の源として、彼らの国土に立ち並ぶ多くの古代の巨石群や、ケルトの伝説的宗教指導者であったドルイドの風貌が、彼らの心の中に、しっかりと根付いていることを明らかに意識するようになっていったのだと思います。

そして、その二つを結び合わせることで、聖書の近代的解釈が試みられ、自分たちのアイデンティティの再構築の試みがなされたのだと思います。


*****

                 (引用ここから)


ドルイドの復元やケルト人の復元は16-18世紀にキリスト教西欧で行われた「聖書という起源」への創造に深く関わらざるをえなかった。

それは厳密にいえば、西欧の諸国家の権威によってヘブライ的ないし旧約的起源へ強制的に向かわされたケルトであり、ドルイドである。

16世紀、宗教改革は、聖書に「教会の解釈」が介在することを拒否して、聖書を信者がじかに読むことを推奨した結果、聖書のテキストの研究と原型の復元が急速におこなわれることになるが、旧約聖書の言葉、つまり神の言葉であるヘブライ語の権威の再創造はルネサンス期にすでに始まっていた。

そしてこのヘブライ語の「語系」とケルト人の「人種的系譜」が思いがけないかたちで交差するこの時、ケルト語とケルト人の主題は近代的歴史学の平面に召喚される。


「ドルイド」史は、ノアやエデンの園にさかのぼる血統をヨーロッパ人が持っているという神話に寄与するのである。

すなわちヨーロッパ人はノアの3人の息子セム・ハム・ヤペテのうち、ヤペテの子の「ゴメル」を通じてノアの子孫である、という「神話」の創造である。


「西欧の国民がノアの子孫である」という起源神話は、イタリアの出身でドミニコ会の神学者にして東方学者であったジョヴァンニ・アン二ウスの偽古典的テキストから広まったものである。

アンニウスは、「大洪水後の世界に生き残った民族たちの歴史」を書き、古代史として1498年にローマとヴェネチアで出版したが、それは古代バビロニアの神官で歴史家のベロススの文書「バビロニア誌」に帰せられるものであると主張した。


「バビロニア誌」とは、ベロススが前290年ごろ書き、散逸したとされる、大洪水に関するテキストであり、これに拠ったとするのである。


同書はただちにフランス、フランドル、ドイツで翻訳されて、批判を受けながらも17世紀まで、「ヨーロッパ人のノア子孫説」をけん引したのだった。



この説をケルト人ないしガリア人の子孫であるフランスの国家ほど発展させたところはない。

ヘブライ語の復権に寄与したユートピアン、ギヨーム・ド・ポステルはヘブライ語とケルト人のつながりを強調している。

すなわち、ヘブライ語はノアの子孫に由来し、ヘブライ語からアラビア語また“間接的に”ギリシア語が派生した。

そしてノアの子の子(孫)から(直系で)ケルト人・ガリア人が出た。

ゴメルは小アジアからヨーロッパまでの未開地を割り当てられ、(旧約的な)キリスト教世界の西の地帯を治めることになったからである。


またポステルは「世界予言集(1556年)」で、「ガリア人はヘブライ語で“波に打ち勝った者”の意味であり、したがってガリア人は大洪水から生き残った者を意味する。」という伝説的語源論を展開した。

この書は「ガリアの王の祖とトロイアの王の祖が、ノアの子供にさかのぼる」という説をとっており、圧倒的にガリア人と聖書的古代を結び付ける考え方を広めるものとなった。


またゴメルはギリシア人によってガラタイ(ガラティア)と呼ばれた人々であり、ガラタイはガリア人である。
したがってゴメルはガリアの最初の王である、という説もある。


こうしたヘブライ語という神の言語を使う民の一員として、ガリア人をキリスト教の歴史時間に組み入れたアルプス以北の諸国は、ここに、古典古代の文献に描かれた「ドルイド」を“古代の族長”として、キリスト教の族長と結びつける作業を行うこととなる。

                (引用ここまで)

      *****


wiki「ノアの方舟(はこぶね)」より

ヤハヴェは地上に増えた人々やネフィリムが悪を行っているのを見て、これを洪水で滅ぼすと「神に従う無垢な人」であったノア(当時600歳)に天使アルスヤラルユル(ウリエル)を通じて告げ、ノアに箱舟の建設を命じた。

ノアとその家族8人は一生懸命働いた。

その間、ノアは伝道して、大洪水が来ることを前もって人々に知らせたが、耳を傾ける者はいなかった。

箱舟はゴフェルの木でつくられ、三階建てで内部に小部屋が多く設けられていた。

ノアは箱舟を完成させると、家族とその妻子、すべての動物のつがいを箱舟に乗せた。

洪水は40日40夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくした。
水は150日の間、地上で勢いを失わなかった。

その後、箱舟はアララト山の上にとまった。

40日のあと、ノアは鴉を放ったが、とまるところがなく帰ってきた。

さらに鳩を放したが、同じように戻ってきた。

7日後、もう一度鳩を放すと、鳩はオリーブの葉をくわえて船に戻ってきた。

さらに7日たって鳩を放すと、鳩はもう戻ってこなかった。

ノアは水が引いたことを知り、家族と動物たちと共に箱舟を出た。

そこに祭壇を築いて、焼き尽くす生け贄を神に捧げた。

神はこれに対して、ノアとその息子たちを祝福し、ノアとその息子たちと後の子孫たち、そして地上の全ての肉なるものに対し、全ての生きとし生ける物を絶滅させてしまうような大洪水は、決して起こさない事を契約した。

その契約の証として、空に虹をかけたという。

             旧約聖書『創世記』より


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ストーンヘンジは“ノアの子孫ドルイド”がつくった高貴なモニュメントであるという説

2009-08-17 | その他先住民族
ドルイドとはどのような人たちだったのかについては、かなり詳しく研究されているようですが、具体的な姿を描写するには慎重さが必要とされるようです。

文字による記録が間接的なため、神秘のベールのかなたの“老賢者”といった趣きが伝わってきますが、 遺物から見出されるものも、非常に複雑な性質で、即断ができないように思います。

それで、「聖者ドルイドとは?」、という定義をあいまいにしたまま、話をすすめます。


言えることは、聖者ドルイドの姿と伝承されるものは、白いローブをまとい、オークの木に生えるヤドリギを特に聖なるものとみなして、月夜の儀式をおこない、胸にかけた金の板で太陽光をあつめて火をたく森の隠者であり、また司法もつかさどり、ケルト社会における老賢者という立場の人々であった、ということです。

しかしこれらはあくまでもローマ人から見た印象であり、独自の伝承が残っているわけではありません。


下に引用した「ドルイド」は、“長いローブの聖者ドルイド”を、“人々を率いる古代ケルトの族長”というイメージでとらえて、考えられた概念です。

以下、中沢新一 編著の「ケルトの宗教・ドルイディズム」という本の中の、鶴岡真弓さんの「ドルイドと創られた古代」という章より、抜粋して引用します。


          *****


古代学者ストゥクリーは30歳ごろ、ストーンヘンジの上を飛び回る破壊者を描いた幻想画に特別の印象を受け、巨石に魅せられて調査をおこなうようになった。

彼はストーンヘンジという神殿をつかさどる神官“ドルイド”が、「英国国教会がいただくのと同様の族長(父権)的宗教を最初にブリタニアにもたらした伝道師である。」と明言した。

そして1726年、突然英国国教会の聖職者となるのである。

もはや一人の古代学者ではなく信仰の実践を担う伝道師となった彼は、「英国」と「族長の宗教(ドルイドの教え)」の根源的な関係についていくつもの著作をものする。

彼は 天地創造にさかのぼって、モーゼとプラトンと、宗教改革以降の英国国教会の教えによった真の宗教の存続を説き、ストーンヘンジおよびエイブベリーの巨石の考古学的検証を盾として、「その宗教はフェニキア人と一緒に来た「族長ドルイド」によってもたらされた。」と唱えたのだった。


この主張は当時のキリスト教史の概念に衝撃をもたらした。

ストゥクリーは、「ドルイド」が「族長の宗教」の伝道者であったことを次のようにも歴史化した。

「『ドルイド』は、ノアの洪水直後に、フェニキア人とともに英国に来た。」

「『ドルイド』は三位一体の観念を理解していた。また、アブラハムの信仰した族長の宗教を信仰した。」

「キリスト教は族長の宗教(ドルイド)が共和体制になったものである。」

彼は当時のイギリスを救済する象徴として、「ドルイド」を語ったのである。

彼は「洪水後、人類が再び繁栄していく時、真の宗教(キリスト教)は(ドルイドによって)ブリテン島に存続した」という見解を、エイブベリーの巨石の形態によって説明したのだ。

著作「エイブベリー・・ブリテンのドルイド神殿」の挿絵には田園の丘を蛇が這うように石の行列が何マイルも並んでいるが、その「蛇」の頭の部分はハックペン(蛇の頭)の丘にあり、巨石はキリスト教の正説に照応する古代の普遍的な神のシンボルで、巨大な環状列石は「父」ないし「創造主」をあらわしており、その息子である「救い主」の伝統的な蛇の姿はこのシンボルから生まれたというのである。


「これらの巨石モニュメントはわれわれの祖先の敬虔を表す高貴なモニュメントであり、今われわれは真の「族長の宗教ドルイド」に新たなきもちで帰依し、「新しいエルサレム」がブリテンにもたらされるようにしなければならない。」というのが彼の考えであった。


そうしてストーンヘンジは1781年、彼の残した案に従って修復された。

そしてそれ以後、まるで古代から続いていたかのようなかたちで、「古代ドルイド団」が夏至の日にストーンヘンジの遺跡内に入る特権を得、「古代宗教の儀礼」を毎年行うことになったのである。

            (引用ここまで)


*****


こう声高に言われると、なんとも奇妙な感じがしますが、「祖先=ノアの子孫」説というものは、人類の起源を語る時の一つの定型とも言えると思います。

世界各地に伝わる「洪水神話」は、一組の男女、ひとつの家族の救済の神話が多いのです。

アジアにも、「自分たちはノアの子孫だ。」という伝承をもつ民族がいます。

そのことはまた改めて書くことにして、ストーンヘンジをめぐる諸説を引き続き見てみます。


写真
1905年にストーンヘンジで行われたエンシェント・オーダー・オブ・ドルイズ(AOD)による「ドルイドの行進」。
この時には256名の新会員が入会を許された。
「図説ドルイド」より


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「ストーンヘンジはドルイド神殿」説・・・起源としてのケルト

2009-08-13 | その他先住民族
ストーンヘンジは誰が作ったと考えられてきたか?、という話の続きです。

古代へのかけはしとしてのケルト、神秘的なケルトの神官ドルイド、古代遺跡ストーンヘンジ。。

これらから、民族の出自をめぐるさまざまな思索が生まれました。

中沢新一 編著の「ケルトの宗教・ドルイディズム」という本の中の、鶴岡真弓さんの「ドルイドと創られた古代」という章より、抜粋して引用します。


*****


ストーンヘンジに関する中世のテキストは伝説的なものであり、直接ドルイドに言及はないが、先住民族“ブリトン人”とのかかわりが述べられている。

1136年に書かれた記述によると、ストーンヘンジは、先住民族“ブリトン人”がアングロ・サクソン人との戦いに敗れた時、ケルトのアーサー王伝説の魔法使いマーリンが彼らのために運んだ石で建てた墓である、とされている。

ここにケルト起源のアーサー王伝説と、ストーンヘンジの関係が示される。


しかし、英国はもとよりヨーロッパで最古級であることが推測されるストーンヘンジの建造者については、その他実にさまざまな説が出され、その多様さはそのまま、英国の起源の権威にかかわる国家的議論の反映となっていると言えよう。

すなわち建造者としてはフェニキア人、ローマ人、ブリトン人(アングロ・サクソン人に対抗したブリタニアの先住民族)、ブラミン人、デーン人 エジプト人、カルディア人、そしてレッドインディアンまでが考えられた。

科学時代以前には、巨人、小人、超自然の存在。
科学時代以降にはアトランティス人、異星人を建造者とする説も出た他、その機能も様々に憶測された。

神殿、観測所、記念碑、議事堂、墓地、太陽系儀、石器時代のコンピュータなどと言われてきたのである。


その中で17世紀初頭、「ストーンヘンジは『ブリトン人』の建造物」との解釈が支配的となる。

それは近代英国にとっての「ブリタニア観」、つまりは彼らが複数もつ「古代」の可能性のなかから「ブリトン」の要素を積極的に歴史化する史観と考古学が、手を結ぶことであった。

1624年、エドマンド・ボルトンはストーンヘンジを、ローマ時代のブリタニアでローマ支配に抵抗した“ブリトン人”の女性「ボウディッカの墓」とする説を出した。

また他にも、“ブリトン人”の勝利記念の神殿、“ブリトン人”の広場という説も出された。

これらの説には「ブリトン」の対抗概念としていずれもローマが置かれていることは明らかだが、アングロ・サクソンとは異なる“ブリトン=ケルト文化”の起源を取り出そうとする英国考古・歴史学の萌芽が、ストーンヘンジをめぐる議論の中で輪郭をあきらかにしていったと言える。


「ストーンヘンジは最も傑出した結社をもつ僧侶すなわちドルイドの神殿である」と書いたのは、ジョン・オーブリーだった。

彼は、英国南部のエイブベリーの巨石やストーンヘンジという二大モニュメントの他、小規模なストーンサークルは、「ローマ時代のものではなく、“古代ブリトン人”のものであり、要塞ではなく、宗教儀礼の場所であった」と主張。

これを「ドルイドの神殿」とした。

オーブリーは他界し、彼の草稿を整理したストゥクリーにより、「“ブリトン人”のモニュメントとしてのドルイド神殿説」というストーンヘンジの解釈は完成する。
        
                 (引用ここまで)

*****


ストーンヘンジの円形と巨石は、強いイメージ喚起力をもっており、それは人の心に神聖な思いをいだかせたのだと思います。

ストーンヘンジが作られたのは紀元前3000年から紀元前1600年(1500年にわたって作りかえられた)のこととされており、その時代の遺跡からはドルイドに直接結び付くものは発見されていません。

ドルイドという階級がケルト民族の中にあらわれ、社会的・組織的に宗教活動が行われたのは起源前1~2世紀からと推定されています。

ですからドルイドがストーンヘンジを作ったということはないようです。

ですが、聖なるサークルと聖なる神官のつくりだす情景はなにがしかの真実を伝えているのではないかと思えます。

もし後代のドルイドたちが、すでにあった巨石ストーンヘンジを用いた宗教儀式を行ったとしたら、どのような儀式であっただろうか、、と考えた人たちは多かったようです。

実際に彼らはストーンヘンジを用いた儀式を行ったのでしょうか?

ドルイドたちの遺物とみなされる物からは、さまざまな出来事が想定されるようですが、断定的な見解はまだ出ていないようです。

わたしが思うのは、エジプト・ギリシア起源とは異なる、もう一つのヨーロッパの起源が、ここには伏在しているに違いないという感じですが、大きな問題だけに即断することはできないであろうと思われます。

次回に続きます。




写真
スミス「ストーンヘンジの祭」(1815年)
「ケルトの宗教ドルイディズム」より

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ストーンヘンジの夏至祭り・・・神官ドルイドの復活

2009-08-07 | その他先住民族
上の写真は、1958年「ドルイド」と呼ばれるケルトの宗教指導者の姿をした人々によりストーンヘンジで行われた夏至祭の写真を、下記の本から転載させていただいたものです。

同書には「ドルイド」の姿をしたこの人々が、ストーンヘンジで宗教的儀式を行うようになったいきさつについて書いてあります。

ストーンヘンジは誰がつくったものなのか?

この問いに、彼らは「それはケルトの聖者“ドルイド”達がつくった」と主張して、神官ドルイドの装いをして集います。


中沢新一 編著の「ケルトの宗教・ドルイディズム」という本の中の、鶴岡真弓さんの「ドルイドと創られた古代」という章より、抜粋して引用します。

        
          *****
    
            (引用ここから)

ギリシアやローマの著述家によって書かれた「ドルイド」(ケルトの宗教指導者)に関するテキストは、ルネサンス時代に、古典文献の復活にともない明らかになった。

それらはギリシア語やラテン語から各国語に翻訳され、印刷本で流布された。

それらの本は、古代地中海世界が見たアルプス以北世界の民族や習慣について、ヨーロッパ人に知られざる過去を紹介することになったのである。

しかし、古代文献を頼りにする以外に「ドルイド」研究に方途がないわけではない。

というのも、「ドルイド」をめぐる議論は、ギリシア世界やローマ時代が終わり、古代ケルト社会が消滅した後、中世の沈黙を経て、近世から今日まで、西欧の歴史を通して存続し、そこに示される解釈の中に、「ドルイド」は西欧の歴史概念を刻々と映し出す強力な表象として生き続けてきたからである。


近世以降のヨーロッパが「ドルイド・イメージ」の再創造に異常な情熱を示したことに、われわれは驚いてはならない。

ヨーロッパ近世以降の「ドルイド」の復元は、諸国が競うようにして立論するところの、「国家の聖書的起源論」にかかわった。

「ドルイド」とは、西欧の歴史にとって、“古代”創造の枠組みを豊かに表象する何ものかなのだ。
         
               (引用ここまで)

         *****

ドルイドとはどのような人たちだったのかについては、かなり詳しく研究されているようですが、具体的な姿を描写するには慎重さが必要とされるようです。

文字による記録が間接的なため、神秘のベールのかなたの“老賢者”といった趣きが伝わってきます。

遺物から見出されるものも、非常に複雑な性質で、即断ができないように思います。

長くなるので、続きは次の投稿にします。

        
            *****


wikiドルイドより

ドルイド(Druid)は、ケルト人社会における祭司のこと。日本ではドゥルイドとも表記する。

ドルイドという名称の由来は、Daru-vid(「オークの賢者」の意味。
Daruがオークを、vidが知識を意味する)というケルトの言葉である。

なお、vidはサンスクリットのvedaと同源である。

ドルイドの社会的役割は単に宗教的指導者にとどまらず、政治的な指導をしたり、公私を問わず争い事を調停したりと、ケルト社会におけるさまざまな局面で重要な役割を果たしていたとされる。

しかし、ドルイドは文字で教義を記す事をしなかったため、その全容については不明な所が多い。

ガリアやブリタニアの各地に遺された遺物や、ギリシア・ラテン世界の著述家によって記された文献から、ドルイドの実態がおぼろげながら読み取れるに過ぎない。

カエサルの『ガリア戦記』によれば、ドルイドの社会的影響力はかなり大きなものだったようである。

争い事を調停あるいは裁決し、必要があれば人々に賠償や罰金を課した。

ドルイドの裁決を不服とした者は、社会的地位や信用を失った。

ドルイドはこのような大きな権力を持っていたほか、兵役や納税を免除される等、特権的地位にあった。

ドルイドの宗教上の特徴の一つは、森や木々との関係である。

ドルイドはパナケア(ヤドリギ)の巻きついたオークの木の下で儀式を執り行っていた。

ドルイドはヤドリギに特別な力があると信じていたようだ。

これについてはプリニウスが『博物誌』に記している。

また、近代になって発掘された古代ガリアの奉納物にはオークで作られた物が多い。

また、四葉のクローバー等といった希少な植物を崇拝していたという事も伝わっている。

なお、神木の概念自体はケルト人に留まらず世界中に存在する。

5世紀頃のアイルランドのドルイドは、「我がドルイドはキリストなり」と宣言し、キリスト教へ改宗したという。

そのためか、現代のアイルランドでは普通のローマ・カトリックとは一線を画したカトリックが存在していると言われる(ケルト系キリスト教)。

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巨石遺跡ストーンヘンジは誰がつくったと考えられてきたか・・ケルトという源流

2009-08-04 | その他先住民族
ストーンヘンジは誰が作ったと考えられてきたのだろうか、という話を続けます。

ストーンヘンジは誰が作ったのか?について書かれたものではありませんが、
ストーンヘンジのあるイギリスを含むアルプス以北の民族についての最初の歴史書の記録は、ローマ人カエサルの「ガリア戦記」だということです。

カエサルが生きていた頃、ローマ帝国は、地中海を中心とした大国家を作りつつありましたから、当時の歴史観からは、アルプス以北の広大に広がる世界は、ひどく野蛮な人々の住むおそろしい土地、と考えられていました。

大雑把に言えば、その“野蛮な人々”が、カエサルが「ガリア人」として描いた人々と言えるのでしょう。


このことについて、大雑把ではなく述べている「図説ドルイド」という本がありますので、抜粋しながら引用します。

同書では、「ガリア」という語と「ケルト」という語が、ほとんど同じものとして、しかし微妙に違うものとして重複するように現れます。

wikipediaによると、次のような関係になります。


         *****


wikipedia「ケルト人」より

ケルト人(Celt, Kelt)は中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族である。

古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。

ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォル、コーンウォルから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存している。

現在のケルトという言葉は言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語であり、古代~中世において右図で表されている地域の住民が「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは考えられていない。

そのため歴史学などでは「ケルト人(Celts)」という言葉は使わず、「ケルト系(Celtic)」という言葉を便宜的に使っている。


         *****



著者は、wikipediaの言う限定的な意味合いで「ケルト人」という言葉を使っていると思われますが、

ミランダ・J・グリーン著「図説ドルイド」より引用します。


         *****


「ケルト世界」の広がりを決定しようとする試みは、すべて以下の3つの範疇に属する証拠に頼らなければならない。

しかもこの3つはどれも不完全で、時にあいまいであり、その利用には慎重を期さなければならない。

古代ギリシア・ローマ世界の証言(ガリア戦記など)、考古学、ならびに言語による初期の証拠〈神話物語〉を総合的に判断すれば、ケルト的文化と伝統を持つ世界は紀元前3世紀には、アイルランドからハンガリー(東西)、スコットランドからイタリア北部(南北)にまで広がっていたようである。


古代ギリシア・ローマ世界の観察者たちは「ケルト人」を、アルプス北方の広大な地域に住む人たちだと述べている。

だが、ここでの「ケルト人」ということばは要注意である。

多くの著述家たちは「狭義のケルト人」についてではなく、“ガリーないしガラタエ一般”(ガリアという言葉の語源になった民族)について語っているからだ。

カエサルは「ケルト人」のことをガリアの一部の地域に住む部族だと述べ、ガリア人すべてを「ケルト人」とはよばず、むろんイギリスの原住民ブリトン人を「ケルト人」とはよんでいない。

ただし彼はブリテン島南東部に「ガリア人」と似た生活習慣をもつ人々がいることは認めている。

古代ギリシア・ローマ世界の著述家たちが用いた「ケルト人」という言葉の正確さの程度も、非常に幅があるのだ。


「ヨーロッパに「ケルト語」とよばれる言葉を話していた人々がいた」という初期の証拠は非常に乏しい。

ローマ以前の時代の北部ヨーロッパは、文字を持たなかったからである。

古代ギリシア・ローマ世界の著述家たちによる記録、そして言語学的証拠、考古学的資料、これらすべては「ケルト世界」を描く有力な材料ではある。


だが「ケルト世界」とはなんであろう?

「ケルト世界」の拡大のある部分は、実際の「ケルト人」の移住の結果ではなく、その思想や習俗の波及の結果だったと考えざるを得ない。

では、ローマによる彼らの居住地の占領中と、その後では、「ケルト世界」はどうなったであろう?

ローマの影響は明らかに「ケルト文化」に大きな変化をもたらした。

だが、旧来の伝統がすっかりなくなることはなかった。

むしろ、力強くてみごとな雑種ともいうべき“ローマ風ケルト文化”の花が開いたのである。


5世紀後半、ローマ帝国の中央集権的システムが崩壊すると、「ケルト文化」は大陸の西端とブリテン島北部、アイルランドを除いて消え失せたように見えた。

これら以外の地域ではどこでも、古い「ケルト世界」はサクソン族やフランク族など新興文化によって壊滅させられた。

しかし西方の「ケルト世界」(アイルランド・スコットランド・ウェールズ、コーンウォール、マン島、ブルターニュ)では、ケルト語とケルト文化は生き残って、その後も繁栄した。

ウェールズとアイルランドは魅力あふれる民間伝承神話を作り出した。

また“ケルト的キリスト教”はケルト芸術の新たな開花を促した。

石造りのケルト十字と彩色写本にその最高の表現をみることができる。

              (引用ここまで)


            *****


わたしは、この“石造りのケルト十字架”と似た性質をもつものとして、ストーンヘンジはヨーロッパの人々の意識に刻印されているのではないかと思います。


縄文遺跡を日本の原点として考えると、邪馬台国の祖型と感じることもできれば、邪馬台国以外の文化の足跡を発見することもできる、というような意味合いで、ストーンヘンジはヨーロッパの人々の意識の源泉でもあり、また異物でもあるのではないかと思います。

ローマ帝国から「ガリア」とよばれ(たものに近く)、今は「ケルト」とよばれる文化は、ヨーロッパの人々の血筋の中に含まれているもので、合わさったり分かれたりを繰り返してできたヨーロッパ文明の一つの切り口ではないかと思います。


長くなるので、続きは次回に書きます。



wikiケルト十字より

ケルト十字(ケルトじゅうじ)はラテン十字と十字の交差部分を囲む環からなるシンボルである。

ケルト十字の起源はキリスト教以前にまでさかのぼるが、後にケルト系キリスト教の特徴的なシンボルとなった。

ケルト美術の主要な一部ともなっている。この意匠はまた、アイルランド十字やアイオナ十字とも呼ばれる。


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イギリスの環状列石・ストーンヘンジをめぐるあれこれ・・その1

2009-07-25 | その他先住民族
     
先日、イギリスの古代遺跡ストーンヘンジのそばの土中に、現存するものよりはるかに大規模な、かつそれよりずっと古い、今から6000年前に建てられた巨大遺跡があることが判明したというナショナルジオグラフィック発のネット記事を見つけました。

少しだけ引用しますが、この大規模な古代遺跡はイギリスにおける邪馬台国か、仁徳天皇稜のように扱われるべきなにものかかもしれません。

この大規模遺跡の今後の発掘が待たれます。

以下2009・0616・Yahooニュースから一部引用します。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20090616-00000002-natiogeo-int


          *****
              
                     (引用ここから)

「6000年前の遺跡、イギリスで発見」


 イギリス南部で撮影された航空写真にミステリーサークルのような奇妙な地形模様が写っていたが、このたび、それが先史時代の巨大な複合型儀式施設であることが判明し、考古学者たちは驚きの声を上げている。

 今回の発見につながったデイマーハム考古学プロジェクトのリーダーで、ロンドンにあるキングストン大学の考古学者ヘレン・ウィックステッド氏は次のように話す。

「この遺跡の近くにはあの有名なストーンヘンジがあるが、それよりも1000年古いものだ。

遺跡には木製の神殿の痕跡のほか、6000年前に建設された2基の巨大な古墳が確認されている。

イギリス最古の建造物の一つと考えられるが、このように巨大な遺跡が今日に至るまで発掘されてこなかったとは、まったく驚くほかない」と話す。

 ストーンヘンジの調査を続けているストーンヘンジ・リバーサイド・プロジェクトのリーダーの一人で、イギリスにあるブリストル大学の考古学者ジョシュア・ポラード氏は今回の調査報告を受けて次のように話している。

「今回の発見は並大抵のものではない。

考古学者は過去数十年にわたりストーンヘンジの周辺地域に注目してきたが、この地のことはいままで誰も気付かなかった。

おそらく、あまりに規模が大きい複合的な遺跡なので、とっくに発見済みで既に知れわたっているものだと考えられてきたのだろう」。


 遺跡が発見されたのはストーンヘンジからおよそ24キロ離れたデイマーハムという村で、村の農地には200ヘクタールにわたり、数々の構造物の外郭線がところどころに描き出されていた。

               (引用ここまで)

      *****



ところで、すでに地表にあるストーンヘンジは、どのような歴史をもっているのだろう、と思いました。

日本の環状列石は、その起源や用途はいまだ解明されていませんが、イギリスのストーンヘンジもやはり謎のままのようです。

ですが、この荒涼とした平原にそびえる円形の巨石群(写真で見ただけですが)は、人の心の奥深くに眠る古代の魂を呼び覚ますかのように感じられます。

日本人のわたしですら、遠い記憶を辿りはじめたく感じるのですから、ヨーロッパの方たちにとってはずっと身近な、ヨーロッパの民族のアイデンティティに係る遺跡としてとらえられてきた歴史があるようです。

「ヨーロッパの人々は、ストーンヘンジは誰が作ったと考えてきたのか?」、という問題を辿ってみようと思います。

続きは次に投稿します。



wikiストーンヘンジより

ストーンヘンジ(stonehenge)は、ロンドンから西に約200kmのイギリス南部・ソールズベリーから北西に13km程に位置する環状列石のこと。

現在のイギリス人、アングロ・サクソン人がブリテン島に移住した時にはすでに存在していた。ストーンヘンジは北緯51度10分43.9秒西経1度49分6秒 に所在する。



円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなる。

考古学者はこの直立巨石が紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えている。

しかしそれを囲む土塁と堀は紀元前3100年頃まで遡るという。

馬蹄形に配置された高さ7mほどの巨大な門の形の組石(トリリトン)5組を中心に、直径約100mの円形に高さ4-5mの30個の立石(メンヒル)が配置されている。

夏至の日に、ヒール・ストーンと呼ばれる高さ6mの玄武岩と、中心にある祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったのではないかと考えられている。

また、当時としては高度な技術が使われており、倒れないよう安定させるため石と石の間には凹凸がある。


遺跡の目的については、太陽崇拝の祭祀場、古代の天文台、ケルト民族のドルイド教徒の礼拝堂など、さまざまな説が唱えられているが、未だ結論はでていない。


クリストファー・チッペンデールの Stonehenge Complete によると、ストーンヘンジの語源は古英語で石を意味する “sta-n” と、蝶番を意味する “hencg”(横石が縦石に蝶番のように積んであるから)もしくは絞首台または拷問具を意味する “hen(c)en” から来ているとされる。

中世の絞首台は、今日見られるような逆L字型ではなく、二本の柱とそれに乗った横木で出来ていて、ストーンヘンジの構造に似ていた。

「ヘンジ」の部分はヘンジとして知られるモニュメントの一群を指す名前になった。

考古学者は、内側に堀を持つ円形の土塁をヘンジと定義する。

考古学の用語でしばしば起こる通り、これは古美術収集家の用語からの転用であるが、実際にはストーンヘンジは土塁が堀の内側にあるので、ヘンジには分類されない。

本当の新石器時代のヘンジやストーンサークルと同時代であるにも拘らず、多くの点で非典型的である。

例えば、トリリトンは他では見られない。

ストーンヘンジは、ブロドガーのリングのようなブリテン島にある他のストーンサークルとは全く異なる。


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