始まりに向かって

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さまよう心、心は本来さまようものだと・・憑霊の人間学

2013-05-23 | 日本の不思議(現代)



前回の記事に関連して、佐々木宏幹・鎌田東二氏の共著、「憑霊の人間学」という本を読んでみました。

これは佐々木氏の書いておられる部分です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入いただけます。

     
                *****


                (引用ここから)


シャーマニズムの普遍性についてある大学で話していたら、「私、そういう体験しょっちゅうしますよ」という一年生の女子学生がいるというので、ある先生が紹介してくれました。

その人は八王子に住んでいて、おばあちゃんが丹沢の修験者の一人だった。

90才近くで亡くなったのですが、そのおばあちゃんが修験の道を学びまして、病人にどんな精霊がついているか占って、そして病気治しまでしたようです。

それでその人に連れられて3、4才まで彼女はあちこち回ってくるという経験をしているわけです。

おそらくそのことと結びつくのでしょうが、彼女が夜寝ていると、夜中に眠っているのか現なのかわからない状況において、自分が外に出ていく、というのです。

その時に面白いのは、鍵をかけておくとダメで、鍵だけは開けておくんだそうです。

そしてそこを出ていきますと、行くところは決まって庭や山である。

川や沼や海には行かない。

そして大きな木の元に座っていると、木が話しかけてきて、木と一緒にしばらくの間、対話をしてから戻ってくるという。


「あなたの魂が出て行って戻った時には、自分で自分の身体が見えますか?」と聞くと、それはないという。

そこが丹波哲郎と違うところなんです。

丹波の場合には、自分の幽体が外に出て行って、上から自分の冷たくなった身体を見ているんです。

彼女の場合にはそれがない。


そして「下界はどう見える?」と聞いたら、「鳥瞰図というのがあるでしょう、ああいうふうに見える」って言うんです。

またあちこちの樹木から白い物体が出て飛び回るのが見えるという。


「自分の寝間に戻ってからの感じはどんなですか?」と聞くと、「疲れるんです」と言う。

「疲れるから自分では相当の努力をして天空を飛んだりしているんだと思います」と。


単に夢と言うと、大体自分がそこにいて見ている何かなのですが、彼女の場合は出て行って、上からずうっと下界を見て来て、しかもいつでも憩う木があって、その木は実在の木らしいんです。

その木の下に座りますと、木と対話ができる、ということを言っているんですね。

そういう人が都会にも多いということです。


それから似たようなことですが、芹沢光治良さんという人がある文章の中で、「川端康成の文章はシャーマン的だ」ということを言っております。

川端康成の文学は夜の文学であり、シャーマン的な文学であると。

それはどういうことかと言いますと、川端の文学の主なモチーフには必ず「長いトンネルを抜けたらそこは雪国だった」のような、「山のあなたの空遠く」ではありませんけれども、山を越えたむこうの方に、いわばロマンティックな国とか異界が描かれている。

「伊豆の踊り子」は伊豆の天城超えを描いていて、天城を下駄をはいて歩いている若い学生と踊り子が出会うという筋になっていますが、その天城には今でもトンネルがあって、下田に行く人は長いトンネルを抜けないとそこへ行けないわけです。

つまり闇に中にいったん入って、出てくるとそこに一種の異界がある。

その異なる世界での出来事が、川端文学では大きな役割を果たし、大きな意味をもつものだという。

川端康成は夜、ものを書く人だったらしいのですが、夜、川端さんは原稿を書きながら、実はその魂はずっと他界を経巡っている。

その他界の、たとえば伊豆半島を見ますと、天城山というのは一番高くて、天城から南は下田の方のだんだら坂になり、北は三島の方に来ます。

「雪国」の舞台である越後の境目でみますと、高い山々が谷川岳を含めてあって、それであそこには北の方は真冬、南の方は春という状況があります。

群馬側はぽかぽかしていても、トンネルをくぐるとむこうは吹雪だ、ということがあります。


そうなりますと、ある境界を超えて、その先にさまざまな異界の出来事が展開するということになります。

男と女が本当に無私になり無我になって、自己のすべてをあげて恋愛をするというような、そういう出来事が生じる世界が向こう側には広がっていて、そこへ行くには暗い闇を通っていく。


これは文学の内容なのですが、モチーフ的にはネオシャーマニズムのカスタネダであるとか、ハーナーの脱魂論に一脈通じる。


彼らは、野原まで病める人を連れて行って、そこにある穴の中の暗い所をずっと無限に潜って行きます。

すると向こうの方に異なる世界があって、きれいな野原が展開している。

そこへ行って熊や大鳥であるとか、あるいはワシと一体化する。

一体化して、強くなって、この世に戻ってくるというようなモチーフと、どこか結びつくと考えることは可能だと思います。


ただそこで決定的に違いますのは、アメリカインディアンの場合だと、垂直の方向が非常に強調されます。

ところが日本の方は、山を強調してもどちらかというと水平的な方向です。

山があって、そこにトンネルがあり、その暗い所を自己、自我がずっと行きますと、向こうが他界ということになります。


アメリカインディアンの方は、穴があって、穴をずっと潜っていくと、下に広い異国、異国というか異界が展開している。


そうなると一方は他界に行く場合に、橋を架けるわけですが、橋は横にかけるんです。

ところが、一方では梯子というものがあり、梯子は縦にかければ梯子になるし、横にかければ橋になるんですね。


エリアーデの書いたシャーマニズム的なモチーフの中では天界・地界にシャーマンが行く場合に、多くは梯子を使うんです。

天に行くために、梯子を使うんです。


ところが日本の場合を見ますと、梯子で云々というモチーフはきわめて少なく、あることはあるけれども「川を橋で渡る」というのが多いと思います。

橋というのは横に渡っていく。


この橋は「三途の川」をはじめとして非常に多い。


                    (引用ここまで)

  
                      *****


私が思うに、文学全般が、本来シャーマニスティックなものなのではないかという気がします。

一言だって、言霊なしには言えないだろうし、聞き取ることもできないのではないかと思います。

音楽が好きな人は、その音魂を聴いているのでしょうし、絵が好きな人はその色魂を見ているのだと思います。

文化のすべては、途方もなく狂わしいほどの狂気をともなって、命をかけて造形されているのではないかと思います。

ちまたに暮らす、四畳半の日々の生活であっても、5・7・5で語ってみたり、眠るごとに夢の世界に旅をしたり、人間の生活というものは、無限の創造性をもっているものだと、私は思います。



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などあります。(重複しています)

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