ハイサイおじさん
喜納昌吉は、1948年生まれの73歳。
彼の父は沖縄民謡歌手であり三線奏者として有名な喜納昌永です。
喜納昌永(1920~2009)
戦後、彼は沖縄民謡の黄金期を築きました。
一般的に「沖縄民謡」として思い浮かべる姿は、
喜納昌永の芸風であると言っても過言ではないほど、大きな影響と軌跡を残しました。
喜納昌吉はその昌永の11人兄弟の4男として、
米軍占領下のコザ市(現在の沖縄市)に生まれました。
以後彼は沖縄を一度も離れる事はなく、活動を続けています。
それもあって、彼の沖縄訛りの言葉は早口だし、とても聞き取りにくいですね。
私が喜納昌吉を知ったのは1975年くらいだったか、
写真学校の合宿で沖縄に行き、民宿にあったジュークボックスで、
上に載せた「ハイサイおじさん」を聴いて夢中になったからです。
「ハイサイおじさん」は喜納が高校生の時に作った歌で、
30万枚という大ヒットになり、それは沖縄の人達を驚かせました。
「言葉の違う沖縄の歌が流行る訳がない」と思っていた人達はみなビックリしました。
喜納は高校生の頃からあまり素行は良くなく、
賭博で大儲けをして外人の愛人をはべらせたり、
覚せい剤に手を染め、結局逮捕されて1年半くらい刑務所に入ったりしています。
喜納昌吉&チャンプルーズ - ハイサイおじさん
その後、琉球民謡を現代風にアレンジしたウチナーポップスを確立し、
チャンプルーズとして羽ばたいていきます。
高校生の時の大人しい歌とは、エライ違いです。
そんな頃、私はチャンプルーズのコンサートに2回行きました。
東京のどこかだったのですが、場所は覚えていません。
そこにはこんな人たちも一緒に出演していました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/fa/b5ea6e4a7d908d042ded69d311bd75d2.png)
現、世田谷区長の保坂展人氏。(66歳)
彼は中学時代から政治活動に目覚め、それ故に高校受験の内申書から、
全ての高校から拒否をされ、後に内申書裁判で有名になりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/4f/657af12fbc0d20e2650217376c7c253d.jpg)
白竜(69歳)彼は佐賀県伊万里市出身の在日韓国人2世です。
兄弟で実家の解体業を手伝いながら白竜バンドを結成して音楽活動を始め、
後にコワモテの俳優として有名になっていきました。
そんな2人が若かった頃に、私がコンサートに行ったのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/fc/6623f11dfa5ea85b3cd1268c2a7c8e9b.jpg)
その頃にはまだ大ヒットになった「花」はありませんでしたが、
このレコードには、いい歌がいっぱい入っており夢中になって聴きました。
彼のコンサートは他の歌手とはかなり違っています。
舞台で踊りながら唄うスタイルの喜納は、観客たちに呼びかけます。
「みんな舞台に上がれ、みんな一緒に踊れ」と客を即すのです。
舞台に上がれない人達はみな客席で踊るスタイルなんです。
彼のある本を読んだ事があるのですが、
それは名前は知りませんがある哲学者との対談でした。
若い喜納はその哲学者に臆する事なく、対等に堂々と話していました。
喜納は一種のひらめきみたいな部分を持っているらしく、
何かの一部を見て、全てが解かってしまう様な特殊な感覚の持ち主みたいです。
その感覚をその哲学者は理解し、お互いに共鳴したりしていました。
歌声喫茶では「花」はよく唄われていますが、
世界60の国で3000万枚というトンデモナイ大ヒット作なんですね。
私は個人的には、他に好きな歌がありますが・・・
2004年には参議院選に出馬して当選し、議員さんとなりました。
2014年には沖縄県知事選に出馬するも、これには敗れました。
彼にはそういった政治的なスタイルが多くて、
その事には、ただ彼の歌が好きだという私は、チョッと付いていけない部分もあります。
しかし、彼が沖縄をある意味変えていった事実は動かしようがありません。
彼はまた「沖縄ナナサンマル」にも反対を表明し、その為のコンサートもしました。
「沖縄ナナサンマル」・・
沖縄が本土復帰をした6年後の1978年。
それまではアメリカ式に車は右側通行だったのを、
7月30日をもって、一斉に左側通行に改めたのです。
最初、私はそれが何故、反対なのと意味が分かりませんでした。
(日本なんだから日本式になる事はいい事じゃないの?)
しかし、喜納昌吉は、
「ヤマト(日本)は何でいつも頭から沖縄を押さえつけてくるの」
だったのです。
我々は沖縄なんだよ、もうヤマトからの押し付けはやめてほしい。
と言っていたのですね。
あの独特の沖縄サウンドは今でも好きだし、
自然と身体が動き反応する歌なんて、それは素晴らしい事ですね。
喜納昌吉は、1948年生まれの73歳。
彼の父は沖縄民謡歌手であり三線奏者として有名な喜納昌永です。
喜納昌永(1920~2009)
戦後、彼は沖縄民謡の黄金期を築きました。
一般的に「沖縄民謡」として思い浮かべる姿は、
喜納昌永の芸風であると言っても過言ではないほど、大きな影響と軌跡を残しました。
喜納昌吉はその昌永の11人兄弟の4男として、
米軍占領下のコザ市(現在の沖縄市)に生まれました。
以後彼は沖縄を一度も離れる事はなく、活動を続けています。
それもあって、彼の沖縄訛りの言葉は早口だし、とても聞き取りにくいですね。
私が喜納昌吉を知ったのは1975年くらいだったか、
写真学校の合宿で沖縄に行き、民宿にあったジュークボックスで、
上に載せた「ハイサイおじさん」を聴いて夢中になったからです。
「ハイサイおじさん」は喜納が高校生の時に作った歌で、
30万枚という大ヒットになり、それは沖縄の人達を驚かせました。
「言葉の違う沖縄の歌が流行る訳がない」と思っていた人達はみなビックリしました。
喜納は高校生の頃からあまり素行は良くなく、
賭博で大儲けをして外人の愛人をはべらせたり、
覚せい剤に手を染め、結局逮捕されて1年半くらい刑務所に入ったりしています。
喜納昌吉&チャンプルーズ - ハイサイおじさん
その後、琉球民謡を現代風にアレンジしたウチナーポップスを確立し、
チャンプルーズとして羽ばたいていきます。
高校生の時の大人しい歌とは、エライ違いです。
そんな頃、私はチャンプルーズのコンサートに2回行きました。
東京のどこかだったのですが、場所は覚えていません。
そこにはこんな人たちも一緒に出演していました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/fa/b5ea6e4a7d908d042ded69d311bd75d2.png)
現、世田谷区長の保坂展人氏。(66歳)
彼は中学時代から政治活動に目覚め、それ故に高校受験の内申書から、
全ての高校から拒否をされ、後に内申書裁判で有名になりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/4f/657af12fbc0d20e2650217376c7c253d.jpg)
白竜(69歳)彼は佐賀県伊万里市出身の在日韓国人2世です。
兄弟で実家の解体業を手伝いながら白竜バンドを結成して音楽活動を始め、
後にコワモテの俳優として有名になっていきました。
そんな2人が若かった頃に、私がコンサートに行ったのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/fc/6623f11dfa5ea85b3cd1268c2a7c8e9b.jpg)
その頃にはまだ大ヒットになった「花」はありませんでしたが、
このレコードには、いい歌がいっぱい入っており夢中になって聴きました。
彼のコンサートは他の歌手とはかなり違っています。
舞台で踊りながら唄うスタイルの喜納は、観客たちに呼びかけます。
「みんな舞台に上がれ、みんな一緒に踊れ」と客を即すのです。
舞台に上がれない人達はみな客席で踊るスタイルなんです。
彼のある本を読んだ事があるのですが、
それは名前は知りませんがある哲学者との対談でした。
若い喜納はその哲学者に臆する事なく、対等に堂々と話していました。
喜納は一種のひらめきみたいな部分を持っているらしく、
何かの一部を見て、全てが解かってしまう様な特殊な感覚の持ち主みたいです。
その感覚をその哲学者は理解し、お互いに共鳴したりしていました。
歌声喫茶では「花」はよく唄われていますが、
世界60の国で3000万枚というトンデモナイ大ヒット作なんですね。
私は個人的には、他に好きな歌がありますが・・・
2004年には参議院選に出馬して当選し、議員さんとなりました。
2014年には沖縄県知事選に出馬するも、これには敗れました。
彼にはそういった政治的なスタイルが多くて、
その事には、ただ彼の歌が好きだという私は、チョッと付いていけない部分もあります。
しかし、彼が沖縄をある意味変えていった事実は動かしようがありません。
彼はまた「沖縄ナナサンマル」にも反対を表明し、その為のコンサートもしました。
「沖縄ナナサンマル」・・
沖縄が本土復帰をした6年後の1978年。
それまではアメリカ式に車は右側通行だったのを、
7月30日をもって、一斉に左側通行に改めたのです。
最初、私はそれが何故、反対なのと意味が分かりませんでした。
(日本なんだから日本式になる事はいい事じゃないの?)
しかし、喜納昌吉は、
「ヤマト(日本)は何でいつも頭から沖縄を押さえつけてくるの」
だったのです。
我々は沖縄なんだよ、もうヤマトからの押し付けはやめてほしい。
と言っていたのですね。
あの独特の沖縄サウンドは今でも好きだし、
自然と身体が動き反応する歌なんて、それは素晴らしい事ですね。