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玉川上水

2022-05-09 07:29:56 | 歴史




東京都民で玉川上水を知らないという人は少ないでしょうね。
私も勿論、子供の頃から名前くらいは知っていました。
しかし、あまりと言うか詳しい事は殆ど知らないというのが事実です。
先日、フェイスブックで玉川上水の事を少し書いている人がいて、
それで私は初めて「玉川上水」がどんなものなのかを知りたくなりました。

世界中の何処の都市でも、そこに住む市民の飲料水は重大事項です。
それが無い事には、そこに住む事は出来ません。
そこで何処の都市でも様々な手段で水を確保する工事が行われてきました。





東京(江戸)も勿論例外ではありません。

江戸には6つの上水道が在りました。
神田・玉川・本所(亀有)・青山・三田・千川。
上水道の建設は1590年より始まり、
玉川上水の完成を経て、1657年(明暦の大火)後、
江戸市民の拡大によって4上水が加わり、計6つの上水道になりましたが、
しかし、江戸時代を通じて使用されたのは、
神田上水と玉川上水に限られ他の4上水は1722年に突如、一斉に廃止されました。
廃止の理由は改修に金がかかる為とされています。

1590年、徳川家康が江戸に入りました。
しかし江戸は海に近く、湿地帯だった為に、
井戸を掘っても「塩の味がする」という場所だったので、
家康は大久保藤五郎に上水道の整備を命じます。
藤五郎は小石川の流れを利用し、神田上水の原型を造りました。

神田上水整備から15年経った時に、
家康が征夷大将軍に任命されると江戸の人口が増え、世界一の大都市になり、
(その頃、江戸の人口は100万人近く、世界第二位のロンドン、63万人の遥か上でした)
家康は井の頭の有力者であった内田六治郎へ、更なる上水道の拡大を命じます。
六治郎は善福寺池を水源とする善福寺川、玉川上水の分水、
更に妙正寺川を併せるなどして神田上水を完成させます。
神田上水は明治維新後まで江戸市民の飲料水として使われましたが、
1901年に完全に廃止されました。

1652年。
江戸の飲料水不足を解消する為に、
幕府により多摩川からの上水道開削が計画されます。
工事の総奉行に老中の松平信綱、水奉行に伊奈忠治が就き、
玉川兄弟が工事を請け負いました。



資金として幕府は6000~7000両(約2億円)が拠出されました。
取水口の羽村から四谷までの標高差は約100メートルしかない為に、
工事は困難をきわめました。
当初は日野から取水しようとしましたが、
浸透性の高い関東ローム層によって水が吸い込まれてしまい、
2度目は福生からの取水を試みましたがこれも失敗。

第3案の取水口は羽村となりましたが、
高井戸まで掘った時点で幕府からの資金が底をつき、
兄弟は家や畑を売り払って3000両(約9000万円)を捻出し、
1654年、遂に玉川上水を完成させました。





上水は飲料水であり、水質を守る為に、
洗い物、漁業、水浴、塵埃の投棄などは禁止され厳重に取り締まられています。
また、水路の両側幅3間(5,4メートル)は、
保護地帯として樹木の伐採、下草狩りも厳禁となっています。

玉川上水というと、思い起こされるのは太宰治の入水心中事件です。





作家、太宰治は1948年(昭和23年)38歳。
玉川上水の三鷹付近で、愛人だった山崎富栄(28歳)と心中しました。



私は太宰治を描いた映画も観ましたし、
「人間失格」の本も読みましたが、
我々一般人には少し理解し難い人間性を持った人だと感じました。

まだゆっくりと歩いた事はないのですが、
機会があれば、色々な意味での玉川上水を歩くのも、
きっと良き感慨に耽る事が出来るのではないでしょうか。



コメント
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