『幸運期の巻』から
宿場が最も栄えていた頃の板倉(この本には、何時頃とは書いてないのですが多分元禄頃から幕末にかけて150年ぐらい続いたのでは?)には、宿屋が百八十数軒も立ち並び、大橋から宮内にかけて川沿いに柳が植えられていたそうです。この柳沿いに、板倉に宿した旅人は、夜な夜な宮内に一夜の憩いを求めて通って行ったということです。
その宮内遊郭では、飲み屋と称する家が百数十軒もあり、所謂女郎、舞奴、芸奴等が約200名、又、板倉の宿屋にも飯盛り女の称するうかれめの類の怪しげな女の人が百名はいたという事だそうです
宿場が最も栄えていた頃の板倉(この本には、何時頃とは書いてないのですが多分元禄頃から幕末にかけて150年ぐらい続いたのでは?)には、宿屋が百八十数軒も立ち並び、大橋から宮内にかけて川沿いに柳が植えられていたそうです。この柳沿いに、板倉に宿した旅人は、夜な夜な宮内に一夜の憩いを求めて通って行ったということです。
その宮内遊郭では、飲み屋と称する家が百数十軒もあり、所謂女郎、舞奴、芸奴等が約200名、又、板倉の宿屋にも飯盛り女の称するうかれめの類の怪しげな女の人が百名はいたという事だそうです