高島、果たして現在ある笠岡と岡山の隆までいいのでしょうか。紀には所在地は不明としてあります。
私は、この『紀』に書かれている高島こそがわが町のシンボル、いや岡山地方のシンボル『吉備の中山』ではないかと思いま。「たか」は必ずしも「高」でなくてはならないことはないのです。隆・貴・堯・貴等いくらでもあります。紀に出てきます、日本尊命、足利尊氏など数例しかないのですが、この「尊」もまた「たか」と読むのです。
だから、この紀に書かれている「たかしま」もあえて言わしていただくと『尊』島だったのではないかと私は推測しています。
するとこの尊島、即ち高島はこの神南山を頂く。この吉備の中山だったに相違いありません。
そうすると、話は案外スムーズ行くのかかもしれません
この吉備中山が、即ち、高島なりとせば、この地方にある昔話の、神武天皇がお通りになったとされる『轟き橋』等の話とつじつまが合うのです。
いにしへの ならの都は 現にて 夢路をたどる とどろ木のはし
という歌も残っています。
言い伝えによりますと、神武天皇が3年間宮をお置きになるて、その間、吉備の国の各地を行幸したそうです。当時わが国には、天皇を乗せて走らす馬車が通れるような立派な橋はなかったのですが、ここ総爪(吉備津地区)を流れる大河に「板倉橋がかかっていたそうです。当時のわが国の最大の橋だったそうです。橋は石で造られたいそう立派な橋だったそうです。この橋を天皇が馬車でお通りになったとき、今まで誰も聞いた事がない「がらがら」という車輪の音が当りに鳴り響いたため、人々が大変驚いたと言う事です。そこからこの「とどろき橋」の名がついたと言う事です。神武天皇が孝霊天皇に変わって語られるところもあります。
私は、この『紀』に書かれている高島こそがわが町のシンボル、いや岡山地方のシンボル『吉備の中山』ではないかと思いま。「たか」は必ずしも「高」でなくてはならないことはないのです。隆・貴・堯・貴等いくらでもあります。紀に出てきます、日本尊命、足利尊氏など数例しかないのですが、この「尊」もまた「たか」と読むのです。
だから、この紀に書かれている「たかしま」もあえて言わしていただくと『尊』島だったのではないかと私は推測しています。
するとこの尊島、即ち高島はこの神南山を頂く。この吉備の中山だったに相違いありません。
そうすると、話は案外スムーズ行くのかかもしれません
この吉備中山が、即ち、高島なりとせば、この地方にある昔話の、神武天皇がお通りになったとされる『轟き橋』等の話とつじつまが合うのです。
いにしへの ならの都は 現にて 夢路をたどる とどろ木のはし
という歌も残っています。
言い伝えによりますと、神武天皇が3年間宮をお置きになるて、その間、吉備の国の各地を行幸したそうです。当時わが国には、天皇を乗せて走らす馬車が通れるような立派な橋はなかったのですが、ここ総爪(吉備津地区)を流れる大河に「板倉橋がかかっていたそうです。当時のわが国の最大の橋だったそうです。橋は石で造られたいそう立派な橋だったそうです。この橋を天皇が馬車でお通りになったとき、今まで誰も聞いた事がない「がらがら」という車輪の音が当りに鳴り響いたため、人々が大変驚いたと言う事です。そこからこの「とどろき橋」の名がついたと言う事です。神武天皇が孝霊天皇に変わって語られるところもあります。