ホトケの顔も三度まで

ノンフィクション作家、探検家角幡唯介のブログ

松本竜雄「初登攀行」

2015年10月20日 00時19分08秒 | 書籍
帰国の途上で松本竜雄「初登攀行」を読む。

一般にはなじみが薄いかもしれないが、松本竜雄は昭和三十年代に活躍した日本登攀史にのこるクライマーだ。穂高や谷川や彼が開いたルートが「雲表ルート」として沢山残っており、今も多くのクライマーを惹きつけている。日本の岩壁の初登攀時代の最後を飾った、すさまじい山行記録をつづった作品だが、うーん、ちょっと刺激を受けてしまった。

登山家には名文家がすくなくないが、彼もその例に漏れない。とくに風景描写や比喩表現が巧みで、読んでいて唸らされる文章がすくなくなかった。適切な言葉がなにげなく、スポっとはまりこんでいる。登山に対する心情も率直で、山に対する真剣味が伝わってくる。

松本竜雄が一ノ倉のコップ状岩壁初登攀の際に初めてエクスパンションボルトを使用したことは有名だが、正直いって、当時のクライマーがここまでボルトの使用に関して悩み、非難を覚悟のうえで使用に踏み切っていたことは知らなかった。現在、烏帽子岩奥壁や衝立岩にのこる古びた残置ボルトの数を思うと、昔の人たちは何も気にせずガンガン打ちまくっていたのだとばかり思っていたが、どうやら違ったらしい。登山家のモラルは昔から試されいたんですね。

松本竜雄をふくめ登山家の文章がうまいのは、登山という行為が本質的にもつ切実さと無縁ではないのだろう。登山は命がかかっているだけに、なぜ自分は山に登るのかという自省を促す。生きることそのものに真摯にならざるをえないし、登山をつうじて、山以外のあらゆる事象についても考察するから、それが独自の思想と言葉を生み出すのだと思う。思考の末に獲得された言葉こそが、本物の知恵である。松本竜雄は学歴とは無縁の社会人クライマーだったが、彼が誇る語彙の豊かさには、自らが格闘して思考した跡が見えて、これこそが本物の学なのだと考えさせられた(ちなみに現在とちがい、当時の社会人という言葉には中学や高校を卒業してそのまま就職した、大卒のインテリと対極な位置にある労働者階級という意味合いを含んでいた、たぶん)。

刺激を受けたというのは、山に登りたくなってしまったことだ。

今から帰ったら、ちょうど十一月。冬山シーズンが始まる時期だ。そういえば去年は結局、錫杖岳1ルンゼしか登れなかった。今冬はせっかく日本に帰るんだから、去年登れなかった一ノ倉沢中央奥壁や剱岳白萩川フランケや明神の氷壁ルートに行きたいなあ。しかし左肘の古傷の状態が思わしくなく、帰ったらまずそれを手術しなければならない。左腕を伸ばそうとするとゴリゴリするうえ、神経が圧迫されて小指の感覚がほとんどマヒしているのだ。以前、専門の先生に診てもらったところ、手術で確実に回復はするが、術後三カ月は安静にする必要があり、さらた登山のような激しい運動は半年間は控えなくてはならないと言われた。まあ、半年は五カ月ぐらいに短縮するとして、十一月に手術したら、三月末にはリハビリが終わるから、谷川や唐幕など北アルプス低山系岩壁は無理でも、剱や滝谷なら行けるかもしれんぞ……。

そんなことを考えている自分がいた。そのときにふと、そうだ、来年4月はカナダに行くつもりになっていたんだと思い出した。この間のブログで、山よりも極地のほうが面白くなったと書いたことなど、すっかり忘れていたのだった。

なお、松本竜雄は穂高でサードマンを見ているようだ。夜中に屏風岩のルンゼを加工中、岩なだれが発生したときの文章に次のようなものがある。

〈ぼくは、その下山路についた時から、だれかがぼくを見つめ、ぼくにより添っているような感じにとらわれていた。
 岩の灼ける匂いや、岩粉の充満するルンゼの下降は急峻で、二つの涸滝では懸垂下降をしなければならなかった。
 灰色の汚れた暗がりでのアプザイレンで、ぼくは、先輩二人の他にぼくらのパーティでない四人目の男を意識した。あとで富田先輩にそのことを告げると、先輩も同じような幻覚に襲われていたことを話してくれた。〉

サードマンについては、ジョン・ガイガー「サードマン」(新潮文庫)参照のこと。






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