奇想庵@goo

Sports, Games, News and Entertainments

森博嗣の限界?――感想:『科学的とははどういう意味か』『ナニワ・モンスター』

2011年09月07日 18時22分52秒 | 学問
現在の日本は、感情社会、感覚社会といった感がある。科学的、論理的言動が為されず、雰囲気、ムードが重視されているように感じる。

森博嗣『科学的とははどういう意味か』は、そうした日本の現状を危惧して書かれた本である。
まえがきにあるように、声高に科学を薦める内容ではなく、科学的でないと損をするという控えめな立場から書いている。日本においては「文系」「理系」というレッテル付けが一般化されているが、その中で「文系」の人たちの科学離れへの危惧が綴られている。

執筆直前に東日本大震災が発生し、特にその報道への批判は鋭い。インタビュアーが被災した個人個人の感想を訊いていることに対し、「もちろん、個々の「気持ち」を伝えることも大切だけれど、重要なことは、個人がどう感じたか、どう思っているか、ではなくて、現状を客観的に把握できる情報を伝えることではないか」と指摘している。

TVではスタジオのコメンテータたちが自分たちの感想を垂れ流す。視聴者はそれに同調しやすい。「悲しいと自分で感じるよりも、悲しいですよ、ということまで教えてもらいたがっている、といっても良い」という森の意見は今の日本のムード社会の正鵠を射ていると言えるだろう。

数字をはっきり示して量的に把握するものの見方など理系的な発想は参考になる点もある。しかし、残念ながら、この種の本を森が何万冊書こうとも日本社会に変化は起きない。

それは、本という媒体に変える力がないからとか、森の本が読まれないからとかではなく、森の論理に問題があるからだ。

一つは、森の科学への信奉だ。確かに、科学は人類共通の言葉のひとつと言える。また、万人に平等に開かれた存在でもある。人間関係に拘泥せず、研究こそが全てであるという『喜嶋先生の静かな世界』のような象牙の塔の様子は科学の一面を示しているのは確かだ。
だが、現実には科学者もまた人間であり、政治性が必要とされたり、研究予算獲得のために奔走したり、欲やメンツのために合理的とは言えない様々な行為がなされている。また、理系の人間といえども専門分野の研究以外の領域、特に生活の中にまで科学的思考を発揮しているとは言い切れない。

また、子供に対して「お墓参りをするとき、『ここに死んだ人がいるわけではない。死んだ人は生きている人が思い出すだけのもので、このお墓は、それを思い出すためにあるのだよ」と説明すれば良い」と述べているが、非科学の代表とも言える宗教への観点が受け入れられないもう一つの要因となるだろう。
森は現代社会を科学を基盤とした社会と認識している。確かにそれは一面では間違いではない。だが、世界的に見てほとんど全ての人間が宗教を信仰している。日本では無宗教が多いが、それは完全な無神論ではなく、日本古来から続く風習は継続している。

本書を読んでいると、森博嗣が科学教を信仰し、その普及をしているように感じてしまう。私自身昔は、宗教の非科学性や争いの原因になっている点から宗教に対して批判的な見方をしていた。

森の指摘は概ね正しい。
では、なぜ宗教が存在するのか。

当たり前だが自分の力でコントロールできないことは世の中に多数ある。むしろコントロールできることの方が非常に少ないと言えるだろう。コントロール可能なものでも、コストが掛かるものもある。
コントロールできないもの、しなかったものを仕方ないと常に納得できるだろうか。東日本大震災はコントロールできないものの代表ではあるが、被害を受けた人が天災だから仕方ないと全てを受けいるのことは難しい。また、こうしていればという思いを残す人も少なくないだろう。科学的思考で言えば、それは将来に繋げれば良いということになるが、そんな言葉だけで後悔を解消することはできないだろう。

人にとってコントロールの難しい最大の問題が、「死」だ。身近な人の死も重いが、自分がいつか必ず死ぬという認識もまた重いものだ。死は不可逆的なものであり、科学的に考えても答えようがない。こうした重さを軽減するシステムとして宗教が存在している。
多くの人にとって、社会で生きていくためにこうしたシステムは必須のものだ。非科学だからといって無くすことは現状では不可能であるし意味がない。

現代社会、特に先進国ではほとんど全ての人が合理的な思考を身に付けている。ただし、常に合理的に思考しているわけではなく、状況状況で切り替えている。この切り替えを意識的に行うかどうかが、「科学的に考える」うえで重要になる。
本書では、科学的に考えないことを「割り切り」と呼んでいるが、これは森が科学的に考えることが常態だからだろう。
ムード社会は思考停止社会である。森の言う通り思考停止が続くリスクは高い。

森は本書で、科学的でないと損をすると言う。なかなか実感できないが長い目で見ればその指摘は確かだろう。ただ、人は「損」「得」ではなかなか動かないように私は思っている。もちろん誰でも「得」をしたいと願ってはいる。だが、そのための努力をどれだけの人がしているだろう。
森自身が科学を好きであることが伝わってくる。結局、人が動くのは「快」「不快」ではないか。その意味で、人に科学を広めようとするならば、損得を説くよりもいかに面白いかを語る方が長い目で見れば近道なのかもしれない。森の認識ではコミュニケーションが成り立つとは思わないけれど。

同じ理系作家、海堂尊は医学という人の生死にまつわる分野だけに、森よりも遥かに「文系」へのメッセージ性が高い。
『ナニワ・モンスター』は、実際に起きた新型インフルエンザのパンデミックを「科学的」な視点を盛り込んで描いている。行政や報道への批判は相変わらず強烈だ。
森が危惧していた報道のあり方をフィクションを通すことでより具体的に認識させている。

海堂は作家、医者である一方で、「Ai」の重要性を社会に説く活動家でもある。最近の作家活動はそのスタンスが強くなっている。本書でもその色は濃い。だが、物語に絡ませてなんとか描き切った。
後半は政治性の強い内容で物語性が減退している。それは批判されても仕方ないことだが、著者の伝えたいものでもある。エンタテイメントとしては決して評価されないだろうが、それでもあえて描くのが海堂尊と言えるだろう。
道州制など私自身必要性を高く感じている政策が語られていた点もあって興味深く読めた。風呂敷はどんどん広がっている。この先どんな日本を描くのかとても楽しみだ。


最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ドーキンスくらい割り切った「無神論者」であるな... (名無し)
2011-09-07 21:09:47
極限状態で問われる倫理などは根本的にフィジカルなものですし、そもそも人間の思考自体が環境に縛られる以上、現行の宗教をどう継続させるか、というのは大概の国で命題化していますし。
損得重視イコール「冷静/冷徹」ではありませんが(その上で”理性的で、尚且つ利他的な社会を作る”という理想のもありでしょうし)、その先まで踏み込めるほど科学(というか、それに個人が接続する為のインフラ)は完備されていない、というのが現状ではないかな、と思っています。
返信する
科学者がみな無神論者というわけではありませんし... (奇天)
2011-09-07 22:25:44
森博嗣はそうした「科学的」思考をかなり普遍にまで繰り広げ、そのことが彼を非常にユニークな存在として印象付けています。
こうした視点からの発言は刺激的で大いに参考にもなります。

ただ記事内で書いたように、森のような考えが普遍的にできる人はごく少数であり、それは決して変わらないだろうということも事実でしょう。海堂のように言葉と行動の両面から活動するならば、社会の変革に寄与するでしょうが、森の場合そこまでの意志があるようにも思いません。

科学は社会の基盤として一定の割合を占めているのは事実ですが、先進国であっても宗教もまた一定の割合で基盤として存在しています。
倫理や道徳といった社会性が不可欠である以上、国家的なレベルでもその必要性は減じ得ているとは思いませんし。

合理性はコミュニケーションのためになくてはならない存在ですが、それだけでコミュニケーションが成り立つわけではありません。森のユートピアはやはりユートピアでしかないように感じてしまいます。

コメントとしては更に脱線しますが、『科学的とははどういう意味か』では繰り返し「文系」「理系」という言葉が出てきます。「文系」の科学アレルギー的言動に対するその原因究明や処方箋を探るというテーマがありました。
ここで語られる「文系」は、「理系」ではないという意味で使われていて、実際そうした言葉の使われ方も一般的ですが、「文系」の端くれとして違和感も覚えました。

分類すのであれば「文系」「理系」「その他」とするべきで、「文系」であれ「理系」であれ論理に従って研究します。
「文系」は人間(主に心理や行動)を対象にし、「理系」は物事を対象にする、それだけの違いだと思います。

再現性を求める科学的な手法は物事には有効ですが、人間相手には使いづらいものです。
科学的かどうかではなく、論理的かどうかこそがより大切な視点だと思っています。
返信する
>理想かどうか (名無し)
2011-09-07 23:28:01
科学と信仰の折り合いだと、丁度ドーキンスvsグールドがそんな経過でもあったのかなと思います。
どこまで個人が合理的になれるか、というのは、その合理性に対して個人がどこまで能力を発揮できるか、という部分に行き着かざるを得ない面がありますね。適正自体が準生得的な状況に縛られる面もありますしね……。
それがSFだとディストピアとして書かれてきたのは、現代社会のテーゼとして存在する「平等」とそれがどう折り合うか、というのもあるかなと。
ある行動が合理的だと解っていても、その行動を取る為に被る不安や不快が個人を「壊す」ような状況は存在するし、それをクリアするのは、それこそ倫理の破綻に繋がるような手段に繋がりかねないのも想定できる、というのはありますしね(それこそ「平等であるかどうかに対して反応する個人」も含めて)。

>文系/理系のラベリング
確かにかなり大雑把すぎてどうかな、と思う事も多々あるのですが(こないだの芥川賞に関するあれこれとか)、これも「空気」として、なんとなくでも了解してしまおうとする傾向、それが可能であるようなパイが存在する、というのが大きいのでしょうね。
文系=論理性を欠く、という文脈なのであれば、流石にそれはなあ、と(苦笑)。

森先生の作品はこのところ読んでないのですが、ノベルスの発刊ペースなどを改めて見てみると、なんだかんだで結構凄いな、と思ったりはします。
これも脱線になりますが、執筆ペースなども合理的に割り切ってたのかもしれません。いえ、これは強引ですがw
インタビューなんかを読む限り、公私の切り替えがかなりハッキリしている印象などは持ちました。
あと更に脱線するなら、作品の傾向として海堂先生と比べる場合であれば、今は海堂先生の方が興味の範疇に近いように感じてます。
返信する
科学と信仰についてはコメント欄に書くには大きす... (奇天)
2011-09-08 21:36:04
『科学的とははどういう意味か』の中で科学的とは再現性を伴うものと述べているわけですが、時としてそれを未来予測性と捉えることがあります。
地震予知なんかが代表ですが、もっと身近な天気予報もそうですね。
しかし、限定的状況における再現性と複雑な要因の絡む未来予測を同列に扱うわけにはいきません。

今回の原発事故での放射線の危険性についても、「ただちに危険ではない」という現状への分析は可能でも未来における危険性は「科学の範疇外」と言えるかもしれません。
未来予測と科学でもうひとつ大きな話題は地球温暖化ですが、こちらも科学の範疇というよりも政治や経済の範疇に近い感じがします。ただ科学の目標のひとつは間違いなくこの未来予測性の確立だろうと思うので、今後どうなるかという話ではありますが・・・。

SFにおけるディストピアも現実的に捉え方次第という側面はあると思います。『ハーモニー』で描かれた生府による医療社会なんて特にそうですね。
たとえば私たちのいる現代も未来から見れば暗黒の時代と捉えられるかもしれません(というかそうであってほしいかもw)。内部の意識と外部の視点がずれることは当然でしょう。

コメントのレスとしてもかなりずれてしまいましたが、許してくださいw
返信する

コメントを投稿