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感想:『ニッポンの思想』

2009年10月01日 20時49分50秒 | 学問
ニッポンの思想 (講談社現代新書)ニッポンの思想 (講談社現代新書)
価格:¥ 840(税込)
発売日:2009-07-17


80年代「ニューアカ」登場以後の「ニッポン」の思想を、80年代、90年代、ゼロ年代に区分し、浅田彰、中沢新一、蓮實重彦、柄谷行人、福田和也、大塚英志、宮台真司、東浩紀をそのプレイヤーとして描いてみせた新書。時代背景やある程度の予備知識があれば、この時代の日本の思想の概略を掴むには適した本だと言えるだろう。

『構造と力』から端を発した思想ブームはまさに時代の要請だった。高度経済成長が終わり、オイル・ショックを乗り越えたその時、思想的には左翼運動が完全に挫折し、ぽっかりと空洞が現れていたそこを埋めるようにポストモダンの風が吹き込んだ。
浅田彰、中沢新一、蓮實重彦、柄谷行人によって代表させた80年代は、「大きな物語」の終わりを提示したが、彼らの意思に拘らずその思想はファッションとして消費された感が強い。先進国となり、他国の背中を追う立場ではなくなったことで、それまでの「追い付け・追い越せ」型の発想は機能しなくなり、過去の法則は価値を失っていった。
新しい価値の創出や新たな時代に相応しい生き方のマニュアル化が表出し、普通の子が一夜にして「アイドル」として光り輝くような空気が誕生した。

80年代批判から福田和也、大塚英志、宮台真司が台頭したと語る90年代。本書においても「オウム」にほぼ一章割かれているが、現在の視点から顧みて90年代の思想に影響を与えたことは認めるにしてもそれがそれほど大きかったかは非常に疑問を持つようになった。バブル崩壊に伴う不況下での閉塞感や、ハルマゲドンに見られる一発逆転の発想は確かに時代の空気に含まれてはいたが、時代の主流はもっと諦観めいたものだったように思う。
1999年のノストラダムスの預言は、思考の根底に漂い、ある種の願望としてありながら、それが在り得ないことも識っている、むしろ非オウム的な心理こそが強かった。オウムに対してはメディアによる輻輳があったのではないか。
時代の空気を描き、「大きな物語」を破壊し尽くしたものが『新世紀エヴァンゲリオン』であり、アニメ史としてはヤマトやガンダムに及ばないが、サブカルチャーとしての影響力は他を圧した。

一つの閉塞感を抜けた先に新たな閉塞感が生み出されたゼロ年代。本書では東浩紀一人勝ちと定義している。徹底した相対主義の先に、《いま・ここ》をただひたすらに生きる社会が構築された。緩やかだが逸脱を許さないコミュニケーションが真綿のように締め付けていく。それは新たなアーキテクチャである、インターネット、コンビニエンスストア、携帯電話、監視カメラによって良くも悪くも支配される。
特に時代のタームとして挙げるならば「ケータイ」依存となろう。ゼロ年代がコミュニケーションの時代となることは、「エヴァ」への返答としての『高機動幻想ガンパレード・マーチ』でも明らかだったが、コミュニケーションの中身ではなくコミュニケーションそれ自体が目的化し、コミュニケーションの場が重視されてしまった。
政治はもとより、戦略的な視点さえ消失し、場の中での振舞いという戦術のみが必要となり、空気を読むことが共通認識となった。

80年代以降の私自身のタームによる認識と本書をそれにすり合わせて読んだ結果は以上の通りだ。思考の補強としては読む価値があったと思うが、それと同時に強く感じたこともある。
それは思想の世界、論壇や一部ジャーナリズムの世界での椅子の取り合いであって、それ以上の意味がないということだ。それが悪いとは言わない。それを求める人々がいて、そんな狭い世界で成り立っていても問題がないからだ。私自身もそこに完全に重なるわけではないが、狭い世界のみを相手にしていることに変わりはない。
80年代は時代の要請があった。だが、思想と時代は乖離し、今の日本の思想が時代に応えたものとは思えない。日本社会が思想を必要としていないと言えるかもしれないが。
本書で思想の目的を、社会の変革と社会の記述の2点だと指摘している。現在の思想が前者を行う力を持ち得ないと思うが、私が重要視しているのは後者である。だが、それは単なる歴史的な見方、過去の記述で終わるものではない。やはりそこには未来に対する視座がなければならない。残念ながら本書はその期待に応えるものではない。それが物足りないのも事実だ。だがそれを自らの手で明らかにしようとするならば、その手助けには成り得るだろう。一読の価値のある書だと評価する。


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