奇想庵@goo

Sports, Games, News and Entertainments

なぜマンガの主人公は高校生ばかりなのか?

2013年06月28日 00時02分48秒 | アニメ・コミック・ゲーム
記事タイトルは「なぜマンガの主人公は高校生ばかりなのか?」だけれど、マンガの主人公が高校生ばかりという事実はない。

嘘、妄想、誇大広告である。誇張だけれど、マンガ以外のジャンルでは誇張でなかったりもする。例えば、人気ライトノベルは現在ほぼ主人公は高校生だ。
深夜アニメもライトノベル原作が多いこともあり、高校生主人公が多い。コミックの中でもジャンルによっては高校生主人公ばかりのものもある。

児童文学は子供を対象に描かれているため主人公が読者に近い年齢=児童となるように、少年誌や少女向けマンガ雑誌の掲載作が読み手の年齢に近いのは当たり前と言える。ただ少年誌やライトノベルは本当に高校生ばかりが主人公となっている。中学生や大学生が主人公となるケースは稀だ。ある意味、日本において青春時代は高校生活の3年間だけだと思うくらいに。

海外でも学生生活を描いたフィクションは存在するが、全体の中での比率はそう高くないと思う。海外の若者たち、特に思春期の人々はいったい何を読んでいるのだろうと思うくらいに。日本のアニメ・マンガが海外で受け入れられたのはそうした隙間をうまく突いたからとも言えるだろう。

日本でもこうした傾向は決して昔からあるものではない。マンガの神様手塚治虫の作品の中で学校が舞台となった作品は多くない。主人公が中高生であっても、学校をメインに据えるケースは思いつかないほどだ。藤子不二雄作品の多くは(特に藤子・F・不二雄作品は)小学生が主人公で日常の生活を描いているが、学校の外が舞台になっていることが多い。『魔太郎がくる!!』のように学校がメインで描かれる方が珍しく感じる。

コミックにおいて学校が舞台になるのは、ラブコメ、スポーツ、ヤンキー、ギャグあたりのジャンルだ。スポーツも昔はプロがメインで学生スポーツは『ドカベン』のヒット以降だろう。ギャグも『マカロニほうれん荘』を経て、『ハイスクール奇面組』あたりで定着したように思う。
ヤンキー・不良系マンガは本宮ひろ志や『愛と誠』など70年代から連綿と受け継がれているジャンルとなっている。

ラブコメは少女マンガによって開発され、恋愛(恋愛への憧れを含む)を通して主人公の成長を描くことが本筋だった。男女の恋愛をリアルに描くことには抵抗のある時代、コメディ形式を利用することはひとつの抜け道と言えた。
少年誌でのラブコメの元祖と言われる『翔んだカップル』でもコメディ要素は序盤だけで中盤以降は青春ものになっていく。主人公の成長を描く中でそうした傾向は強くなる。ラブコメのひとつの完成系とも言える『タッチ』でもその傾向は強い。

一方、少年マンガ誌では主人公の成長と無関係にラブコメ要素だけが消費される作品が生まれていく。『うる星やつら』や『きまぐれオレンジ☆ロード』などがそうで、それ以降ハーレム系ラブコメへと発展していく。

小説のエンターテイメント化を進めた角川商法、「楽しくなければテレビじゃない」を掲げたフジテレビ、一般の人々にまで広まったポストモダンの流行、「やまなし・おちなし・いみなし」としてのやおいの登場など、70年代末から80年代にかけて既存の権威に対して面白ければいいという価値観の転換が起きた。更にその後のバブル期にそうした考えは広く浸透した。

バブルがはじけた後も古い価値観が戻ることはなく、より虚無的・刹那的な感覚が支配していたように感じる。阪神大震災やオウム事件などはそれを加速させた。フィクションではエヴァの流行や18禁ヴィジュアルノヴェルのヒットなどがあった。

萌えの発見以降は、成長としてのラブコメではなく、楽園としてのラブコメという意味合いが一層強くなる。リアルさはどんどん失われ、キャラクターは楽園を維持するための装置と化す。オタクに向けた商品としての色合いが濃くなり、やおいと同じように完全なファンタジーになった。

RPG的ファンタジー世界を描く作品が多かったライトノベルだったが、『涼宮ハルヒの憂鬱』のヒット以降学園ラブコメ作品が急増する。異世界ファンタジーからラブコメファンタジーへの転換は当然の帰結だったのかもしれない。

ゼロ年代はバブル以降の日本の沈降を若い世代が直撃した時期であり、若者の貧困率は高く、就職難とそれに伴う大学の就活機関化が加速した。若い世代にとって高校生活は最後の楽園になっていた。

こうした高校生活ものが流行る背景のひとつとして、若さへの憧れと大人になることへの忌避感が日本人の間に強く存在することも挙げられるだろう。これも学園ものが量産されることと時代的にシンクロしているように思う。

伝統的価値観への忌避は80年代あたりから急速に広まるが、その大きなもののひとつが若さ重視だった。軽薄短小が時代の合言葉だったが、それ以上に若さが歓迎された時代だった。素人の女子高生を集め人気を博したおニャン子クラブはまさに象徴と言えるだろう。

ただこの若さ信仰がその後も続く理由はよく分からない。成熟して大人となること、大人としてふさわしい行動や態度を取ることは、海外では当たり前のことだし、日本でもそれが当たり前だった。「かわいい」や「萌え」は大人の成熟した文化では否定されるものだろう。

80年代から90年代にかけて、成長のための大きな物語が否定された。それまでの当たり前だった「大人」像が信用できなくなった。その後の多くの若者向けフィクションから成熟した大人が消えてしまった。未成熟な子供たちが幼い考えを振り回す様を描いたドラマがもてはやされている。

大人になることだけが正解だとは思わない。若さへの信仰も仕方ないのだろう。ただ何事も一色に塗りつぶされることには嫌悪感を感じる。コミックはそれなりに多様性を保っていると思うが、ライトノベルはもう少し多様性があってもいいのではないか。

だから、どうしたって話なのだけれど、これまでのラブコメ論の焼き直しということで(ぉぃ


最新の画像もっと見る

14 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
最近だとまおゆうとか、BOX系レーベル(というか至... (名無し)
2013-06-28 02:49:21
羽月は惰性的な面とレーベルを考慮したこと、高校生主人公のインパクトなど、多面的な要素がありそうですけど。
中二とか部分部分の要素を見ると、既存のテンプレ(学園モノ)をいかに弄るかに主眼が移ってきてて、そのへんはもう「ラノベという環境全体の相対化」みたいな状況にも感じられます。
これは、「主人公の環境テンプレ」が一度行き着く所まで行き着いたのが今で、そこでまた分岐してきてる面もあるのかなと。
異能バトルはもうメタな見方されちゃう環境が整ってしまっていますし、ああした状況は逆に普遍的なバトル物(とか伝奇)と繋がってきて、巧くすればニンジャスレイヤーみたいな方向性に突き抜けたりするでしょうし(大人主人公)、そうでない、単に「とりあえず高校生」みたいな作品だと、あんまり意味がないような環境に感じてます。
ヒロイン(との関係も含む)にしても「萌えるなら別に」みたいな状況ですし、敢えてそこで必然性があるならシチュエーションが学園だと既に便利なテンプレが沢山あるくらいだと思えますしね。

アメコミとセカイ系の比較だと、アメリカはそもそも「成熟した大人の物語」を重視することが多いからか、思考が固まってる主人公は多い気がしますね。
バットマンにしろスーパーマンにしろ、ある種の傲慢さを抱えたまま、それに苦悩しながら戦う、という姿勢が固定されてますし。
日本の場合、牽引役の大人キャラが不在化すると、それが直でセカイ系みたいな方向になってきたのが要因としてはあるのかなあ、とも想像してます。
というかまあ、自分がラノベを特に読んでた頃の作品がそうだったなあ、という回想でもあるんですけどw
大人がいない、という環境をデフォルトにしてたからか、それに不自然さを感じてなかったりしました。
これはまあ「うる星」とか、その後の停滞系ハーレムの流れの中に位置付けられるのでしょうけど、今、作品史などの総括から自分の読んでた作品(群)を振り返ると、「そういう環境」を書くことが作品の前提そのものになって、それがテンプレを作り出して、その流れに沿うことが漫画やラノベのデフォになってたのかなあ、という気はします。
影響する要素にはジャンプ作品の変化なんかもあるのでしょうけど、あそこはもう前提が少年主人公の肯定に(90年代以降)あったので、そういうのも作品定義に関係あるのかな、というか。
MAG・ネット関連の話だったと思うのですが、とりあえず高校生以上だと受け入れづらいのでは、みたいな話はありましたけど、「じゃあなんで?」という理由は、感情移入だとかメインの読者層だとか(これは正直微妙なんですが)テンプレな理由に終始してしまって、こういう状況からも割と限界というか息の詰まるような状況は感じてます。
学園モノであればその必然性が必要で、今だと社会レベルのテーマレベルから学園モノに落とし込んできますけど、余程それが巧くないと、いい加減惰性だなあ、という気はしてますね。
漫画はまだイラストの効果があるのでいいのでしょうけど、ラノベはどうにもw

今この時代に「シティーハンター」を週刊少年ジャンプに引き戻す必要は感じませんけど、テーマやエンタメのクオリティを「学園」に縛り付けてしまうのは、それはそれで隘路に嵌まってるかなと。
そうした制約の中から生まれる作品は、たとえばボカロ系作品とかpixiv系の女性作品とかのナイーブさを持った方面にはプラスに働くでしょうけど、そうでないあれこれはやり尽くしてしまった感があるので。
メディアが分散して色々なところで話題になる作品が出てきてる今だからこそ、焼き直しの意味でない「多様性」を持ってきても良い気がしますね。
ジョジョみたく、条件に縛られないまま普通に面白い作品が増えてもいいんじゃないかというかw
返信する
>羽月 (奇天)
2013-06-28 21:57:50
著者がラノベに慣れていなくてテンプレを使用したという面と、高校生に読んで欲しいという強い気持ちがあったからでしょうね。至道作品はメッセージ性が強いので、他のラノベとは同列にできない感じもしますw

>ジャンプ

冒頭にも書きましたが、コミックでは昔に比べて学園ものが増えているというデータはないと思います。最近のジャンプには詳しくないですが、そう目立った変化はないのでは。ただ主人公の年齢の低下はあるかもしれないですね。
ジャンプに限りませんが、近年のヒット作である「物語」シリーズや「とある魔術」なども学園ものの範疇には入らないと思いますが、主人公が高校生であることには必然性が感じられます。まあ高校生でなくても描けるでしょうが、高校生であることが自然ではありますね。

>大人の主人公

作り手(更に言えば出し手)が思うほど主人公の年齢がヒットに関係するとは思いません。どちらかと言えば説得力あるキャラクターを作る能力の低下が理由かと感じます。それこそテンプレで作れる「子ども」のキャラクターしか作れないのではと。
作り手はもちろん、編集者などの関係者の多くもコミックなどのサブカルしか知らない世代なのかなと思うことが多いですね。

>少女マンガとやおい系

少女マンガのラブコメに関しては今でも「成長」ありきだと思います。恋愛を通して成長することは女性にとって現実的に必須事項のようなものなのかもしれません。そのくびきから逃れられないのは仕方ないことでしょう。
『福家堂本舗』は和菓子屋を舞台にした三姉妹を描いたラブコメですが、恋愛を通して母という古い価値観を乗り越えた姉妹が子どもが出来たあと乗り越えた母のような存在になってしまうというラストが衝撃でした。

男性向けのハーレム系ラブコメというファンタジーに当たるのが、女性にとってはやおい系ということになります。女性の恋愛の持つ重さがフィクションであっても逃れられない以上それが必然なのでしょう。

>多様性

コミックは、メジャー誌はともかく、様々なレベルの媒体があるお陰で多様性は保っていると思います。電子書籍との親和性も高いので、更なる多様性を期待したいですね。
一方、ラノベはちょっと飽和状態かなと感じてしまいます。学園ものラブコメとファンタジー系ラブコメばかりですし・・・。
上遠野浩平、秋山瑞人、古橋秀之など別に美少女が出てこなくても楽しめるラノベはあったはずなのですが。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-03-29 17:56:35
年取っていいことないからね。
若いうちに死ぬのが一番、でも多くの人が勇気がいるから出来ない。
返信する
Unknown (名無し)
2017-05-08 03:33:30
それはそもそも主観レベルの、しかも個人的な価値観の話に終始していて、奇天様の提示した話題とあまりにもかすってないとは思いますが……。

というより、その意見もまた「その意見を有している特定の時期の特定の感情」に依拠してますよ。
恐らくは、ですけど。
でも子供の頃から曲がりなりにも色々な意見を見聞きして価値観を得てきて、それなりに感じ取れるようになった感想からもこれくらいは提示できます。

いずれにしろ、世間の価値観やメディアが肯定する価値観のループはここ数年でも揺らいではいない感じですねー。
ジャンプ漫画なんかですらデスノ以降の変遷なんかを見るに、もはや「努力、友情、勝利」を基盤に据えてもテンプレをテンプレとしてどう扱うかを扱いあぐねてる感じですし。
でもって、それによって「感情移入」がかつて必要だったのが、テンプレはテンプレとして見るべきだ、ということになってきてるかなと。

もちろんその弊害として「テンプレ」に合致しないキャラは扱い辛くなり、それ以前にテンプレがどんどん変化するのでそれを扱うスキルが求められてるのもあるとは思いますけれど。
ラノベ主人公のテンプレなんてばかすか変更されたり。
現状としてはぎりぎりそのせめぎあいで「読者の成長によって感情移入から省かれた作品が価値を失う」ことにはなってないと思いますけどね。

ワンピースだったと思いますが、読者は成長したら漫画から卒業して当たり前みたいな発言も炎上に繋がってはいないですし。

JRPGの特徴なんかもここから推測できると思えてきてます。
ニーアなんかもそうでしたし。
特撮とアニメの見栄を切る表現との相性もそうですけど、人生や人生観を「リアリティ」として捉える目線の違いでもあるかなと。

あくまでキャラクターという一つのフィルターを目の前に置くのが特徴というのはあると思いますから。

この記事から数年経ちましたが、テンプレをテンプレとして扱うしかなくなった状況と、いかにネタで勝負するしかなくなったか、或いはそのネタがどれだけ強さを持てるかの状況に至って、やり取りしたコメントが納得できます。
実際、ヒットする作品の主人公の年齢はそれほど関係ないでしょうね。
ユーザーに対してどれだけその作品固有の価値がヒットするかどうかだと思います。

ヒロインの造形なんかは判りやすいですし、アニメ化からのヒットなんかでもこれはよくわかります。

pixivなんかの変化を見てて「おそ松さん」をブームとして横目にしてからはやおいのフィクション性についてもなんとなく体感レベルで実感できるようになりましたね。

ある意味では、「信仰」そのものがテンプレになったのがこの状況だと思ったり。
それを自覚的に消費してたのがこの数年、というか、ゼロ年代以降の創作でしたけど、それすらテンプレになってきた感もありますからね。
転生モノブームはどこぞの書評で「ここと繋がってないのがいい」と書かれてましたけど、感情移入という点からしたら属性の共有すら面倒になってきているのかなというのは感じますね。

AI全盛期になったら属性そのものが放棄されるかもしれませんがw
返信する
Unknown (奇天)
2017-05-08 20:34:59
この記事を書いた2013年は、僕は友達が少ない2期ややはり俺の青春ラブコメはまちがっている。1期のアニメ化がありました。しかし、その後は学園もののヒット作はほとんど出ていません。

ライトノベルも異世界転生ものが流行りとなり、アニメもラブライブ!やガールズ&パンツァーといった学園ものではあるものの学園生活はほとんど描かれていない系の作品が増えました。

一方で、SHIROBAKOやNEW GAME!のような社会人を主人公とした作品もヒットしました。日本人の若さ信仰は衰えていないと思いますが、学園生活をリアルに描くことが困難になってきたのかなとも思います。

最近は以前にも増してヒット作の傾向を知ることが難しくなってきました。ただSNSによってヒットした作品はより大きく扱われて大ヒットになりやすい感じはします。もちろんオタク界隈に限られた話ですがw
返信する
Unknown (名無し)
2017-05-09 03:16:22
実際、日本は市場として特殊だと思います。
あくまでオタク界隈市場はですけど、とはいえその「オタク界隈」というざっくりした括りでのそれは作用としては広範囲で、端的には語れないんですよねw
というのも、オタクという単語で表現できる範囲が曖昧になり過ぎていて、今やコアラのマーチのコアラで「オタクコアラ」というキャラがサイリウム振り回すオタ芸コアラとしてキャラ化されてるくらいですしw

「それアイドル限定だろ!」とw

洋ゲーと和ゲーを比べる機会が多くなりましたが、洋ゲーの主人公は圧倒的に大人が多いですし、それでこそ説得力が得られる作品が多いです。
Falloutシリーズは評判こそ割れたものの子供を持つ親が主人公のそれは「それならでは」のストーリーが展開されてますし、バイオショックでは最新作もそうでした。
これはストーリー上、「大人でなければ背負えない」「背負っていることに説得力があるのだ」ということに間違いはありません。

日本の場合、テンプレがそこに挟まることで特殊な設定を挟み込み、子供の主人公に説得力があるように全体を寄せる、というのがあるなと感じます。
もちろん寄せ切れずに齟齬が生まれるのですが、それが逆にスタイリッシュな要素に繋がったりしていったのがJRPGの系譜でしたでしょうし、例えば初期のデビルメイクライに見られたような印象だったかと。

少しは触れ始めてる特撮と歌舞伎の背景なんかでも感じることがあるのですが、特撮のあの動きって、元を辿っていけば歌舞伎のような見栄を切ることで場面を「そうであるからそう楽しめ」という構成に繋げる所作なのかなと。
ああいうのは日本発祥の表現とかあると思うんですよね。
ブレイドの映画初期インタビューなんかでもあったと思うのですが、わざわざ無駄な動きを取り入れることで場面にメリハリを付けて、その場面が浮いているのに自然に尚且つ格好良くできると。
今では当たり前の表現になりましたけど、ハリウッドではワイヤーアクションとの連携で結構見られますね。
実戦で言えば絶対に無駄なのに「無駄でないように世界が肯定してそれを当然の格好良さにする」というのは多かれ少なかれどんな表現にも共通していますが、日本のそれは顕著だなと。
制作会社のせいもありましたけど、メタルギアライジングとかそれに特化してましたw
もちろんメタルギア自体がそうした日本的な要素をふんだんに持っているからこそ特殊な作品に成り得たのですけど、そもそもからして雷電の存在自体がそういうところから出発したのに、MGSのコードに取り込まれてああなったのも面白いところです。

ゲームが発展するに従って、映画並みの表現力を手に入れて、それでもなお日本の作品が日本独自のそれであり続けているのは、そうしたコードが特殊だからだと思うのですよね。
過剰、とも言えるのですけど。

ペルソナは3以降、その路線を推し進めて、今では自覚的に青い表現をポップな表現で行うことに特化し始めました。
あれは学生モノ+マスコット+神話的な背景も入れてみる、みたいな全部入れの典型的な日本のオタク系作品のコードにあれど、今やもうその「オタク」がライト層からヘヴィ層にまで段階的に分かれながら繋がっているのでどこにでもアピールできます。
結果的にいかにもアニメ的なハーレム要素から場面単位で差異を最大化する(マスコットがいちいち合いの手を入れてくれたり、アニメ風の「設定」の中で戦ったり、なのにそれが世界の危機に繋がったり、それが格好良かったり)のは強みかなと。

用意された設定がご都合的に主人公の周辺に堆積する、ということ自体はどこの国でも同じだと思いますけど、それに対するポップな理由付けやその設定に設定を加えて肥大化させたり、設定同士で戦うのを主流にするのは日本的ですしね。
スターウォーズで最強のジェダイは、みたいな比較は世界のどこでもありますけど、それが常に存在してるのは日本くらいじゃないかなあと。

中二病とかセカイ系とか、今ではやや懐かしさすら感じる単語は形骸化してテンプレになりましたけど、あれらにしたって元々はそれぞれの要素の括りを包括してたフレームのそれぞれの位相のパターンでしたし、そういうのが自然に参照できるのかなと思います。
個人と世界を直結させる物語は、そのための設定を必要としますけど、その設定の幅によってジャンルをこなしているのが日本の特徴だなというのは以前より感じるようになった……というか、これはメタ化が進んでよけいに目にするようになったんですけれども。

洋ゲーとか、例えば洋ゲー的と言われるダークソウルとかだと、主人公って「自分」なんですよね。
物語的な背景はそこにはなく、設定は設定として世界に担保されるような構造があるので。
ダークソウルはちょっとやり過ぎな感じもしますけど、ああいうTIPS的な世界で構築されてると、主人公として世界を旅してる感じはします。

過剰に設定と、設定に付随する物語を言及していくことによって生まれる多層性みたいなものがJRPGにはあるな、と。

極論、主人公の背景があった方が物語にアクセスはしやすくなるし、その背景に頼った方がキャラクターは作りやすくなるし、人間関係を作っていくようなゲームではそっちの方が便利というのは判るのですけどね。
「無名の誰それ」でなくて「ジェダイの騎士誰それ」の方が背景が緻密になるでしょうからw
ただそれによって過剰になってきたテンプレが無数にあると、そのテンプレを自覚的に使うことでメタ化した世界観の作品の方が増えて来てるなというか。
ダンガンロンパとかそうでしたけど。

これが行く付くと、「少女キャラは美少女キャラで当たり前」になるのでしょうし、主人公は「美形で当然」になってくるんだろうなと。
わざわざ言及しなくても少女キャラが「ヒロインとして換算される」ような状況になってるのって考えてみれば特殊だと思いますw
少女漫画だと違うんですよね。
明らかに「美少女に描かれている」キャラがいる。
少年漫画は少女キャラはヒロインであって、外見と内面は反応に対して理想化されてるので、こういうことってまずありません。
というか、少年漫画はメインとするのがバトルやサスペンスであって、内面に特化してないからこういうことは当たり前になってきたのでしょうけど。
ただこれにしても「少女=美少女」は作用していて、テンプレとしてそれが突き詰められてきたからこそヤンデレ物とか、それに捻りを加えた作品とかあるわけで。

たとえばラノベで美少女じゃない少女って、ほぼ狂言回しかモブなので。
返信する
Unknown (名無し)
2017-05-09 03:18:20
少女漫画でも「過剰なテンプレ化」は進んでますが、あれらは内面を描くことに全体の構成を振ってるからか、テンプレの進化が違う方向なのもちょっと面白いところだとは思います。
pixiv小説でAmazonに売られるような作品とかをざっと眺めてても、少年漫画と同じ方向のキャラ設定を用いてても、その方向性によって設定によって設定を掘り下げるような構成を取りません。
具体的にはバトルの為のバトルって少年漫画の為の者だったりするんですよね。

とはいえ、その背後には「テンプレ化した無数の構造」があるのは間違いなくて、それが日本の作品には共通してるなと。

「主人公が学生」は判りやすい価値として、その中の一つ、そしてかつ代表的なものだったりしたのでしょうね。
素地としては戦前戦後の創作なんかにもあるようなのですけど、実際、自分が凄く小さい頃から学生主人公は既にテンプレだったので、受け継がれてるものを設定として掘り下げていくことで「それはそういうものだよ」という価値が付与されたのだろうなと。
ドラマとかでもそうですけど、メディアが付与する価値があると、実際にそれが「いいものだ」として定着していく過程あってあるんですよね。
不良漫画のスタンダードとかでよく聞いた話でもあるんですけど。
世間が共有知として肯定するイコンがある意味ではそれなんだろうなと言いますか。

感情は見聞きするものに左右されますし、ネットなんかは意見を出すことでしかフィードバックが得られませんから、ブン投げ気味のまとめサイトとかでは一方的な意見が羅列されたりして、こういう事情は増幅されてると感じます。
世間が「その特定の属性に価値を見出しているのなら、それはそうなんだろう」というループがあるので。
思想や言説の流布でも過程としては一緒ですけど、これが物語やキャラクターとなってくると、イラストのような即効性のある価値などが付与されていくので、この効果は大きいと思います。
海外で真っ先に話題になるのってアニメですし、原作が読まれることがなくてもラノベでキャラクターは知られてるみたいなパターンってかなりあったりしますしね。
日本の学生キャラが殊更特殊に扱われるのって、学生服という象徴も確実にありますけど、そういう効果とも相まってるなとは思います。

あと、語りとして「え、えーっと……」みたいな発言も日本独特のものですしw
ラノベ的な、というべきではあるのでしょうけどねw
ただこういうテンプレがどんどん積まれていく事で生まれた力場みたいなものはあるなあと。

ただそれが感情移入云々の領域になってくると、「テンプレをテンプレのまま楽しめるか」というのや、「テンプレを流用した大人が楽しみたい」創作にも繋がってくるのはあるな、と。
「ゲート」とかはモロでしたけど、承認欲求を大人を主人公としたレベルに引き上げたライトノベルとして読めましたし。
あれは構成としては完全にベタなライトノベルで、ただし、中二的な要素として挙げられやすい社会の不在については戯画化することでラノベっぽく、尚且つ「大人が書いてる大人の主人公の作品」のようになってました。
でもそれを支えてるのが普通にテンプレ、というのが凄い特殊だなあと感じまして。
かつてなら「それはやっちゃいけないだろう」みたいに敬遠されてた要素が普通にそこにあるという時代が今で、ネット小説の引き上げなんかがこれの代表例だと思います。
欲望をそのまま肯定するのはアングラの仕事で、だけどそれが一定以上の支持を受けてるならそのままメジャーに持ってきてもいいだろうみたいな。
ゲートの場合、このミスマッチが逆に特徴になって、差異化された一点特化の要素というか強みになってたのが特徴になってたなあと。

今ではもうどんなヒロインだろうがどんな主人公だろうが、設定レベルではだれでも考え付くような派生にしかならないので、そういうフレームをどこでどう扱うか、何か強みにあるようなものはあるか、というのが求められてるのは感じてます。

転生モノはその流れと同じレベルで、更に言えばゲートが辛うじてやっていた「感情移入する主体」が肯定される構造すら放棄してることですね。
転生だからどんな属性でもいい、みたいな。
根底にはそれがあると思うのですけど、今ではそれすらテンプレになってきてるのが面白いなと。

でもこの手のまとめサイトを見たことがあるのですが、かなりフェティシズムに拠っていて業が深いなとも思わされるのですけどねw
TS(性転換要素?)があるかどうかが目的だったり、俺つえーがされてるかどうかが目的だったり、目的そのものが先にあるというのが圧倒的に透けて見えるなと。
そしてこれはネットならではの読み方なのだと思います。

pixiv小説を見て回って面白いなと思ったのは、タグで検索するとタグに目的、属性が書かれてることが多いんですよね。
物語が従来の特権的な要素から降りて来てるというのはもう数年前から顕著でしたけど、場面単位で求めるものを描かれているかどうかというのがここには評価の観点としてあるわけで。
ただしそれが一つの作品になるならこれは相性の悪い表現方法でもあるわけで、アングラ界隈とメジャーの境界を覗いてるような気分にさせられます。

作家の人と話しててもこういうのはそういうのを自覚的にやるしかないよねみたいな、それこそゼロ年代前後の文学ジャンル全体が境界的だったころとは違うなと思わされます。

学園生活をリアルに描くことが「難しくなった」というのは仰る通りだと思いますし、それについて価値を世間が見出さなくなった、他の価値にそれが勝てなくなった、というのがあるんじゃないかなあ、と。
極端な話、流行り廃りの中で学園生活の強みが淘汰されてしまってる状況なんじゃないかなとは思いますね。
テンプレとして勝てなくなった、と言いますか。

ガルパンが凄いなあと思ったのは、あれ、学生というテンプレをユーザーとの接点にしたら、それをキャラクター同士の関係性を構築する要素にして(前述のような意味で「キャラに背景がある」と言いますか)、あとは戦車戦という、ものすごいニッチなところに視聴者を誘導できてることですよね。
艦これはゲームだからプレイしてれば自然にそうなりますけど、アニメでそれって、という驚きが。

仕事モノの強みは、学園モノと違ってその時々の、その仕事に固有のリアルが特徴として浮かび上がるからでしょうし、切り口さえ変えれば常に新鮮だろうなと。
極端な話、テンプレをテンプレとして受け入れるからこそ、「上司だけど美少女」みたいな設定だとかを、「設定のやりくりでそれを主人公のリアルにする」ような作品はこれからも出てくると思いますし、むしろ「テンプレとして〇〇」というところは変えられないんじゃないかなあ、と。
それは価値として肯定されてる「と皆が思っている」からこそテンプレなわけで、あとはそれをどう扱うかになるでしょうし。

ゲートの主人公は大人でしたが、ヒロインを敢えて異世界の住人にすることで面倒な要素を避けて「テンプレに大人の承認」を被せてたのは特徴的だったと思います。
同時に、「そういうのでも別にいいんじゃないの?」くらいは思えるような時代になってるなとも。
何しろ大人は以前は子供で、子供の頃からテンプレを扱ってきて、それが当然になってるわけで。

「ヒロインの主流を学生から移せるようになったら次の段階に入った」くらいは言えてるかなと思ったのですけど、これ自体はもう転生モノがなんか別の方向からやっちゃいそうですね(ラノベでは、ですが)w

まあ、創作によって承認を求める必要がないと言えばそれはその通りでしょうけど、そもそも創作に求める所は千差万別でしょうし、あえて無数のメディアの中からそうした媒体を選ぶ時点でそうした価値を選び取ってるので、それもまた肯定される価値なんだろうなと。

ぶっちゃけ、思想や哲学でその時々に得られる気付きなども目的は違えど同じところはありますし。

承認を求めず、キャラと戯れることに特化したのがソシャゲだと思いますが、中でも艦これは多数の領域にアクセスすることに成功した、最近だと稀有な例だとは思いますね。

いずれにしろ、大ヒットというのはもう構造そのものであるようには感じますね。
艦これは単一の要素ではなくて現象としてのヒットでしたし、そうなるにはこれといった要素を絞り切ることは不可能だと思います。
無課金でもそこそこ遊べてしまうというのもヒットに支えられた状況ですしね。

やや話は逸れてしまいますが、ヒットしたコンテンツはもう国内外を問わず捨てることのできない資産で、ジャンプでもリメイク作品が多数存在するように、読者とキャラは「キャラであること」をとっかかりに繋がっていて、それがまたテンプレと作用してるように感じてます。
返信する
Unknown (名無し)
2017-05-09 03:31:11
すいません、眠いまま書いていて文章同士の繋がりが曖昧なことになりました(苦笑)。

>仕事モノの強みは、学園モノと違ってその時々の、その仕事に固有のリアルが特徴として浮かび上がるからでしょうし、切り口さえ変えれば常に新鮮だろうなと。

から、

>極端な話、テンプレをテンプレとして受け入れるからこそ、「上司だけど美少女」みたいな設定だとかを、「設定のやりくりでそれを主人公のリアルにする」ような作品はこれからも出てくると思いますし、むしろ「テンプレとして〇〇」というところは変えられないんじゃないかなあ、と。

とかどんな風に繋がってるんだみたいな状態ですが、「仕事モノはその仕事が視聴者にとって斬新であれば特化したポイントになる」、後者はそれに絡んでるわけではないのですが、そういう作品が出てきたとき、今ではテンプレ表現がある程度前提になっているので、「いかにも仕事モノ」でも、「アニメ絵として映える女性キャラは絶対出てくる」というくらいの意味でお願いします(苦笑)。

>何しろ大人は以前は子供で、子供の頃からテンプレを扱ってきて、それが当然になってるわけで。

も途中で切れちゃってるような感じですけど、創作がテンプレと付き合って発展してきてる以上、大人が読む創作にもテンプレヒロインが出てきても仕方なくなるんじゃないの、くらいの意味で(苦笑)。

部分的にはこれ、以前からそうなってるとは思うのですけどね。
設定はそうでもありませんでしたが、謎解きはディナーの後でとかそうでしたし、それ以前でもビッグネームの京極堂シリーズとか、普通にキャラクターものでしたから。
以前よりもキャラクターが身近になった時代として、創作も変化してきてるのは常に感じさせられますね。

最初の説得力の話に引き戻すと、「大人が主人公であることで説得力が出る」という作品は依然として健在で、ここにシームレスにテンプレートが挟まってきたら何か次の展開も見えてきそうな気はしたりします。
いえまあ、SFの一部作品とかとっくにそうなんでしょうし、アニメでもそういうのはあるにはあるんですけどw
まだテンプレテンプレとはしてないなあ、とw
返信する
Unknown (奇天)
2017-05-10 00:57:48
最近はマンガやゲームにあまり手を出せてませんし、ラノベや小説もほとんど読めていません。流行っているものへのアンテナが機能していない感じです。Twitterやネットが情報源だとどうしても偏りができてしまいますし・・・。

なので、最近の傾向というのがうまく掴めません。この記事を書いた頃よりも、更に混迷している時代のように思えてしまいます。若い世代との感覚の共有が難しくなったことも原因かもしれませんが。

ラブライブ!、ガルパン、シン・ゴジラ、君の名は。と個々のヒットはかなりメジャーなもので、聖地巡礼など外への広がりも感じられる作品ばかりですが、ヒットの理由に共通点があるかと問われれば無理やりこじつけなければ見えてこないようにも思います。

スマホの普及でSNSが更に日常化し、TVとネットの境界も曖昧となり、文脈がなくポツンポツンとヒット作が生まれているようにも感じられます。おもしろいことがあれば、ワーッと集まって参加していく層が増え、よりアクティブになっているのかもしれません。


話は変わりますが、映像(芝居等も含む)ではストーリーやキャラクターよりも演出が命だと何度も語ってきました。歌舞伎で見得を切るのも演出のひとつですね。

人の動きやカメラワークなども含めて、どう見せるか。そこがすべてです。そこに惹きつけるためにキャラクターもストーリーも用意されなくてはなりません。極端な話、台詞が分からなくても見入ってしまう映像が優れた作品だと思います。

その点では先に挙げたラブライブ!やガルパン、特撮ですがシン・ゴジラ、君の名は。はすべて演出的に優れた作品だったと思います。TVシリーズではなかなかそこまで見せる映像は作れませんが、劇場版なら演出の意図を持った映像を作ることに成功した印象です。

一方、ゲームはシステムが命と言ってきたのですが、PSの時代から徐々に徐々に映像的な方向へシフトしていき、作り手の求めるものなのかどうかは知りませんが、すっかり映像命(演出命)の表現メディアになってきた観があります。

もちろんゲームでも演出は大切です。ただゲームのつまらなさを演出でごまかすような作品がないわけでもないので・・・(苦笑)
ソシャゲだとそういう方向性の作品も少なくないですしね。

ゲームの面白さにはいくつかの種類がありますが、自分が考えて攻略していく面白さと、映像などを体験していく面白さに分けることができると思います。前者はゲーム的な面白さであり、後者は映画や芝居などをゲームで体験していくような感じだと思います。もちろん、両方の面白さを融合するようなゲームも少なからずあると思います。

最近のソシャゲだと考えることを放棄した系のゲームも多く、息抜きや時間つぶし、或いはキャラ集めなどを目的とするならば、ゲーム性はかえって邪魔に感じるかもしれません。(昔グリムグリモアのことでその辺りのことは書きましたが・・・)

エンターテイメントが溢れかえっている現状、差別化のために多種多様なコンテンツが存在し、求めたいものを求めやすくなっている時代かもしれません。昔のように、心底から没頭するような作品には出会いにくいかもしれませんが。

元記事とはずいぶんずれちゃいましたが、なかなかこれだと言いにくい時代ですねw
返信する
Unknown (名無し)
2017-05-10 01:54:46
芯のところは変わってないので、奇天様の記事は読み返してもどれも示唆になると思います。
傾向そのもので言えば、「もう誰も包括的に流行を語れなくなった」ということなのではないかと思いますね。
TwitterやSNSの隆盛、各コンテンツのファンが各コンテンツを盛り上げることによる特化した応援の形があって、それを語る為にネタ会話があって、と。

ニンジャスレイヤーの忍殺語だとか、淫夢語だとか、コンテンツを知らなくても「なんとなくそこら中で使われてるのは知っている」会話は、もちろん2ch用語の頃からあったと思いますが、今はより「会話する為の取っ掛かり」としての要素が強くなったなあ、と。
アクセスする為の、「マジになってないよ、ネタだから話そうよ」というのもあるのでしょうけど、もっとライトに「まあこういうもんだよね、俺はこう思う」くらいの意図で使われてるなと。

だからもう「ネタとして使えるもの」に価値が集中してくるのはあるんじゃないかなあ、と。
転生モノは欲望をそのまま掬い取る一部のニッチなコンテンツだったのが、ラノベ業界全体がネタ物として乗っかって今の状況がありますし、恐らくこれも一過性のまま吸収されていくと思います。
ただ、そんな「一過性の物」に学生モノが駆逐されたというのは少なからず驚きをもちましたし、そういう時代なんだなあ、と。

>スマホの普及でSNSが更に日常化し、TVとネットの境界も曖昧となり、文脈がなくポツンポツンとヒット作が生まれているようにも感じられます。おもしろいことがあれば、ワーッと集まって参加していく層が増え、よりアクティブになっているのかもしれません。

正にこのご指摘に全てが集約されてるのではないかと思いますね。

アニメを作るにもドラマを作るにも予算が必要で、ある程度の資本に支えられて全員が祭りのように集まってヒットが生まれる、と。
俗に言う「爆死」は、それが期待外れだったからでしょうし。
とはいえ、計画されて出てきたものほどそうなりやすくなってしまっているのは、作り手が一から用意したものほどユーザーの興味をひかなくなってるのはあるんじゃないかなあ、と。

「はいふり」とか見ないまま終わってしまったのですが、それこそ「ガルパン」なら自分の目にも入ってきたのにそうでなくて、こういうのは草の根の盛り上げに繋がらず、その瞬間から用意されるべくして用意されたコンテンツだったからのように思います。

>人の動きやカメラワークなども含めて、どう見せるか。そこがすべてです。そこに惹きつけるためにキャラクターもストーリーも用意されなくてはなりません。極端な話、台詞が分からなくても見入ってしまう映像が優れた作品だと思います。

これですが、漠然と考えていた要素が一括に集約されてました。
ありがとうございます。

時代劇とかを最近改めて色々と見直していて、「おっ」と思うようになったのは、「なんでこの表現がこうやってここで?」ということで、歌舞伎について色々と調べてたら繋がってきたものがありまして。
これはテンプレ重視の日本の作品群の中に精神的に根付いてる物じゃないかと思うのですが、なるほどな、と改めて感じられたと言いますか。

「君の名は。」は、正直無数に意味付けする理由がある作品とは思いません。
ですが、あれはあれで、見るだけで楽しめる、それこそ一回見るだけでもいいからその時そう楽しい、という点が重要だなと。
ジブリとの決定的な差は恐らくそこなんですが、ジブリみたいなのは本当に例外ですし。

寓話的にならず、尚且つ今のアニメに自然に触れる層の欲望を吸い取って、ただ気持ちいい表現に徹することができればああなるんじゃないかあと。

ジブリはその作品が個別でどうかに関わらず、ジブリである、というだけでもう意味を背負ってますしね。

シン・ゴジラは劇場で何回も見たのですけど、これも同様だったと思います。
ハリウッド映画に比べれば当然部分部分では予算の差や演出に使える技術の差は感じましたが、それを脇に置いても「この場面のこの圧倒的な表現」というのが感じられました。
まあ自衛隊の書き込みだけで満足しちゃったりもしたんですがw、そうしたミリオタ的な視点がなくとも満足できるのがこの作品の端々に行き届いたものだったなとは。

「アートオブ」も買いましたし。

君の名は。と同時期だったからか比べて対立させる意見を見て違和感が凄かったんですが(ある程度著名な漫画家もそういうことをやってて)、どっちも表現で見て優れてるだろう、という意見でしたね。

海外にウケるのはそりゃまあ「君の名は。」でしょうが、それは単に越境するコードがゴジラには足りないだけなので。

あと、あんまり言いたくないですけど違法配信から増える知名度って絶対にあって、アニメってそういう方面からの強さがあったりするんですよね。
「なんでDVD出てないのにもう見れてるんだ」というのは、同時配信されてる作品以外では感じてしまうことですし。

それも含めて今はみんなでお祭り的に盛り上げられるかどうかの時代、ともいえるのでしょうけど。

ただ「祭りにできるか」の基準はあるでしょうし、その為にニッチな作品こそ逆に強い、というのもあったりすると思います。
幼女戦記とかもそうでしたけど。

ゲームの面白さについては……ソシャゲの隆盛は日本に限ったことではないので日本の事情だ、と片付けられはしないのですが、コンシューマの衰退を是とする態度はちょっとな、とは思いますね。
もちろん今でも良作は出てますし、仁王とか普通に面白かったですし、ダークソウル3は完全に神ゲーでしたし、悲観するほどではないのですが、パイの食い合いにしかならなくなったガチャ界隈とかはやっぱりどうかな、とは思ったりします。
もちろんそれにしたところで「ガチャゲーから得られた予算で良作が生まれる」可能性もあるでしょうし、次の段階に発展する可能性はあると思いますが、現状ではあまり肯定できないなと。

演出でごまかすしかないのは、一つにはもうソシャゲのレベルでやれることがそれしかないだろう事があるとは思います。
ただそれで十分となってしまっているのは、それが価値を内部でループさせて、そうした環境にユーザーを捉えることができているからでしょうけど。
ただそれは強みではあるんですよね。

ただそれが一度コケたらどうなるんだろうとはありますけど。

ソシャゲをプレイする人は身の周りにも多く、某公共機関内にちょっと出ていた時、休憩中の職員がパズドラを遊んでいて、しかもみんな普通に大人、自分よりかなり年上の人まで、というのを見たときは、「ここまで浸透してるのか」と思ったりしました。

以前にアメリカとイギリスのソシャゲの浸透状況を紹介する番組を見たことがあるんですが、あちらも今はああなってるんじゃないかなあと。
恐らく、「ちょっと遊べるだけで十分」という人が、ハードコアなゲーム(それこそ任天堂系のゲームでもハードに感じる人に)を敬遠する人にとって、ソシャゲというのは「ゲームそのもの」なんじゃないかとすら思えてきたりはするんですよね。
そして、そういう人から何から中高生なんかも巻き込んで界隈を形成し、それを盛り上げる実況界隈なんかも含めてゲームという状況があるんだろうなあと。

>エンターテイメントが溢れかえっている現状、差別化のために多種多様なコンテンツが存在し、求めたいものを求めやすくなっている時代かもしれません。昔のように、心底から没頭するような作品には出会いにくいかもしれませんが。

これは完全にその通りだと思います。
コンテンツが溢れれば溢れるほど、選べる選択肢は増えますしね。
そして、そうなればなるほど、一つに対する興味は減衰しますし、パイの絶対数も減ってきます。

音楽なんかとっくにそうなんですよね。
ヘヴィユーザーだと自任はしてるんですが、ここ数年の日本盤はかなりやる気がなくなってきてると感じてますし(以前は日本盤限定、みたいなのが多かったのが、今はもう一部のディスク会社がレーベル単位で契約とか帯付けて出したりとかだけとか)、そもそもCDの時代じゃない、という。
それでも尚且つ日本はCD天国ではあるんですけれどもw

ただ絶対数で考えれば、大多数はサブスクに移行していくと思います。
音楽に興味が薄い層であれば好きなアーティストの曲そのものにモノとしての価値を見出してCDを買うというのはそのままでしょうけど。
でも、「このジャンルが聴きたい」とか、「このアーティストのこの要素が好き」という人なんかだと、サブスクで満足できるのは間違いないと思います。

ハードなユーザーならサウンドクラウドから贔屓のバンドにアクセスしたり、公開サイトに投げ銭したりする界隈は整ってますが、ああいうのはまだまだ絶対にコアで、ユーザーと音楽を繋ぐ場所は商売として成り立つでしょうから。

でもこれ、弱小アーティストにとっては致命的でしょうし、これを推し進めていくと、業界的にはジャンルの新規開拓は一部のアーティストに委ねるか、これまで以上にアングラに潜っていくと思います。
売れる曲を売れるように、となっていけばメジャーは同じ方向性に行くでしょうし。
ほぼラノベと同じ事情ではあるんですけど。

「面白さ」という基準は確実に生き残ってるんですけど、それぞれの事情がそれれぞれを優先する、というのは難しい時代ですね(苦笑)。
返信する

コメントを投稿