『伝説のオウガバトル』にはカオスフレームがある。とあるブログにゲーム史上の二大発明として悪魔合体とカオスフレームが挙げられていたが、確かにカオスフレームにはそれだけのインパクトがある。
イベントやタロットカードでも上下するが、カオスフレームの変動の基本は街の解放だ。単純にカリスマやアライメントの高いユニットで解放すれば上がり、低いユニットで解放すれば下がる。
カリスマやアライメントはクラスごとに傾向があり、ナイトやクレリック、ヴァルキリーなどの見た目正義っぽいものは高めで、バーサーカーやニンジャ、ウィザードなど見た目悪っぽいものは低めだ。特にアンデッドはカリスマもアライメントも0になっている。確かにアンデッド部隊に解放されても解放された気分にならないというのも真理だ。
こうしたクラスごとの特性以上にアライメントやカリスマを上下するのは、戦闘時のレベル差だ。強い敵を倒せば上昇し、弱い敵を倒せば下降する。鍛え上げられた精鋭部隊は街の解放に適さない訳だ。
カオスフレームの高低は軍資金の獲得の多寡に影響する。しかし、それ以上にシナリオに大きく影響を及ぼす。仲間になるかどうかや、アイテムの獲得、更にはエンディングに直結する。
力を前面に押し立てた戦い方へのアンチテーゼとしてカオスフレームが存在している。ゲームのタイトルになっているオウガバトルは伝説の悪鬼の戦いを指すが、それは覇道に落ちたプレイヤーの軍自身を指すこともある。初め反乱軍と呼ばれた解放軍は、しかし最後には侵略軍として敵の本拠まで侵攻する。勝つことだけでないものをこのゲームは求めている。
だが、それもまた一面に過ぎない。
覇道だろうが王道だろうが、やってることに変わりはない。単純に戦闘に特化した部隊と解放用の部隊に分ければ済む話だ。作り手が想定したかどうかにかかわらず、それがこのゲームの戦略の基本である。
覇道か王道かは所詮パフォーマンスの差に過ぎない。逆に言えば、汚い部分をいかに見せずに振舞うかが英雄になるための条件とも言えるわけだ。
戦争とは正義と悪の戦いではなく正義と正義のぶつかり合いである。従ってどちらの正義が民衆に支持されるかは重要な意味を持つ。戦争に限らない。今の時代、何をするにも大衆や対象へのアピールが必要だ。パフォーマンスよりも中身が大切などという発想は通用しない。どう見せるかの戦略抜きに支持を集めることなどできない。
カオスフレームを意識することとは、何をどう見せるかというパフォーマンスの本質でもあったのだ。