奇想庵@goo

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性別と性差

2007年02月10日 22時55分02秒 | アニメ・コミック・ゲーム
FFXIのサイトを見て回っているときに見つけた学術アンケート。

「コンピュータを介したコミュニケーション論の再構築-ジェンダー分析の新たな展開-」

個人的にはネット上で殊更に性別を明らかにすることは好きではない。もちろん親しくなれば別だし、オフ会などをすれば性別などはすぐに分かることだが。

で、PSOではメインキャラは男キャラだったが、FFXIでは女キャラを使っている。そのことに全く抵抗はない。もちろん他の人がリアルと別の性のキャラを使っていても気にならない。むしろ自分から自分の性別をアピールする人に抵抗を感じてしまう。

「ひだまりスケッチ」というアニメがある。BS-iで見ているのでやや遅れ気味、第3話まで見た。美術系の学校に通う4人の女の子の何気ない日常を描いたアニメで、本当に何気ない日常しか描かれていない。
それでも1話2話となんとなく楽しんでいた。それが3話目にちょっと違和感を感じた。その原因、かもしれないことが、2話までは女性が脚本を書いていたのに、この3話は男性が脚本にクレジットされていたことだ。もちろん名前だけでは性別は分からない。女性名を使う男性は少ないが性別不詳系の名前もあるし、男性名を使う女性はペンネームとしては珍しくはないからだ。でも、作品を見た感覚として、1話と2話には女性が書いたと感じさせる何かがあり、3話目にはそれが無かったために違和感を感じてしまった。

クリエイティビティに性差はかなり影響しているのは確かだ。作り手が男か女かで評価が変わったりはしないが、男か女かはかなり意識する要素であり、たいていは気付いてしまうことだが。ストーリー展開で意表を衝かれることが女性の作ったものの方が多いため、私にはそちらを好む傾向があると思う。

ネットゲームの場合、クリエイティビティは関係ないが、キャラを演じるという部分が性差に関わってくる。リアルの自分と、ネット上の自分=「奇天」の関係は比較的ダイレクトなものだが、例えばFFXIでのメインキャラ「Fai」とこれらとの関係は複雑な部分がある。
「Fai」であるときは、特に女性的に振舞うということはしないが、「奇天」とは全くキャラは違う。「Fai」というキャラクターを「奇天」が演じているという構図は確かだ。ただそれは女性に見られようという意思ではないし、もっと中性的な、ニュートラルな感覚でプレイしている。
ある面でそれは自分の中の女性的な部分の表出かもしれないが、アンケートにあるようなそうした経験がリアルに跳ね返ってくるかと問われると大いに疑問だ。

ものの見方・考え方に性差があるのは事実だ。生物学的社会学的な差異に根ざしたものだろう。決して分かり合えない部分もあるのかもしれない。だからこそと言っていいだろう、ネット上のように性別を示さなくてもいい場では、リアルではできないようなコミュニティのあり方、人と人との関係も築けるのではないだろうか。
そして、ネットゲームの場合、本人とキャラとの関係も人それぞれだし、演じる場合でもそのスタンスは人によって大きく違う。たいていのネットゲームではキャラに性別があるが、そこにこだわりを持つも持たないも自由だ。要するに、ネットゲームは遊びなのだから、そこにリアルの性別を持ち出すのも無粋だし、それにこだわるのも意味がないと思ってしまうのだが、こうした考え方は少数意見っぽいと思う今日この頃である。