酔眼独語 

時事問題を中心に、政治、経済、文化、スポーツ、環境問題など今日的なテーマについて語る。
 

「広島・長崎五輪」という短慮

2009-10-12 08:30:34 | Weblog
 思い余って考え足らず。共同で五輪招致に乗り出すと表明した広島市と長崎市のことである。核廃絶国連決議、オバマのノーベル平和賞受賞に浮かれた便乗立候補とみなさざるを得ない。

 《広島市の秋葉忠利市長と長崎市の田上富久市長は11日記者会見し、2020年の夏季五輪招致に向け、近く共同で検討委員会を設置することを明らかにした。

 会見した両市長は、招致活動を通じ、被爆都市として核兵器廃絶や世界平和をアピールする意義を強調。両市を中心とする複数都市への招致を念頭に、周辺や福岡市などの自治体にも検討委への参加を求める方針を示した。

 招致の意義について秋葉市長は「(両市など内外の都市でつくる平和市長会議が目標にする)20年の核廃絶を目指す中、招致を並行して進めることは相乗効果をもたらす」と説明。田上市長も「多くの人に被爆都市を訪れ、(核兵器について)考えてもらえれば」と期待を示した》=日経NET=。

 両市長の意欲は分からないでもない。しかし、これが五輪の政治利用に当たることは明らかだ。頭を冷やして考え直してもらいたい。

 五輪は都市が開催するのが建前だが、実際は国家主導で行われてきた。その代表例がベルリンであり、北京五輪だ。国威発揚と国民の統合がその狙いだった。

 広島と長崎はこれらとは趣を異にする。しかしながら、「核廃絶」運動のてことして五輪を使おうという発想は、スポーツの思想とは無縁のものだ。

 五輪は「平和の祭典」と呼ばれている。スポーツを通して世界の青少年が友情と理解を深め合うことが平和への近道、と考えたクーベルタンの理想を表した言葉である。両市長の発想と同じように見えるが、アプローチは大きく違う。

 政治スローガンを大きく掲げることで、五輪が捻じ曲がってしまう恐れはないか。モスクワ五輪ボイコット騒動を思い起こしたい。核廃絶という「絶対的正義」を前面に押し立てた招致活動には異論を唱えにくい。これが怖い。

 五輪は五輪であって、政治的目標をアピールしたり、達成したりする場ではない。この当たり前のことに気付くべきだ。秋葉氏ともあろう人が、いまさら肥大化と商業主義化の弊害が目立つ五輪招致を言い出すとは理解しがたい。「オバマジョリティー」戦略も、度が過ぎるのではないか。
コメント (2)
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