八幡坂下で左折し、明治通りの歩道を南へ進む。このあたりの明治通りは渋谷川に沿ってできている。しばらく歩き、東三丁目の信号のある交差点を左折する(現代地図)。ここが南郭坂の坂下であるが、しばらくほとんど勾配がない道が続く。渋谷川の谷から赤坂・麻布台地に東へ上る坂。
先ほどまでの明治通りとは違って、交通量が少なくかなり静かである。
しばらく歩くと、道が膨らんだ所でちょっと右に曲がっているが、このあたりからしだいに上りとなる。中程度よりも緩やかな勾配である。渋谷区東二丁目10番と東三丁目6番の間を東へ上る。
まっすぐに上ると、広尾高等学校前の交差点の北西角に(現代地図)、渋谷区教育委員会による「服部南郭別邸跡」の標識(下一枚目の写真)が立っている。
この標識にこの坂について次の記述がある。
『この場所は、南郭の別邸があったところで邸前にある坂道は、昔から南郭坂あるいは富士見坂と呼ばれてきました。』
このあたりから西の方角に富士山が見えたらしく、別名が富士見坂。
標識の立っているあたりは坂の中腹である。ここに江戸中期の儒学者・漢詩人の服部南郭(1683~1759)の別邸(「白賁塾」)があったとのことであるが、本邸は芝赤羽橋の付近にあったと思われる。
永井荷風は、大正十二年(1923)12月30日の「断腸亭日乗」に『十二月三十日。晴天旬に及ぶ。午後赤羽橋に服部南郭が旧居の跡を尋ねしが得ず。・・・』と記している(全文→この記事)が、このあたりには来ていないようである。
下二枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))を見ると、宝泉寺の上(北)に渋谷川から右(東)へ延びる道がある。ここがこの坂の道筋と思われる。途中、左折し北へ向かうと氷川神社があるが、現在とほぼ同じである。この左折する所から東側へちょっと進んだあたりに渡辺備中守の屋敷があるが、この付近に南郭の別邸があったのであろうか。下三枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))もほぼ同じ。
広尾高等学校前の交差点を東へ渡ってもちょっと上りが続くが、しだいに緩やかになって平坦になり、山種美術館前の交差点に至る。
石川は大正3年(1914)刊の『渋谷町誌』を引用し、これに、下渋谷二百七十七番地貴族院議員杉田定一氏の別宅の辺を南郭屋敷といい、南郭の別荘は現に存在し、その末裔の服部元吉氏が居住し、そこは杉田氏の背後の草葺屋根の家屋・土蔵である旨の記述があった。その番地を手持ちの資料では確認できなかったが、南郭の別邸の存在は、この文献あたりをもとにしているようである。
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)