東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

神楽坂~雑司ヶ谷霊園(4)

2012年05月06日 | 荷風

雑司が谷一丁目 雑司が谷一丁目 雑司が谷一丁目 雑司ヶ谷霊園出入口 前回の薬罐坂(目白台)下で不忍通りを北へ横断し、歩道を西へ歩き、次を右折する。雑司が谷一丁目の住宅街を北へ縦断するように進むが、一~三枚目の写真はその途中で撮ったものである。細い道が続き、緩やかな上りとなっている。

しばらく歩くと、四枚目のように四差路に出るが、ここから先が雑司ヶ谷霊園である。そのまま直進すると、四差路があるが、ここを進むと、すぐ右が夏目漱石の墓の裏である。

下一枚目の尾張屋板江戸切絵図の雑司ヶ谷音羽絵図(安政四年(1857))の部分図のように、護国寺と鬼子母神との間、青龍寺(清立院)の北のあたりが雑司ヶ谷霊園であろう。

雑司ヶ谷音羽絵図(安政四年(1857)) 永井荷風の墓 永井荷風の墓 永井家墓所裏側 上記の四差路を左折し、西へ、北へとしばらく歩くと、右側に永井荷風の墓がある。詳しい場所は以前の記事のとおり。

二、三枚目は荷風の墓で、その左が荷風の父久一郎(禾原)の墓である。既にお参りに来た人がいたようで、百合の花や煙草が供えられていた。四枚目は永井家墓所の裏側を撮ったもので、生垣の中に荷風の墓がある。

上記の記事で、荷風は父久一郎の祥月命日である一月二日によくここに墓参りに来ていることを書いた。一日や三日に来たときもあったようである。大正14年(1925)1月1日の「断腸亭日乗」に次のように記している。

「正月元日。快晴の空午後にいたりて曇る。風なく暖なり。年賀の客は一人も来らず。午下雑司谷墓参。帰途関口音羽を歩む。音羽の町西側取りひろげらる。家に帰るに不在中電話にて久米秀治氏急病。今朝九時死去せし由通知あり。老少不常とはいひながら事の以外なるに愕然たるのみ。」

この日、墓参りに来て、その帰りに関口や音羽を歩き、音羽の町の西側が取り広げられていたとある。帝劇秘書久米秀治が急死したことに驚いている。

翌年、大正15年(1926)1月1日の「断腸亭日乗」は次のように長い。

「正月元日。曾て大久保なる断腸亭に病みし年の秋、ふと思ひつきて、一時打棄てたりし日記に再び筆とりつゞけしが、今年にて早くも十載とはなりぬ。そもそも予の始めて日記をつけ出せしは、明治二十九年の秋にして、恰も小説をつくりならひし頃なりき。それより以後西洋遊学中も筆を擱(お)かず。帰国の後半歳ばかりは仏蘭西語のなつかしきがまゝ、文法の誤りも顧ず、蟹行の文にてこまごまと誌したりしが、翌年の春頃より怠りがちになりて、遂に中絶したり。今之を合算すれば二十余年間の日乗なりしを、大正七年の冬大久保売邸の際邪魔なればとて、悉く落葉と共に焚きすてたり。今日に至りては聊惜しき心地もせらるゝなり。昼餔の後、霊南阪下より自働車を買ひ雑司が谷墓地に徃きて先考の墓を拝す。墓前の蠟梅今年は去年に較べて多く花をつけたり。帰路歩みて池袋の駅に抵る。沿道商廛(店)旅館酒肆櫛比するさま市内の町に異らず。王子電車の線路延長して鬼子母神の祠後に及べりと云ふ。池袋より電車に乗り、渋谷に出で、家に帰る。日未没せず。この日天気快晴。終日風なく、温暖春日の如し。崖下の静なる横町には遣羽子の音日の暮れ果てし後までも聞えたり。街燈の光のあかるさに、裏町の児女夜を日につぎて羽根つくなり。軒の燈火の薄暗かりし吾等幼時の正月にくらべて、世のさまの変りたるは、是れにても思知らるゝなり。」

この年も元旦に父の墓参りに霊南坂下から自動車に乗って来ているが、はじめに、日記「断腸亭日乗」を書き始めてからもう十年になることを記している。

日記は、その前、明治29年(1896)からずっと、米国、フランスでも、帰国した後もつけていたが、その後中断した。大正七年(1918)大久保余丁町の家を売却するとき、落ち葉と一緒に燃やしたが、惜しかったような気持ちもする。

墓参りからの帰りに、池袋に出たが、沿道に商店、旅館、酒屋がすきまなく並んでいる様子は市内の町と同じである。王子電車とは、いまの都電荒川線のことで、鬼子母神の神社の後ろまで延びたことを記している。池袋から電車に乗って、渋谷に出て帰った。偏奇館の崖下の横町では、女の子が羽根つきを日が暮れてからも街灯の光で続けていたが、自分の子供時代の正月と比べてなんという変わりようであろう。

以上のように、この年の墓参りの日の記述は多くなっているが、この頃、そういう気分であったのか、次の日、父の亡くなったときのことをかなり詳しく書いている。その冒頭を引用する。

「正月初二。先考の忌辰なれば早朝書斎の塵を掃ひ、壁上に掛けたる小影の前に香を焚き、花缾に新しき花をさし添へたり。先考脳溢血にて卒倒せられしは大正改元の歳十二月三十日、恰も雪降りしきりし午後四時頃なり。・・・」

成島柳北の墓付近 成島柳北の墓付近 成島柳北の墓 成島柳北の墓 荷風の墓に北へと向かう途中、左側に成島柳北の墓があることは以前の記事のとおりである。

一枚目の写真は、柳北の墓地のある方を撮ったもので、中央に見える小道を入ると、次の右側である。二枚目は、柳北の墓地の裏側の小道を撮ったもので、下側が傾いた松の木が写っている(一枚目の背の高い木)。

前回来たときの上記の記事で、次の昭和二年(1927)の「断腸亭日乗」を引用した。

「正月二日 好晴、今日の如き温暖旧臘より曾て覚えざる所なり、午下自働車を倩ひ雑司ケ谷墓地に赴く、道六本木より青山を横ぎり、四谷津の守坂を下りて合羽坂を上り、牛込辨天町を過ぎて赤城下改代町に出づ、改代町より石切橋の辺はむかしより小売店立続き山の手にて繁華の巷なり、今もむかしと変る処なく彩旗提燈松飾など賑かに見ゆ、江戸川を渡り音羽を過ぐ、音羽の街路広くなりて護国寺本堂の屋根遥かこなたより見通さるゝやうになれり、墓地裏の閑地に群童紙鳶を飛ばす、近年正月になりても市中にては凧揚ぐるものなきを以てたまたま之を見る時は、そゞろに礫川のむかしを思ひ出すなり、又露伴先生が紙鳶賦を思出でゝ今更の如く其名文なるを思ふなり、車は護国寺西方の阪路を上りて雑司ケ谷墓地に抵る、墓地入口の休茶屋に鬼薊清吉の墓案内所と書きたる札下げたるを見る、余が馴染の茶屋にて香花を購ひまづ先考の墓を拝す、墓前の蠟梅馥郁たり、雑司谷の墓地には成島氏の墓石本所本法寺より移されたる由去年始めて大島隆一氏より聞知りたれば、茶屋の老婆に問ふに、本道の西側第四区にして一樹の老松聳えたる処なりといふ、松の老樹を目当にして行くに迷はずして直ちに尋到るを得たり、石の墻石の門いづれも苔むして年古りたるものなり、累代の墓石其他合せて十一基あり、石には墓誌銘を刻せず唯忌日をきざめるのみなり、・・・」

上記の「日乗」で云う、成島家の墓のある所にそびえる「一樹の老松」とは、一、二枚目の松の木のようである。二枚目に写っているように「御鷹部屋と松」という説明板が道側に立っているが、それには、このあたりに江戸時代中期の享保四年(1719)以降、幕府の御鷹部屋があり、その屋敷内に松の木があった、とある。さらに、「この松の木は当時の様子をしのばせてくれます。」とあり、「この松の木」とは、上記の写真の松であろう。

上記の江戸切絵図を見ると、確かに、このあたりに「御鷹部屋 御用屋敷」がある。近江屋板(嘉永四年(1851))にも同じようにある。

三枚目は、二枚目の写真の小道を入り、ふり返って、松の根元部分を撮ったものであるが、右の奥に、柳北の墓が写っている。四枚目は柳北の墓側から松を撮ったもので、下右側の黒い墓石が柳北の墓である。左側面に「明治十七年十一月卅日終壽四十八 門生小澤圭謹書」とあり、明治17年(1884)11月30日に48歳で亡くなっている。

成島柳北の碑 成島柳北の胸像 上記の以前の記事で、「日乗」の一樹の老松はいまはないようであるとしたが、これは誤りで、現存しているようである。ということで、荷風の見た木がまだ残っているとはうれしい限りである。荷風が長年住んだ偏奇館の跡は土地そのものがなくなっている現在からすれば、この木は貴重である。

左の二枚の写真は、最近、向島の長命寺で撮った柳北の胸像のある石碑である。以前の記事でも触れたが、鼻の天辺が欠けている。

今回は、荷風の慣れ親しんだ神楽坂から出発し、小日向の坂を巡り、さらに、目白台を上下し、雑司が谷一丁目を縦断して雑司ヶ谷霊園に至ったが、途中の付属横坂のあたりや雑司が谷一丁目以外は、江戸切絵図にある道を通った。江戸趣味があり、切絵図にも親しんでいた荷風をしのぶにはまたよいコースであった(ちょっとこじつけ気味であるが)。

参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(上)」(岩波現代文庫)

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