東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

八百屋お七のふくさ

2012年05月16日 | 読書

円乗寺参道 八百屋お七の墓 大円寺門前 ほうろく地蔵 文京区白山の坂巡りのとき、浄心寺坂下の円乗寺(一枚目の写真)にある八百屋お七の墓(二枚目の写真)、その坂上の先の旧白山通り北の大円寺(三枚目の写真)にあるお七に因む焙烙(ほうろく)地蔵(四枚目の写真)を訪ねた。

森鷗外の史伝の一つに『澀江抽斎』がある。澀(渋)江抽斎(文化二年(1805)~安政五年(1858年))は、江戸時代末期の医師、考証家、書誌学者である。この史伝に「八百屋お七のふくさ」というのが出てくるが、忘備のため、ここに書き留める。

「五郎作は又博渉家の山崎美成(よししげ)や、画家の喜多可庵(かあん)と往来していた。中にも抽斎より僅に四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、疑を質(ただ)すことにしていた。五郎作も珍奇の物は山崎の許へ持って往って見せた。
 文政六年[1823]四月二十九日の事である。まだ下谷(したや)長者町で薬を売っていた山崎の家へ、五郎作はわざわざ八百屋お七のふくさというものを見せに往った。ふくさは数代前に真志屋(ましや)へ嫁入した島と云う女の遺物である。島の里方を河内屋半兵衛と云って、真志屋と同じく水戸家の賄方(まかないかた)を勤め、三人扶持を給せられていた。お七の父八百屋市左衛門は此河内屋の地借(じかり)であった。島が屋敷奉公に出る時、穉(おさな)なじみのお七が七寸四方ばかりの緋縮緬(ひぢりめん)のふくさに、紅絹裏(もみうら)を附けて縫ってくれた。間もなく本郷森川宿のお七の家は天和二年[1682]十二月二十八日の火事に類焼した。お七は避難の間に情人と相識になって、翌年の春家に帰った後、再び情人と相見ようとして放火したのだそうである。お七は天和三年三月二十八日に、十六歳で刑せられた。島は記念(かたみ)のふくさを愛蔵して、真志屋へ持って来た。そして祐天上人から受けた名号をそれに裹(つつ)んでいた。五郎作は新にふくさの由来を白絹に書いて縫い附けさせたので、山崎に持って来て見せたのである。」(その二十三)

真志屋五郎作は、抽斎と交わりのあった好劇家で、神田新石町の菓子商で水戸家の賄方を勤めた家であった。この家には、数代前に嫁入した島という女の遺物に八百屋お七のふくさというのがあり、島が屋敷奉公に出る時、幼なじみのお七が縫ってくれたものという。

祐天上人から受けた名号をそれにつつんでお七の形見として大事にした島、百年以上前のふくさの謂われを白絹に書いて縫い附けさせた五郎作、これらのことをこういった史伝に書き残した鷗外まで、その間二百年余り。この史伝のほんの短い挿話であるが、一つの物語ができあがっている。もちろん、主人公は島とお七である。

参考文献
「鷗外選集 第六巻」(岩波書店)

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