東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

雑司ヶ谷霊園~東池袋中央公園

2012年05月15日 | 散策

公園わき案内地図 前回の記事のように、今回は雑司ヶ谷霊園までの予定で、次はどこへ行こうかとベンチで休憩しながら地図をながめる。ちょっと暑くなってきたので、冷たいジュースがおいしい。この近くにサンシャインビルがあるが、そのそばの東池袋中央公園に行くことにする。柳北の墓と荷風の墓との間で荷風の墓側(東)に東条英機の墓があり、これを見たからである。

荷風の墓地を右に見て北側から霊園を出て、左折し、次を右折し、都電荒川線の踏切を渡り、そのまま進む。日出通りを横断しさらに進むと、サンシャインビルで、そのそばを歩き、階段を上下すると、東池袋中央公園に着く。霊園から意外に近い。

この公園を含めたサンシャインビルの敷地には、明治28年(1895)警視庁監獄巣鴨支所ができ、後に、巣鴨監獄、巣鴨刑務所と改称し、関東大震災(1923)で被災したため府中に移転し、その跡地に昭和12年(1937)東京拘置所が設置された。東京拘置所は、戦後、連合軍に接収されて、多くの戦犯が収監され、巣鴨(スガモ)プリズンと呼ばれた。その後、昭和33年(1958)東京拘置所にもどり、昭和46年(1971)小菅に移転した。

戦後まもなくA級戦犯に対し東京裁判が開始されたが、裁判は市ヶ谷の旧陸軍士官学校(現在、防衛省がある)の大講堂を法廷として行われたので、巣鴨プリズンに収容されていた被告は、ここから裁判のたびに市ヶ谷へ護送された。

公園内の石碑 石碑の裏面 1945(昭和20年)8月8日米英仏ソによりロンドン協定と国際軍事裁判所条例が調印されたが、この条例の第六条で戦争犯罪について、(a)平和に対する罪、(b)戦争犯罪、(c)人道に対する罪、の三つに類型化した。この条例でドイツではニュルンベルク裁判が行われた。その後、米国主導で極東国際軍事裁判所条例が制定され、上記の戦争犯罪の規定が少し修正されて採用された。

東京裁判では「平和に対する罪を含む犯罪」を犯した者を扱うとされ、平和に対する罪(A級)を含む戦争犯罪人を主要戦犯またはA級戦犯と呼び、主に政府や軍の指導者であった。捕虜虐待などの戦争法規違反者はまとめてBC級戦犯と呼ばれ、軍人が多かったが、民間人もいた。BC級戦犯裁判は、アジアなどの各国複数箇所で行われ、日本では横浜(横浜地方裁判所内に設置された軍事法廷)であった。

東京裁判の歴史をごく簡単にたどると次のとおり。

・昭和21年(1946)4月29日東条英機や荒木貞夫や広田弘毅などのA級戦犯28被告に巣鴨プリズンで起訴状が手渡される。

・同年5月3日「極東国際軍事裁判所」が開廷する。午後の法廷は起訴状の朗読ではじまったが、このとき、珍事が起きた。被告の大川周明が前にいた東条のはげ頭をぴしゃりとたたいたのである。ほどなく再び頭をたたいて大川は奇声を発したりしたので裁判長は休憩を宣言した。起訴状朗読で全員起立した東京裁判の写真があるが、これには、確かに東条の後ろにパジャマ姿の大川が写っている。

・昭和23年(1948)4月15日東京裁判の審理が終了する。

・同年11月4日東京裁判の判決文の朗読が始まる。

・同年11月12日A級戦犯25被告に判決がでた。判決文朗読は土日をはさんで正味七日間を要し、その最終日であった。裁判の途中で松岡洋右と永野修身が死亡し、世田谷の精神病院に入院していた大川は審理から除外されていたので、判決のとき被告は25名であった。

判決は、全員が有罪で、東条英機、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章、松井石根、広田弘毅の7名が絞首刑、荒木ら16名が終身禁固刑、東郷が禁固20年、重光が禁固7年であった。絞首刑は、広田を除き、全員陸軍関係者で、海軍関係者はいない。

・同年12月23日真夜中午前零時一分から巣鴨プリズンで、絞首刑とされた被告7名の処刑が行われた。刑は二組にわけて執行され、第一組は土肥原、松井、東条、武藤で、第二組は板垣、広田、木村であった。

処刑場に行く前の仏間で、教誨師で僧侶の花山信勝師がブドー酒(別れの酒)と水(末期の水)で最後のわかれをしたが、第二組の広田が、この仏間へ入室したとき、花山師に「今、マンザイをやってたでしょう」とまじめな顔で聞き、花山師は「マンザイ? いや、そんなものはやりませんよ」とまじめな顔で応えた。
広田がまた言った。「このお経のあとで、マンザイをやったんじゃないか?」
花山師はようやく気がつき、「ああ、バンザイですか、バンザイはやりましたよ。それでは皆さんも、ここでどうぞ」
広田は板垣に言った。「あなた、おやりなさい」
うなづいた板垣の音頭で、割れるような大声で三人は「天皇陛下万歳」を三唱したという。

巣鴨プリズンの北西角に塀に沿うようにして処刑場のある建物があった。いま、その処刑場のあった公園の一角に、一枚目の写真のような自然石の碑が建っている。その裏面には、二枚目のような碑文が刻まれている。

公園北側の通り 公園北西角 巣鴨プリズンの処刑場では、A級戦犯7名を含め60名の絞首刑が執行された。このうち、51名が横浜の軍事法廷で死刑判決を受けたBC級戦犯で、大半が俘虜収容所関係の軍人・軍属であった。巣鴨プリズンはA級戦犯の処刑で有名であるが、それよりもはるかに多くのBC級戦犯が処刑されている。

アジア等の海外ではBC級戦犯1054名が処刑されているが、准士官・下士官が圧倒的に多い。准士官とは陸軍准尉と海軍兵曹長、下士官とは、陸軍では曹長、軍曹、伍長、海軍では上等兵曹、一等兵曹、二等兵曹である。将校では、下級将校に集中し、大尉が特に多い。これらのことは戦争とはなんであるのか(なんであったのか)を如実に物語っている、と思わざるを得ない。

一枚目の写真は公園の北側の通りで、二枚目は、その通りを直進したところの北西角である。この植え込みの向こうに上記の碑があり、かつて処刑場があった。このあたりは、いま、サンシャインを訪れる人たちで賑やかであるが、そのような歴史を知っている人はどれだけいるであろうか。

永井荷風の日記「断腸亭日乗」を見ると、昭和23年(1948)11月12日に次の記述がある。

「十一月十二日。晴。東京堂編輯員森鷗外先生選集の事につき来話。午後浅草大都座楽屋。夜俄に寒し。旧軍閥の主魁荒木東条等二十五名判決処刑の新聞記事路傍の壁電柱に貼出さる。」

判決が出た11月12日に、その判決内容を伝える新聞が壁や電柱に貼り出されていたのを荷風が見たようで、簡単に記している。それでも、「軍閥」「主魁」といった文言に荷風の心情の一端がかいま見えるようである。

処刑のあった同年12月23日は次のようになっている。

「十二月廿三日。隂りて寒し。薄暮常磐座楽屋。偶然戦争前オペラ館女優なりし西川千代美に逢ふ。伊豆伊東にて踊師匠をなし居れりと云。桜むつ子高清子等と福島に喫茶してかへる。」

処刑についてはまったく触れていない。無視したのか、単に知らなかったのか、わからないが、新聞などを読まないため知らなかっただけのような気がする。この日、正午、日本の神社仏閣や教会の鐘が一斉に鳴り渡ったという。

公園からジュンク堂書店へ行ってから池袋駅へ。

携帯による総歩行距離は、15.1km。

参考文献
平塚柾緒「図説 東京裁判」(河出書房新社)
林博史「BC級戦犯裁判」(岩波新書)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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