東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

日和下駄(第二 淫祠)

2010年01月30日 | 荷風

永井荷風は「日和下駄」の各論を淫祠から始めている。興味深いことである。無視し得ぬ何かを感知していたのであろう。

「裏町を行こう、横道を歩もう。かくの如く私が好んで日和下駄をカラカラ鳴して行く裏通にはきまって淫祠がある。」

「第二 淫祠」の冒頭である。

淫祠とは、邪神を祭ったやしろ(広辞苑)とのことであるが、こんな言い方は何の意味も与えない。悪しき定義づけの典型である。

「私は淫祠を好む。裏町の風景に或趣を添える上からいって淫祠は遙に銅像以上の審美的価値があるからである。」しかし、審美的価値以上のものを荷風は感じている。

「現代の教育はいかほど日本人を新しく狡猾にしようと力めても今だに一部の愚昧なる民の心を奪う事が出来ないのであった。路傍の淫祠に祈願を籠め欠けたお地蔵様の頸に涎掛をかけてあげる人たちは娘を芸者に売るかも知れぬ。義賊になるかも知れぬ。無尽や富籤の僥倖のみを夢見ているかも知れぬ。しかし彼らは他人の私行を新聞に投書して復讐を企てたり、正義人道を名として金をゆすったり人を迫害したりするような文明の武器の使用法を知らない。」

荷風は「文明の武器の使用法」を知らない人たちに限りない愛着を持った。小さな祠や石地蔵に願掛けの絵馬や奉納の手拭や線香を上げることを、迷信だとか、俗信だとか、ということは容易い。しかし、そのようにする心、そうせざるを得ない心はけっして見過ごし得ないものである。そのような心は誰にも根底に幾分か残っているからである。

一方、荷風は、「淫祠は大抵その縁起とまたはその効験のあまりに荒唐無稽な事から、何となく滑稽の趣を伴わすものである」とし、例を挙げている。

・芝日蔭町の鯖をあげるお稲荷様
・駒込の焙烙をあげる焙烙地蔵(頭痛の治癒を願う)
・御厩河岸の榧寺の飴嘗地蔵(虫歯に効験ある)
・金竜山の境内の塩をあげる塩地蔵
・小石川富坂の源覚寺の蒟蒻をあげるお閻魔様(眼病の治癒)
・大久保百人町の豆腐をあげる鬼王様(湿瘡のお礼)
・向島の弘福寺にある煎豆を供える「石の媼(ばあ)様」(子供の百日咳)

これらの「習慣は、」「いつも限りなく私の心を慰める。単に可笑しいというばかりではない。理窟にも議論にもならぬ馬鹿馬鹿しい処に、よく考えて見ると一種物哀れなような妙な心持ちのする処があるからである。」

荷風はかくの如く淫祠にまつわる民の習慣に自己慰安を見出すとともに、物哀れを感受することで淫祠を信じる人の心の中に深くダイビングしたのである。

いまも、都内で旧道に相当する場所を歩けば、石地蔵や庚申塚などをよく見かけ、お供え物をし、花を手向け、祠を新しくすれば、その謂われを書き記したものなどを見ることができる。荷風の時代と何も変わっておらず、奥深いところでつながっているのである。

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植木坂の位置

2010年01月30日 | 荷風

横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)をみていたら、麻布の植木坂を次のように説明していた。「港区麻布飯倉片町の坂、郵政省前から狸穴坂に平行して南に下る坂。鼬坂、鼠坂の別名がある。嘉永二年の江戸切絵図には、この坂の下り口のところに「植木ヤ」とある」。そうだとすると、前々回の記事(荷風と坂)で書いた、荷風が歩いた大正10年1月17日の麻布阪道散歩の道筋も変わってくる。そういえば、植木坂の標柱にも「この付近に植木屋があり、菊人形を始めたという。外苑東通りからおりる所という説もある。」とある。うかつであった。

外苑東通りとは六本木方面からの通りで、むかしの飯倉片町の電車通りである。狸穴坂とは外苑東通りからロシア大使館の西脇を下る長い坂道であり、むかしからの道筋であろうか、ゆるやかに曲がっている。

現在、植木坂とされる坂は、外苑東通りから狸穴坂に平行した細い坂(ここが、横関のいう植木坂)を南へ下り、平坦部分を進み、右折して上るかなり傾斜のある細い坂であり、上記の標柱が坂上と坂下にある。坂上を直進し、階段を下り左折すると永坂である。植木坂の方に右折せずに直進すると、鼠坂の標柱があり、「細長く狭い道を、江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあった。一名鼬(いたち)坂で、上は植木坂につながる。」とあり、これも細い坂道で、下りていくと狸穴公園にいたる。

岡崎清記「今昔 東京の坂」は植木坂について次のような各説を紹介している。

(1)「南に浅い谷をへだてて狸穴坂の側面を望む。私達の今住むところは、こんな丘の地勢に倚って、飯倉片町の電車通り(外苑東通り)から植木坂を下りきった位置にある。」(『大東京繁昌記・山手篇-島崎藤村「飯倉附近」』)(島崎藤村は大正7年(1918)10月に飯倉片町33番地に移り、昭和12年(1937)頃まで住んでいた。)
(2)『御府内場末往還其外沿革図書』は、この坂を「イタチ」坂としている。
(3)昭和16年の『麻布詳細図』も同じく「イタチ」坂としていて、植木坂とは呼んでいない。
(4)『江戸切絵図』(尾張屋版)には「鼠サカ」とあるが、坂上西角に「植木ヤ ツシモト」とあり、植木坂という呼び名を持っていたかもしれない。(尾張屋版の江戸切絵図は、goo地図の
古地図でみることができる。)
(5)『江戸切絵図』(近江屋版)には植木屋はないが、「△ウエキサカ」とある。
(6)昭和八年『東京市麻布区地籍図』、昭和十六年『麻布区詳細図』にある植木坂はいずれも、麻布台三-四、麻布永坂町の間を示し、現在の標柱のある場所である。

岡崎は、結論的には、標柱のある場所の坂を「植木坂」としておきたい、としているが、とりあえず、といったところで確かな根拠はなさそうである。

石川悌二「江戸東京坂道辞典」では、「外苑東通りから麻布台三丁目四と五番の間から南へ狸穴町との境へ下り、さらに西のほうに折れる。」としているので、外苑東通りから下る坂から進んで、現在の標柱を右折して上る植木坂全体を植木坂と考えている。

次の説を紹介している。
(a)『麻布区史』(昭和16年)は「狸穴へ下る坂を鼠坂と云ひ、別に植木坂の異称がある。これより狸穴にかけて植木屋多く、菊人形に於て巣鴨染井に先んじて有名であったと云ふ。坂の名は其頃の遺称であらう。一説に鼠坂は西の方永坂町に界し西北へ上る坂、植木坂は狸穴端へ下る坂としてゐる」と記す。
(b)『東京地理沿革志』(明治19年)は飯倉片町の条に「町内青山辺りより南に向ひ狸穴の端に下る坂を植木坂と呼ぶ」とし、また狸穴町の条には「鼠坂と云ふは西の方永坂町に界し西南へ下る坂なり」としている。
(c)「この植木坂と鼠坂は同じ坂の別名なのか、もしくはつらなっている別の坂なのか」
(d)島崎藤村は、上記の「飯倉附近」で「鼠坂は、私たちの家の前あたりから東に森元町(現・東麻布二丁目)の方へ谷を降りて行かうとするとことにある細い坂だ。植木坂と鼠坂とは狸穴坂に平行した一つの連続と見ていい。」としている。

復刻版の「戦前昭和東京散歩」(人文社)は、現在の標柱と同じ場所を植木坂、鼠坂としており、外苑東通りから南へ下る坂の付近に名はない。

以上、諸説入り乱れているが、問題を簡単にまとめてみると、次のようになる。

①江戸切絵図など江戸時代のものは、外苑東通りから南へ下る坂を、イタチ坂、鼠坂、ウエキサカ、としている。
②現在の標柱のある植木坂を示す文献は昭和期のもの。
③外苑東通りから南に下る坂を植木坂とすると、現在、標柱のある植木坂との関係はどうなるのか。石川説によれば、全体を植木坂というので、問題は生じない。
④島崎説は外苑東通りから南に下る坂を植木坂とし、現在の鼠坂と連続と考えているが、現在、標柱のある植木坂には言及していない。

島崎藤村の次男鶏二が、飯倉の家の路地を出て、急坂の植木坂を坂下から描いたスケッチが「新潮日本文学アルバム 島崎藤村」にあるが、この坂は現在、標柱のある植木坂でないのであろう。

横関英一が「江戸の坂には、江戸の庶民が名前をつけたのである。」としているように、坂の名は、お上が決めたのでなく、その坂を常日頃上り下りる人々が名づけ、何となく決まっていったものが多いのであろうから、坂の名や範囲が時代とともに変わったのかもしれない。

ところで、ここでの問題は、荷風が大正10年1月17日の麻布阪道散歩で、どの坂をたどったのか、すなわち、荷風が歩いた植木阪はどちらだったのか、であるが、島崎説をとると、荷風もまた、飯倉片町の電車通りから南に下る坂をとおり、そのまま直進し、現在の鼠坂を狸穴に下ったことになる。これらの坂を一体として植木阪と、断腸亭日乗に記したのかもしれない。前々回の記事の、永坂→標柱のある植木坂→鼠坂は偏奇館から狸穴までの最短コースではなく、島崎説が最短コースである。

荷風は「日和下駄」第四 地図で、市中散歩の時、嘉永版の江戸切図を懐中にする、と述べており、麻布阪道散歩でその江戸切図を持参したかは不明であるが、事前に見ていたことは考えられる。嘉永二年の江戸切絵図には、この坂の下り口のところに「植木ヤ」とあるらしい(横関)が、坂名はどうなのであろうか。尾張屋版では「鼠サカ」であるが、ウエキサカとあるのだろうか。なければ、荷風は、植木阪の名をどのようにして知ったのだろうか。

大正10年1月17日に荷風が散歩した麻布阪道は、心情的には、変化に富むと思われる永坂→標柱のある植木坂→鼠坂としたいが、島崎説が当時の人々の一般的認識だったと考えると、飯倉片町の電車通りから南に下る植木坂→鼠坂の方に分がありそうである。そうだとすると、荷風はこの日、島崎宅の近くを通り過ぎたことになる。

島崎藤村は、明治5年(1872)3月筑摩県馬籠村(現長野県木曾郡山口村)に生まれ、昭和18年(1943)8月22日に大磯の自宅で亡くなっている。

「断腸亭日乗」昭和18年8月26日「・・・。又両三日前島崎藤村歿行年七十二なりと云。余島崎氏とは交遊なかりき。曾て明治末年三田に勤務せし頃一回何かの用事にて面会せしことありしのみ。深更雨滂浪。」

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