東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

坂巡りの始まり

2010年01月08日 | 坂道

都内の坂を巡るようになるまでのいきさつ(以前書いたものに少々手直しを加えたもの)です。

荷風、特に日和下駄や礫川逍遙記など(これらが集録された岩波文庫の「荷風随筆集上」)を読んでから都内散策に興味がでてきたが、本格的に行うまでにはなかなか至らず、仕事の合間に新宿近くの抜け弁天、余丁町の荷風住居跡、監獄跡、西向き天神などを荷風散策と称して訪れた程度であった。

そのころ、種村季弘の「江戸東京《奇想》徘徊記」、中沢新一の「アースダイバー」、少し遅れて、山野勝の「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」が出版され、これらを読んで都内散策にいっそう惹かれたのであった。これらは、読むだけでは終わらずに自然と街歩きに誘う優れたものであるが、わたしにとってはそれだけでなく偏奇館跡訪問で受けた衝撃を緩和する作用をもたらすものであった。

「アースダイバー」は、偏奇館跡近くの麻布谷町の開発を土地の記憶を削り取るものと捉え、そのときどんな過程が進行していたかは我善坊の谷を訪れてみればわかるとし、「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」は、その谷につながる我善坊谷坂を紹介しているではないか。偏奇館跡から我善坊谷坂まではすぐである。もう決してみることのできない消失前の偏奇館跡の「土地の記憶」に思いを馳せるにはちょうどよいかもしれない。うかうかしていると我善坊谷も偏奇館跡の二の舞になるにちがいない。しかも、都内へ転居したため以前よりも旧麻布市兵衛町(何という響きのよい地名であろうか)辺りにも行きやすくなっている。ここに至ってはその坂と谷に行ってみるしかないではないか。わたしの坂道徘徊の始まりである。

2006.10.15 山野勝の坂ガイド本にしたがって地下鉄溜池山王駅下車。しかし、坂巡りを始めるにあたってはなにか似合わない駅であった。地上に出ると、外堀通りの広い道路。一瞬方向が分からなくなる。見当をつけて信号を渡るが、なぜか落ち着かない。偏奇館跡への最初の訪問から2~3年もたっているのに大袈裟だが後遺症がまだ残っているのかもしれない。おまけに最初の榎坂も風情がまったくない。

榎坂からアメリカ大使館前の交差点を渡り、霊南坂を上るが、ここから先の記憶が途絶えている。手帳の記録によれば、道源寺坂と御組坂にも行っているが、記憶があるのは、行合坂からである。厭な出来事は記憶をも歪める。かすかに残っているのは偏奇館跡の記念碑を避けようとしたことである。たぶん、御組坂を下ったとき、右折せず(右折すると20mほどで記念碑である。)、左折したのだろう。

行合坂の底部から左折すると、落合坂の下りとなる。我善坊谷に向かって緩やかに傾斜している。歩いて左右、特に、右側をみると、小路が何本も短く延びており、その両脇に古びた家が並んでいるが、人気が少なく、ひっそりとして寂しい感じである。なるほど、中沢新一がいうように、これが、買収後、ビルが建つまでの姿、ゴーストタウンか、と思い知ったのであった。

我善坊谷の辺りと思われる十字路を左折すると、いよいよ我善坊谷坂の上りである。かなり急な坂道が左へと曲がって続いている。一気に高度を上げて左側をみると、人家やアパートがみえ、谷底もみえる。消失前の偏奇館跡からもこのような風景がみえたにちがいない。そう思うことで、少々いやされた気分となったことは確かである。

これ以降、都内の坂巡りによく出かけるようになり、現在に至っています。これも荷風散策の延長線上にあり、坂巡りで様々な風景にであいました。

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