薬罐坂下を左折すると、広い不忍通りがかなり緩やかに上っている。ここが清戸坂である。写真は薬罐坂下を出たあたりから坂上を撮ったものである。
岡崎によれば、延宝四年(1676)尾張徳川家の御鷹場御殿が中清戸(現清瀬市内)にできてから、将軍が鷹狩りに通う道ができ、これを「清戸道」(いまの目白通り)というが、この清戸道から護国寺に下る脇道が清戸坂で、清戸道に上るので、清戸坂といった。
尾張屋板江戸切絵図を見ると、目白台の日無坂の入口付近から護国寺へと延びる道筋があり、ここであると思われるが、二三度折れ曲がっている。坂の北西側は畑が広がっている。近江屋板も同様である。いずれにも坂マークも坂名もない。別名清土坂とあるが、これは、坂の途中北西側に雑司ヶ谷清土村があったためであろうか。
写真は坂上の目白通りとの合流点近くから坂下を撮ったものである。坂上側も緩やかな下りである。
明治地図を見ると、目白通りからほぼまっすぐに下っているが、薬罐坂下のあたりで左に緩やかにカーブし、護国寺の手前で右にカーブしている。戦前の昭和地図では、広い通りとなって現在のようにほぼまっすぐに護国寺の方に延びているので、明治から戦前にかけていまのような広い通りになったものと思われる。それ以前は細い道であったと想像され、狭い坂道が大きな通りに吸収されたのであろう。
この坂は、横関と石川にはない。また、説明板が立っているようであるが、どこかわからなかった。かなり暗くなってきて、急いでいたせいもある。
歩道を坂上側に進むと、日本女子大学の西側で左折する細い道があるが、ここが幽霊坂の坂下である。かなり緩やかに目白通りに向かって上っている。写真の左が大学側である。
尾張屋板江戸切絵図に、目白台の通りと清戸坂との合流地点の近くに本住寺があり、その東側の道に、ユウレイサカ、とある。近江屋板にも、坂マークの△印とともにユレイサカとある。 明治地図では、坂の東側が日本女子大學校となっており、戦前の昭和地図も同様である。現在本住寺はないようで、目白通りと不忍通りとを結ぶ歩道となって、二つの歩道の近道となっているようである。
「新撰東京名所図会」には、「幽霊坂は本住寺の脇より雑司ヶ谷清土へ出る坂をいふ。往来より疎籬(そり)を隔てて同寺墳墓地の見ゆるを以て、土人はかく唱へ来れるらん」とあり、「若葉の梢」には、「本住寺脇の坂は幽霊坂と云ふ、寺の脇きなれば・・・」とあるように寺院の墓場のそばなどの坂に幽霊坂、薬罐坂の坂名が多いとしている(石川)。
写真は坂上側から撮ったもので、かなり緩やかである。 この坂のいまの姿はそんなことを想起させる雰囲気はない。現在は名ばかりの幽霊坂で、前回の記事のように、この近くの別の幽霊坂の方がその名にふさわしくなっている。
目白通りを右折し、西に歩き、このとき不忍通りとの交差点で上記の清戸坂上の写真を撮った。
この季節暮れるのが早い。かなり暗くなった道を雑司が谷駅へ。
今回の携帯による総歩行距離は13.9km。
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)