阿佐ヶ谷駅を出て中杉通りを横断し、三菱東京銀行の手前を右折し、次を左折し直進すると、鳥居が見えてくる。 参拝客でかなり混んでいる。中に入ると、かなりの長蛇の列ができているが、順調に進み、並び時間は15~20分ほど。
ここは、阿佐ヶ谷北一丁目(もと阿佐ヶ谷四丁目)で、世尊院の東に位置する。ここから北の方の阿佐谷北五丁目35(もと阿佐ヶ谷五丁目)あたりの、通称お伊勢の森が元の鎮座地で、旧阿佐ヶ谷村の鎮守天祖神社である。
「阿佐谷神明宮 同じ西の方阿佐谷にあり。中野の通りよりは右へ入りて十八町ばかりあり。(阿佐谷は、小田原北条家の所領役帳に、中野内阿佐谷とあり。太田新六郎の所領にして、昔は中野に属せし小名なりしとおぼし。)祭神伊勢に相同じ。神体は一顆の霊石なり。毎歳九月十六日を祭祀の辰とす。別当は真言宗にして阿谷山世尊院と号す。(中野の宝仙寺に属す。即ち宝仙寺の旧地なり。)相伝ふ、景行天皇の四十四年、日本武尊東夷を征伐し給ひて御凱陣の時、この地に休らひ給ひしかば、その後土人ら尊の武功を慕ひ奉り、その地を封じて一社を経営し、神明宮を勧請す。然るに建久の頃、この地の農民横井兵部といへる人、(この人の遠裔今もこの地に住して子孫連綿たりといふ。その昔源頼義朝臣奥州征伐の時、この地に至り給ふに、この横井氏の兵部といふ者随兵に加はりてありしが、急に病に臨みて戦場に赴く事なりがたく、ここに止まり終に農民となる由、その家に伝ふと云ふ。)祈願あるにより伊勢太神宮へ参拝せんと、勢州能保野の駅舎に宿す。その夜太神宮の霊示ありて、翌日宮川の水中にして一顆の霊石を得たり。依つて神意に任せ旧里に携へ帰り、件の神明宮の社に安置して、神躰となし奉るといへり。その後祇海といへる沙門神告あるにより、社を今の地に遷すとなり。(その旧地は七八町東の方にあり。土人これを元伊勢と称す。)」
江戸中期ころ、祇海という僧が現在地に移したらしく、そのもとの所を元伊勢といったとあるので、お伊勢の森はこれに由来する。
阿佐谷神明宮(阿佐谷天祖神社)の起源は、日本武尊(やまとたけるのみこと)伝説によるらしく、神体とされる霊石は建久年間(1190~1198)横井兵部というこのあたりの豪族が伊勢神宮へ参拝したとき霊示により宮川の水中から得て持ち帰ったという伝説によるものらしい。
参考文献
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(四)」(角川文庫)
大谷光男・嗣永芳照「杉並区史跡散歩」(学生社)