東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

鳥好きの柳田国男

2023年04月05日 | 読書

国男13歳 民俗学者で「遠野物語」などで有名な柳田国男(1875~1962)は、姫路からちょっと離れた田園地帯で生まれ、82歳のときに口述し後に出版された『故郷七十年』の「最初の文章」で次の幼き時代の思い出を語っている。

(写真は13歳の国男)

『私の幼い時書いたもので一つだけ奇抜な、文学的なものがある。姫路のお城の話で、父から聞いて非常に感動させられたものである。それをあのころ行われていた雅文体にして書いたもので、原本は見当らないが、こんな話であった。
 姫路のお城の中にある松の木に鶴が一番つがい巣を作っていた。よく見ると一羽の鶴が病気になってちっとも動かない。それは雌鶴らしく、もう一羽の雄鶴らしいのが度々巣を出て行っては帰り、帰りしていたが、そのうちいつの間にか、とうとう出て行ったきり帰って来なかった。「やっぱり鳥なんていうものは仕様がないものだ、いくら仲が好くても……」こんなことを人々はいっていたそうだ。ところが残ってねていた雌らしい方が木から落ちて死んでしまった。と、その後へもう一羽の鶴が帰って来た。そして巣に雌鶴がいないので大きな声で啼いたというのだ。そして口から何かを下の方へ、落してしまった。それを誰かが拾ってみたら朝鮮人蔘だったという、悲しい物語であった。
 何だかあまりよく出来すぎた話だけれども、非常に感激して歌を詠んだのをよく憶えている。十五歳の時の歌で、
   いく薬求めし甲斐もなかりけり常盤の島を往き来りつつ
というのであった。「いく薬」という言葉はよくあるが、つまり活く薬、すなわち良薬のことである。その歌が賞に入って、これはいい歌だなんていわれたのが嬉しかったので、物語も書いたものらしい。これがおそらく私のいちばん早い文章だったかと思う。
 あんな話は嘘だと思うが、私は姫路にいなかったにかかわらず、そういう話をたくさん聞いていた。鶴の話は父から聞いたように思う。』

柳田自身が言うようによく出来すぎた話で嘘かもしれないが、柳田少年(正確には松岡少年)が感動したこともまた事実である。こういった話に感応し、心が動く心性を持っていた。これが晩年までよく覚えていたゆえんであろう。

柳田は、『野草雑記・野鳥雑記 野草雑記』で次のように少年時代から鳥好きであることを自ら認めている。

『鳥は旧友川口孫治郎君の感化もあり、小学校にいた頃からもうよほど好きであった。十三歳の秋から下総の田舎にやって来て、虚弱なために二年ほどの間、目白や鶸[ひわ]を捕ったり飼ったりして暮した。百舌[もず]と闘ったこともよく覚えている。雪の中では南天の実を餌にして、鵯[ひよどり]をつかまえたことも何度かある。雲雀[ひばり]の巣の発見などは、それよりもずっと早く、恐らく自分が単独に為なし遂とげた最初の事業であって、今でもその日の胸の轟[とどろき]が記憶せられる。小鳥の嫌いな少年もあるまいが、私はその中でも出色であった。川口君の『飛騨の鳥』、『続飛騨の鳥』を出版して、それを外国に持って行って毎日読み、人にも読ませたのは寂しいためばかりではなかった。少なくとも私の鳥好きは持続している。』

子どもの頃からずっと鳥好きであったことがわかる。いろんな思い出の鳥を挙げているが、当時の子どもが鳥と遊んだ様子の記録となって興味深い。

鶴の話に感動した鳥好きの松岡少年は、その数十年後、次のような逸話を残している。

大正14年(1925)50歳
『7月5日 布佐に行き、両親の三十年祭を執り行う。このころ、我孫子に住む杉村楚人冠の「白馬城」と名づけた自宅を訪れ、森や池を散策し、池の金魚を狙うカワセミを嫌う楚人冠に対してカワセミを擁護する。』(柳田国男「年譜」)

カワセミカワセミ(翡翠、川蝉)は、生きた小魚やエビやザリガニなどを餌とするが、金魚も食べるようである。

川、池、沼などに出没し、チィ、チーと独特の鳴き声で鳴き、直線的にかなりのスピードで飛ぶ。水辺の手頃な枝や杭や石などに止まって水の中をよく見つめ、狙いを定めて水中に飛び込んで長いくちばしで捕獲する。捕えた小魚などを枝や石に叩きつけて弱めてから丸呑みをする。青色の背中や頭、橙色の胸や腹がよく目立つ、あでやかな色彩の小鳥である。

幼いころ鶴の話に感動した鳥好きの柳田の心性は、後年までしっかりと残っていたようで、このときは小鳥であったが、生きるのに必死なカワセミを擁護した。

柳田は、カワセミをめぐる楚人冠に対する意見を『野草雑記・野鳥雑記 野鳥雑記』の「翡翠の歎き」で詳述している。

杉村楚人冠(すぎむらそじんかん/1872~1945)は、新聞記者、随筆家、俳人。愛鳥者であるが巣箱主義であると、柳田はちょっと揶揄する調子で次のように書いている。

『彼の我孫子の村荘は園は森林の如く、晴れたる朝に先生斧を提げて下り立ち、数十本の無用の樹を斫[き]り倒すと、その中に往々にして自然の鳥の巣を見出すという実状なるにもかかわらず、更に邸内に総計十二箇の巣箱を配置し、その箱の板にはヘットなどを塗り附けて、いとも熱心に雀以上の羽客を歓迎しているのである。』

『カワセミという奴ばかりは、実際困るのだといっている。巣箱の大屋さんから、あの飄逸[ひょういつ]なる尻尾[しっぽ]のない鳥だけが、疎[うと]まれているのである。それはまたどうしてかと尋ねて見ると、池に飼ってある魚を狙って、始末にいけないという話であった。』

柳田は、次のようにカワセミを評価し、その由来を論じている。

『水豊かなる関東の丘の陰に居住する者の快楽の一つは、しばしばこの鳥の姿を見ることである。あの声あの飛び方の奇抜[きばつ]なるは別として、その羽毛の彩色に至っては、確かに等倫[とうりん]を絶している。これは疑う所もなく熱帯樹林の天然から、小さき一断片の飛散[とびち]ってここにあるものである。魚類ならばホノルルの水族館の如く、辛苦して硝子の水槽の中に養わざる限りは、常に西海の珊瑚暗礁[さんごあんしょう]の底深く隠れ、銛[もり]も刺網[さしあみ]もその力及ばず、到底東部日本の雪氷の地方まで、我々に追随し来る見込はないのだが、独[ひと]りカワセミだけは多分我々の先祖の移住に先だち、夙[つと]にこの島国に入り来って異郷の風物と同化し、殊[こと]にそのおかしな嘴[くちばし]と尻尾とを以て、遠くから存在を我々に知らしめ、これによって寂しい太陽の子孫たちを慰安し、永く南方常夏[とこなつ]の故郷を思念することを得せしめるのである。』

我々の先祖よりも先に熱帯地方からやって来たとし、それゆえ、寂しい太陽の子孫である我々を慰め、南方の故郷をおもわせるのだ、としている。

以下、延々とカワセミ擁護の論陣を張っている。

参考文献
「柳田国男全集 別巻1 年譜」筑摩書房
新潮日本文学アルバム 柳田国男
青空文庫

 

コメント (1)
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