前回の新茶屋坂の坂上をもどるようにして西南に進む。右下は先ほどまでの新茶屋坂である。
やがて突き当たり、ここを左折すると、一枚目の写真のように、左に平坦な道、右に下り坂が見えるが、この坂が茶屋坂である(現代地図)。
以下、写真を坂下から並べる。
二枚目は、坂下の小さな公園のわきから坂上側を撮ったもので、このあたりはほぼ平坦な道である。目黒区三田二丁目14番と15番との間。
三枚目はその公園を撮ったもので、茶屋坂街かど公園である(現代地図)。
四枚目のように、公園内に「茶屋坂の清水」と刻まれた石碑が立っている。その傍らに立っている目黒区土木部公園緑地課による説明板に石碑の説明がある。
公園の先をちょっと右に曲がると、一枚目の写真のように、まっすぐに延びていて、しだいに勾配がついてくる。
二枚目は坂下の四差路の手前から坂上側を撮ったもので、ここを左折すると、新茶屋坂の中腹に至る。
三枚目は交差点のあたりから坂上側を撮ったもので、中程度の勾配でまっすぐに上っている。四枚目はそのちょっと上側から坂下側を撮ったもので、東北角に坂の標柱(目黒区教育委員会)が立っている。
標柱には次の説明がある。
「茶屋坂(ちゃやざか)
江戸時代、将軍が鷹狩りの際に立ち寄った、「爺々[じじ]が茶屋」と呼ばれる一軒茶屋がこの近くにあったのが由来といわれている。」
この上の坂角に別の標識(パネル)が立っているが、それには次の説明がある。
「茶屋坂と爺々が茶屋 三田2-12~14
茶屋坂は江戸時代に、江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で富士の眺めが良いところであった。
この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りの時は立ち寄って銀1枚を与えるのが例であったという。また10代将軍家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。
こんなことから「目黒のさんま」の話が生まれたのではないだろうか。
平成3年3月 目黒区教育委員会」
一枚目の写真は、曲がってから坂上側を撮ったもので、二枚目はそのあたりから坂下側を撮ったもので、この曲がりの前後でかなりの勾配となっている。
三枚目は曲がりのさらに上側から坂上側を撮ったもので、このあたりもかなり勾配がある。四枚目はそのあたりから坂下側を撮ったもので、突き当たり角に上記の標識(パネル)が立っている。
この坂について目黒区HPに次の説明がある。
「江戸の初め、田道橋を渡り三田方面に通ずる坂上の眺望のよいところに、1軒の茶屋があった。徳川3代将軍家光は、目黒筋遊猟の帰りにしばしばこの茶屋に寄って休息をとっていた。家光は、茶屋の主人彦四郎の素朴な人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたため、この茶屋は「爺々が茶屋」と呼ばれるようになった。あるとき、家光は「いつもお前の世話になっている。何か欲しいものがあったら取らせるからいってみよ」との仰せ。彦四郎は恐縮しながら、自分の屋敷の周囲を1町ほど拝領したいむね申して、これをいただいた。」(続いて、落語として創作された話が紹介されている。)
一枚目の写真は、直角にカーブした所のさらに上側から坂上側を撮ったもので、この上側で左にちょっと曲がっている。二枚目はその上側から坂下側を撮ったもので、坂下側はかなり勾配がある。
三枚目はそのあたりから坂上側を撮ったもので、坂上側は緩やかになっているが、ふり返ると、四枚目のように坂下側はまだかなり急である。
上述の目黒区の各説明では、江戸時代、将軍家光や吉宗が爺の茶屋に立ち寄ったことが紹介されているが、その出典がよくわからない。横関、石川は、次のように江戸時代の文献の記述を引用している。これらが基になっているのかもしれない。
『新編武蔵風土記稿』に「味噌下は渋谷村の方へ寄てあり、御遊猟御立場の辺なり、此所に茶店あり、土俗爺が茶屋と呼び世に聞えたる茶店なり」とある(横関)。
また、『東都一覧武蔵考』に「爺が茶屋坂 三田村と中目黒村の境、所謂永峰といへる山の坂なり眺望よし。享保の頃御成の時一老夫此坂にありて御供にすすめける。後かの老夫あり合せざりければ、爺はいかがしたりけるやと仰せありけるにより、御成の時は必ず彼を出すこととせしならん」とある(石川)。
一枚目の写真は、さらに上側から坂上側を撮ったもので、坂上が見える。二枚目はさらにその上から坂下を撮ったもので、このちょっと下側で右折すると下り坂となる。
三枚目は、さらに上側から坂上側を撮ったもので、ここを直進すると、突き当たるが、右に進むと、新茶屋坂の坂上である。 四枚目は、坂上から坂下側を撮ったもので、右に立っている勾配表示は、10%になっている。
この坂は、台地からトラバースするようにしてかなりの勾配で下り、かなり下ってから直角に曲がって谷へまっすぐに下っている。むかしもそうだったのか不明だが、坂上側のトラバース部分はそうだったような気がする。台地から谷に向けてかなり急斜面(崖)であったためそうならざるを得なかった。この近くの別所坂もそうである。
この辺の台地は、永峰と呼ばれたが、それは目黒川流域に発達した谷から見てつけられた地名のように思えてくる。谷から東北方面を見ると、崖のようになって峰が続いていたのであろう。どこからどこまでそう呼ぶのかわからないが、その語感からかなり長かったようにも思える。
一枚目は、御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図、二枚目は尾張屋板江戸切絵図 目黒白金図(安政四年(1857))の部分図である。いずれにも別所坂近くの新富士があるが、この坂がどこか、はっきりしない。
安藤広重の『名所江戸百景』に「爺々が茶屋」が描かれているが、坂の途中に茶屋があり、その向こうに田んぼが広がり、遠くに富士が見える。
明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、この坂があり、途中直角に曲がっているが、ここはいまと同じ所と思われる。坂の西側に火薬製造所、東側に射撃場がある。昭和16年(1941)の目黒区地図にも同じ道筋がある。これらから、現在の坂の道筋は、むかしからさほど変わっていないように思えてくる。
目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、233m、17m、6.9で、坂下側はかなり緩やかであるので、急な所はかなりの勾配である。
この坂は、数年前に訪れたことがあるが、目黒川方面からここに来たとき、日がかなり暮れてしまい、かすかな光で写真を撮りながら坂を上った覚えがある。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)
「大江戸100景地図帳」(人文社)