前回の十貫坂・蚕糸の森公園に行ったときではないが、妙法寺近くの左内坂を訪れた。善福寺川散歩のとき、ちょっと足を延ばしたのである。
善福寺川を下流に向かって歩き、大宮神社近くの宮下橋を過ぎてさらに進むと、やがて済美(せいび)橋に着く(現代地図)。ここを左折すると、荒玉水道通りがまっすぐに延びているが、ここを北へと歩いていくと、信号のある交差点に至る。ここを右折し、すぐの信号(堀ノ内3丁目)を右折すると(そのまま直進すれば妙法寺である)、ちょっと下り坂となる。一枚目の写真のように、ここから遠くに見える坂が左内坂である。(荒玉水道通りのもっと手前で右折すると、ちょっと近道で、坂上に至る。)
二枚目は、四差路となっている坂下から南側の坂上を撮ったもので(現代地図)、杉並区堀ノ内三丁目8番地と13番地の間にある。坂下のあたりはかなり緩やかで、坂上側でちょっと勾配のある小坂である。三枚目は、坂下からちょっと進んでふり返って撮ったもので、向こうに先ほどの信号が見える。
一枚目の写真は、坂下からさらに進んでから、二枚目はさらにそのちょっと先から、坂上側を撮ったものであるが、二枚目の左側(東)に左内坂教会の標識が立っている。ちょうど上りとなった中腹のあたりで、現代地図を見ると教会に隣接して左内坂幼稚園がある。三枚目は、教会の前のあたりから坂上側を撮ったものである。
この坂は、「東京23区の坂道」に紹介されている。かなり前にそれで知ったが、現代地図を見ると、この教会と幼稚園があったので位置はすぐにわかった。しかし、最近、ちょっと調べただけであるが、この坂のことを記した資料は上記サイト以外には見つからない。いつもの坂の本にも載っていない。このため、坂を特定するものは、左内坂教会と左内坂幼稚園の存在しかないといってもよい。
現代地図から、昭和22年(1947)と昭和38年(1963)の航空写真を見ると、この坂のある道や荒玉水道通りが見える。
左内坂教会のHPを見ると、創立が1932年(昭和7年)7月11日で、80年ほど前にできたことがわかる。これから想像すると、その創立のとき、この坂が付近の住民から左内坂と呼ばれていたので、この坂名を付けたように思われてくるが、はたしてどうなのであろうか。
一枚目の写真は、教会の前を上り坂上近くから坂下を、二枚目は、そのあたりから坂上を撮ったものである。三枚目は坂上から坂下を撮ったものである。二枚目からわかるように、坂上は四差路となっていて、左折すると、環状七号線方面、右折すると、先ほどの荒玉水道通り、直進すると、はじめ下り坂であるが、やがてほぼ平坦となり熊野神社のわきを通って善福寺川にかかる本村橋に至る。
同名の坂が市ヶ谷にあるが、外堀通りからかなりの勾配で西北へ上る坂で、坂名は、そのあたりの名主であった島田左内に因む(以前の記事)。この坂も同じようなことに由来するのかもしれない。
文化四年(1807)~天保五年(1834)に村尾嘉陵が書いた「江戸近郊道しるべ」(現代語訳)の「井の頭紀行」に、妙法寺の『寺門を出て、まっすぐに南に向かっていくと、小坂がある。下ると田圃に出るが、左右の眺めはよい。』とある。この小坂は、この坂ではないと思われるが、田圃へと下る坂がこの近くにあったことがわかる。
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
村尾嘉陵/阿部孝嗣訳「江戸近郊道しるべ 現代語訳」(講談社学術文庫)