東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

十貫坂

2013年05月12日 | 坂道

連休の合間に中野区の十貫坂から東高円寺の辺まで歩いた。その小散策記である。

十貫坂上 十貫坂上 十貫坂上 十貫坂上 午後丸の内線新中野駅下車。

三番出口から出て青梅街道の歩道を東へちょっと歩き、右折すると、鍋屋横丁の通りがまっすぐに延びている。休日の午後であるが、商店街は人通りが少なく静かでちょっと活気がない感じがする。このような活気のない商店街が増えているような気がするが、これは都内に限ったことではないかもしれない。

しばらく歩くと、南北に延びる中野通りと交差する。ここが十貫坂上の交差点で、左折すると神田川方面への下り坂となる(現代地図)。

交差点を横断し、ふり返って撮ったのが一枚目の写真で、いま通ってきた道がまっすぐに延びている。二枚目は、進行方向(坂側)を撮ったもので、それまでの道幅より狭い道が鍋屋横丁の通りから直進するようにして西側へと延びている。このあたりが十貫坂の坂上で、中野区本町六丁目1番と本町五丁目48番の間。

ちょっと進むと、三枚目のように、坂が下っているのが見えてくる。四枚目はさらに進んで坂上から撮ったもので、中程度の勾配でほぼまっすぐに西へ下っている。このちょっと先まで中野区であるが、下りの途中から杉並区になる(和田一丁目57番と58番の間)。

一、二枚目に写っているように、交差点近くの街路灯の柱に十貫坂の標識がはり付けられている(鍋横かわら版)。十貫坂の由来として次の説明がある。

「付近から十貫文の入った壺がでてきたという説と中野長者が坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買ったためと記録にあります」

貫(かん)は、尺貫法における質量の単位(1貫=100両=1000匁=3.75kg)、また、江戸時代以前の通貨の単位で、一貫が銭1000枚であるので、十貫文は穴あき一文銭一万枚である。

十貫坂上 十貫坂上 十貫坂中腹 十貫坂中腹 一枚目の写真は、ちょっと下ってから坂上側を、二枚目は、そのあたりから坂下側を撮ったものである。三枚目は、さらに下った中腹から坂上側を、四枚目は、そのあたりから坂下側を撮ったもので、坂下側で右へと緩やかにカーブしている。

最近、江戸時代、文化四年(1807)~天保五年(1834)に村尾嘉陵という人が書いた「江戸近郊道しるべ」(現代語訳)を読んだら、この坂が次のように出てきた。

「十貫坂は、ここの地面を掘ったところ、永楽銭十貫文が出てきたことから名付けられたという。」

「現在、角筈村と和田村との間にある坂は、九郎がこの坂に登り、眼の届く限りを十貫文で買ったことから、十貫坂と名付けられたという別説もある。」

これらの説明は、同著の「成子成願寺・熊野十二社紀行」にあるが、この章は中野長者と呼ばれた鈴木九郎についての伝説が詳しい。応永年間(1394~1428)に鈴木九郎が流落して武州中野に来て妻と住んでいた。九郎は馬買いを仕事としていた。あるとき、総州葛西の市で馬を売って一貫文を得たが、その帰りに浅草で観音堂に詣で、すべて奉じた。途中まで迎えに来た妻と一緒に家に帰ろうとすると、家が焼けているように光っていたが、火事ではなく家の中に黄金が満ちており、その光であった。九郎は、応永十年、その金で紀州熊野の神を勧請し、十二社権現を祀った。田畑を買い、宅地を広げ、穀倉を並べ、中野長者と呼ばれるようになったが、坂から眼の届く限りの土地を買った。この坂は、その伝説に由来するが、村尾嘉陵が記録したのが文化四年(1807)~天保五年(1834)というから、その当時から400年も前のことであった。

十貫坂中腹 十貫坂中腹 十貫坂下 十貫坂下 一枚目の写真は、坂中腹のカーブのあたりから坂上側を、二枚目は、そのあたりから坂下側を撮ったものである。三枚目は、カーブを曲がって下ってから坂上側を撮ったもので、きれいにカーブしている。四枚目は坂下右側(北)の緑地を撮ったもので、この坂名が付いている。

この坂について「武蔵名所図会」に次の説明がある。

「十貫坂 和田村と雑色村の間の小坂なり。七、八十年以前、村民道脇の畠畔より壺に入りたる古銭十貫文を掘り出す。それより坂の名とす。或説云 十貫坂の銭は、俗に云う中野長者が埋めしところの銭なるべしと云。土人云 先年成願寺境内より漆甕を掘り出せしことあり、中に漆は僅かにありしとぞ。この時も、甕 [かめ]一つ出でたり。その余の朱、黄金などは出でしことを不聞。」

「武蔵名所図会」の原著は、文化十年(1813)~文政五年(1822)頃に八王子千人同心組の植田運夢等により成り、江戸後期の記録で、村尾嘉陵の記録とほぼ同時期である。これによれば、この坂名は、その70,80年前の古銭十貫文が入った壺の掘り出しに由来するが、これもまた中野長者伝説による。

一方、「江戸近郊道しるべ」には次のようにある。

「俗説に中野の長者は、漆千盃、朱千盃、黄金千盃、銭十六万貫を自分の土地に埋めたという(成願寺の記録には残されていない)。近年、境内から一壺掘り出され、それが全部朱であったということがある。これは俗説に合致するものである。この他にも、山中から古器物が掘り出される子とが時々あるともいう。」

十貫坂下 十貫坂下 十貫坂下 内藤新宿千駄ヶ谷辺図(文久二年(1862)) 一枚目の写真は、坂下から坂上側を、二枚目は、坂下近くから坂下側を撮ったもので、この四差路のあたりが坂下と思われる。ここを坂上からきて左折すると、まっすぐの下りで、中野富士見町駅前に至り、そこに神田川が流れている(以前の記事)。三枚目は、坂下を直進してから、ふり返って撮ったものである。

四枚目は、尾張屋板江戸切絵図 内藤新宿千駄ヶ谷辺図(文久二年(1862))の部分図である。このあたりがこの切絵図の北限で、この坂の辺はのっていないが、鈴木九郎伝説に因む十二社権現や淀橋(ヨドバシ)が見える。

淀橋は、別名、姿不見の橋ともいわれ、これも鈴木九郎伝説に因む。長者となった九郎は、増え続けた金銀の置き場所に困り、奴僕を使って金銭を原野に運び埋めたが、そのたびに、他人に漏れることを恐れて奴僕を橋の下で殺した。行く姿は見えるが帰ってくる姿は見たことがないということで、姿不見(すがたみず)の橋といわれたという。

この坂は、江戸の頃、中野と妙法寺方面とを結ぶ道にあった坂であるが、上記のように応永年間からあったとすればかなり古い坂である。ただし、江戸以前のことは伝説としてしか残っていないようである。

この坂は、最近亡くなった現代作家、丸谷才一によって次のように紹介されている。

「十貫坂にて
 数年前、杉並と中野の境のところにあるアパートに引越した。七階建てのアパートの五階で、ぼくの仕事部屋の窓から首を出すと、ちようど真下に、中野十貫坂といふゆるやかな坂が見える。
 原稿書きがいやになると外を眺めては、おれも年をとったらあの爺さんみたいに尻つぱしよりで散歩しようとか、世の中には妊娠してゐる女の人がずいぶん多いものだなとか、つまらぬことを考へるのである。
 この十貫坂といふ地名は、十貫目の荷物を持って登ればちょっとこたへる。といふくらゐの由来なのだらうか、とにかく古風で野暮な感じが非常に気に入ってゐる。やはり尺貫法といふのは風情があってよろしい。
 だから、十貫坂アパートとでも命名してくれれば嬉しかったのに、残念ながら富士見ハイムといふあまりぞつとしない名前である。看板に偽りなく、うまい具合に晴れた日にはたしかに富士山が見えるし、それに何々パレスやヴィラ何々よりはまだしもマシかもしれないけれど。・・・」

この小説家は、旧仮名遣いが好きで、そのためか、尺貫法を連想させる坂名を気に入ったようである。1970年頃の話であるが、そのアパートは上記の写真に写っている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
村尾嘉陵/阿部孝嗣訳「江戸近郊道しるべ 現代語訳」(講談社学術文庫)
校訂者 片山迪夫「武蔵名所図会」(慶友社)
丸谷才一「低空飛行」(新潮社)

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