東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

隅田川~佃島渡船場跡

2011年10月05日 | 散策

前回の明石町の浅野内匠頭邸跡と芥川龍之介生誕の地から勝鬨橋の方に向かい、その手前の天竹で昼食をとってから隅田川の川辺を上流へ佃大橋まで歩いた。

隅田川・勝鬨橋 隅田川テラス 勝鬨橋 隅田川テラス 勝鬨橋の上流側のたもとがちょっと広くなっているが、そこから隅田川と勝鬨橋を撮ったのが一枚目の写真である。階段を下りると、隅田川の川辺で、川面にぐっと近づく。二枚目の写真のように、ここから上流へ向けて川沿いに広い散歩道ができている。隅田川テラスと称しているが、水面との差がないので、親水的な感じとなる。満潮のせいか、水面が高い。

きょうもまた日差しが強いが、川からかなりの風が吹いてくるので、心地よく、暑さはさほど感じない。街中の散歩ではこうはいかない。

ちょっと歩き、振り返って撮ったのが三枚目の写真である。勝鬨橋全体が見える。このあたりから先は、四枚目の写真のように、煉瓦塀が続くが、見た感じはコンクリート塀よりもずっとよく、しゃれた雰囲気をつくっている。

永井荷風は、前回の記事のように、大正7年(1918)12月、この近く(京橋区築地二丁目30番地)に移ってきたが、その後、このあたりに散歩にきたことを「断腸亭日乗」に記している。

大正8年(1919)「四月四日。夜寒からず。漫歩佃の渡し場に至り河口の夜景を観る。」

大正10年(1921)9月11日には次の記述がある。

「九月十一日。秋の空薄く曇りて見るもの夢の如し。午後百合子訪ひ来りしかば、相携へて風月堂に徃き晩餐をなし、掘割づたひに明石町の海岸を歩む。佃島の夜景銅版画の趣あり。石垣の上にハンケチを敷き手を把り肩を接して語る。冷露雨の如く忽にして衣襟の潤ふを知る。百合子の胸中問はざるも之を察するに難からず。落花流水の趣あり。余は唯後難を慮りて悠々として迫まらず。再び手を把つて水辺を歩み、烏森停車場に至りて別れたり。百合子は鶴見の旅亭華山荘に寓する由なり。」

荷風は百合子(田村智子、白鳩銀子)と二人で銀座から掘割に沿って明石町の岸辺にきて、佃島の夜景を眺め、石垣にハンケチを敷き座った。意味深長な記述が続いているが、それは別として、荷風はこのあたりの地理は詳しかったので、このデートコースは荷風が設定したのであろう。この後、一月程度で二人の仲は急速に進む。

隅田川右岸標注 佃大橋 佃島渡船の石碑 佃島渡船場跡の説明板 佃大橋の手前に河口からの距離(1.0km)を刻んだ隅田川右岸の標柱が立っている(一枚目の写真)。二枚目の写真はそのあたりから上流側を撮ったもので、佃大橋の向こうに佃の高層マンション群が見える。

のまま歩くが、相変わらず、風が吹き、暑さを感じさせない。やがて佃大橋の下に至るが、そこをくぐると階段がある。ここを上下してテラスの外に出ると、樹が茂っているが、この下に佃島渡船の石碑が建っている(三枚目の写真)。そのわきの説明板(四枚目の写真)によれば、正保二年(1645)佃島とその対岸の旧船松町(この佃大橋西詰付近)との間に渡し船が通ったという。これを佃の渡しとよんだ。

尾張屋板江戸切絵図(京橋南築地鉄炮洲絵図)を見ると、船松町の対岸に小さな島がある。御用地、石川島、佃島であるが、この島と船松町との間に、渡シバ、とある。

昭和2年(1927)3月それまでの手こぎ渡船を廃止し無賃の曳船渡船にかわったが、その廃止を記念して建てられたのが上記の佃島渡船の石碑であるという。昭和30年(1955)7月には1日70往復にもなったが、同39年(1964)8月佃大橋の完成によって佃の渡しは廃止され、300年の歴史の幕を閉じた。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 芥川龍之介と忠臣蔵(3) | トップ | 佃大橋~佃島(1) »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

散策」カテゴリの最新記事