東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

吉備真備『乞骸骨表』

2017年05月05日 | 吉本隆明

「思想のアンソロジー」 吉本隆明「思想のアンソロジー」は、古今の色んな分野からテキストを選び、その中から択んだ要部に吉本流の独自の解説を加えた一冊である。それらの選択のみならず、その凝縮された思想のエッセンスにはっとさせられる。その射程は深く広い。

その一つが奈良時代の学者・政治家の吉備真備(きびのまきび)の「乞骸骨表」(骸骨を乞うの表)。〈隠退の願いをお許し下さい〉という意味の辞表である。古典古代晩期の公職辞表のうち最古のものという。

漢和辞典(大修館書店)には、骸骨を乞う(ガイコツをこう):主君にさしあげた自分のからだを返してほしいと乞い求める、辞職を願い出ること、とある。

右大臣・中衛大将であった吉備真備が神護景雲四年(770)九月七日に提出した辞表であるが、その全文(書き下し)は次のとおり。

『乞 骸 骨 表
 側かに聞かく、力任へずして強ふる者は廃し、心逮ばずして極むる者は必ず惛し、と。真備、自から観るに、信に験ありと為すに足れり。
 
去る天平宝字八年、真備生年数へて七十に満ちぬ。その年の正月、致事の表を大宰府に進り詑りぬ。いまだ奏さざるの間に、即ち官符ありて、造東大寺長官に補せらる。これに因りて京に入りて、病を以て家に帰り、仕進の心を息む。忽ち兵の動くことあり、急に召されて入内し、軍務を参謀す。事畢りて功を校ふるとき、この微労に因りて、累りに貴職に登され、辞譲することを聴されずして、すでに数年を過ぎたり。即今老病、身に纏りて、療治すれども損え難し。天官の劇務は、暫くも空しくすべからず。何ぞ疾を抱くの残体にして、久しく端揆を辱しめ、数職を兼帯して、万機を佐くることを闕くべけむや。自から微躬を顧みて、靦顔すでに甚しく、天に慚ぢ地に愧ぢて、身を容るるに処なし。
 伏して乞ふらくは、事を致して以て賢路を避け、上は聖朝の老を養ふの徳を希ひ、下は庸愚の足るを知るの心を遂げむ。特に殊恩を望みて、矜済を祈り、慇懃の至りに任へず。謹みて春宮の路の左に詣でて、啓し奉りて陳べ乞ふ、以て聞せよ。』

「吉備真備の世界」 この現代語訳が中山薫「吉備真備の世界」にあるが、平易な訳文でわかりやすい。以下は、これを参考にした。

真備は、天平宝字八年(764)に七十歳になったので、その年の正月、辞職願を大宰府に提出したが、それが天皇に届く前に、造東大寺長官に任命された。そこに戦乱が起き、軍事作戦や戦略を立てた。乱が平定されると、功績により高い官位を賜り、辞職が許されず、数年が過ぎた。いま老いて、病身で、治癒しない。病身の自分が長く右大臣で、他の官職も兼務して、どうして天皇の政治を補佐できようか。辞職ののち隠遁させてほしい。謹んで辞職のお願いを申し上げる。

かなり大ざっぱであるが以上のようなことが書かれている。吉本は、この本文を短文だが日本人離れのした達意の漢文で、学者、文章家としての真備の面目があらわれていると評価しつつ、その本文といえども、現在の感覚からいって「骸骨を乞う」という、〈公職を辞任したい〉という表現の面白さに及ばないので、この表題そのものを択んだとしている。

古典古代の吉備真備の「乞骸骨表」は、現在、辞表に「一身上の都合により」と書く習慣になって、現在も辞表の模範だが、別の意味では事の真相に触れず一身上の都合にしてしまう、日本だけでなく東洋の悪習の元とし、一身上のことと、公的・社会的なこととの区別があいまいなのだ、と断じている。自身も同じことに当面したことがあるとして、自らの体験を次のように綴っている。

『ドイツ留学の化学者の草分けともいうべき長井長義の長子である長井亜歴山[アレキサンダー](共働経営者江崎氏)の特許事務所にアルバイトで隔日勤務していたころ(一九六〇)、全学連主流派の雑兵として一般学生たちと拘留されたことがあった。世間を騒がせたというので、辞表を出し、同時に口頭で長井氏に理由を述べたことがあった。長井氏は即座にそれは貴方個人のことで事務所には関わらないものと理解できるから、辞表の必要はないと即答された。日本の会社や事業所だったらそうはならないで即刻リストラであるにちがいない。もちろん辞表には「一身上の都合」と記した。真備以来の伝統的習慣だからだ。
 長井氏はもともと武士道的な古風な「義」と日本人離れした感性をもつ人だったが、わたしはこの時、個人としての個人(私人)と公共社会人としての個人の理念を分離できている長井氏にいたく影響をうけたのを覚えている。
 吉備真備の「乞骸骨表」は、東洋的道義で個の全体を覆おうとする礼儀と、個の恩愛をかくそうとする礼節(社交)をよく象徴して興味深い。』

長井亜歴山 吉本が何故に吉備真備の「乞骸骨表」に惹かれたのか、以上から、それが自らの体験からであることがわかる。そのゆえんを古典古代の「辞表」から解き明かしているわけで、その展開はいつものことながら新鮮である。

長井亜歴山が即答したのは、その逮捕・拘留は個人の範疇に属することであり、事務所には関係しないことであるから辞表の必要などない、ということで、しごくまっとうな見解であるが、日本的な一般慣習からすると、現在でも異端的意見とされてしまうかもしれない。

60年安保の次の年に吉本は「試行」を創刊し、「言語にとって美とはなにか」を発表し、その後、昭和43年(1968)12月に「共同幻想論」を刊行しているが、上記の体験は、共同幻想論の成立に影響を与えたといえるかもしれない。

「共同幻想論」の「全著作集のための序」で『個々の人間の観念が、圧倒的に優勢な共同観念から、強制的に滲入[しんにゅう]され混和してしまうという、わが国に固有な宿業のようにさえみえる精神の現象は、どう理解されるべきか』ということがもう一つの共同幻想論の基本的モチーフであるとしている。そのわが国に固有な宿業を反射的に想起させる具体例の一つとして上記の体験があり、それらから自らの精神の現象をえぐり出したことは想像に難くない。

共同幻想論(角川文庫) 吉本が長井から感じとった個人としての個人(私人)と公共社会人としての個人の理念の分離ということは、共同幻想論において個人幻想と共同幻想とを分けて考えることと通底するようにおもえてくる。しかし、個別具体的にみると、個人幻想が圧倒的に優勢な共同幻想から強制的に滲入され混和されてしまう結果、日本では個人幻想の共同幻想からの分離は困難になってしまうということか。

「角川文庫版のための序」に次の記述がある。

『国家は幻想の共同体だというかんがえを、わたしははじめにマルクスから知った。だがこのかんがえは西欧的思考にふかく根ざしていて、もっと源泉がたどれるかもしれない。この考えにはじめて接したときわたしは衝撃をうけた。それまでわたしが漠然ともっていたイメージでは、国家は国民のすべてを足もとまで包み込んでいる袋みたいなもので、人間はひとつの袋からべつのひとつの袋へ移ったり、旅行したり、国籍をかえたりできても、いずれこの世界に存在しているかぎり、人間は誰でも袋の外に出ることはできないとおもっていた。わたしはこういう国家概念が日本を含むアジア的な特質で、西欧的な概念とまったくちがうことを知った。』

日本を含むアジアにおける国家概念を考える上で重要な記述であるが、その西欧的思考にふかく根ざして云々は、主要な部分ではないものの、西欧的思考の片鱗を感じさせる長井の影響もあったのかもしれない。長井の母はドイツ人で、家庭内ではドイツ語で会話していたというから、吉本が感じた日本人離れした感性はそんな中で培われたのであろうか。

こんなことから、長井亜歴山の存在は共同幻想論の成立にわずかながらでも影響を与えたのかもしれないとおもったのである。これは、戦前の少年時代に接した看護婦の一人が確固としたキリスト教の信者であったことを戦後になってから理解してその面影から異性の優しさ以外のものも受けとったと別のところで書いているが、これが吉本を聖書や教会に向かわせるきっかけになった可能性があることと似ている(以前の記事)。

元にもどって、真備のような辞表の文体的な理由は、中国語を公文書の正規の公用文の形式にきめたからとし、これから、中国四千年の文化の高度さを、背伸びして採用したために、急速に上層からアジア的な段階に入ったものの、原始や未開の遺制は〈本音〉になり、中国古代の様式は「建て前」となって二重化したとし、現在でもおなじかもしれないとしている。その二重化は、吉本のいうとおり本質的に現在でも同じか、あるいは、それ以上の問題となっている。これは古代から続くことで、根は深いというべきか。

参考文献
吉本隆明「思想のアンソロジー」(ちくま学芸文庫)
「日本思想体系8 古代政治社會思想」(岩波書店)
中山薫「岡山文庫 210 吉備真備の世界」(日本文教出版)
飯沼信子「野口英世とメリー・ダージス 明治・大正 偉人たちの国際結婚」(水曜社)
吉本隆明「改訂新版 共同幻想論」(角川ソフィア文庫)

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