よだれびっしょりの笑顔がサクレーツ!
日中、外で写真を撮ると、たいていこんな風にハレーションでシロシロ。アリエスが光り輝いているようで、私は大好きだけどね。
アリエスを見ていて、生きる姿勢に深く感動することがあると何度も書いた。真っ直ぐ前を見ていたり、水が流れるように淡々としていたり、信じることをいつでも貫き通したり、豊かな感性を精いっぱい表現していたり、だからだということは分かっていたんだが、もっと根底に何かあるような気がしてならなかった。言葉で表そうとするのはすごく難しいのだけど。
かけがえのない命、というのはヒトでもイヌでも当たり前のことだ。それぞれの人生があり特別な独自の生き物で、代わりはどこにもない。でも「数」を考えに入れることになれば、民主主義しかり、サバンナで追われる草食動物の群れしかり、グループの名で呼ばれる無表情な団体となる。食物連鎖に関わることなどはもうこれ致し方なく、あえて集団としてとらえることで個々の不運な悲しみから目を背けることができたりもする。肉牛を育てる農家の方々なども、絶対に牛に名前をつけないという話も耳にした。逆にあまり「仕方なくない」事柄、たとえば選挙における1票の格差や、事件に巻き込まれた方の悲劇、などは軋轢を生んだり、プロフィールが極端にクローズアップされたり、大きな波紋が広がる。
さて、アリエスはというと。私達にとって特別に大事な宝であるけど、彼は特別でありながらも、ヒト社会の流れに完全に乗っかっているとは感じられないのである。母なる自然の匂いをおおいに引きずっており、半分はそちらの時間の移り変わりに足を突っ込んでいる。「イヌ」という生き物の潔い団体性でもって、私達の手の届かないところで時を重ねていく気がしてならない。それが彼の神秘性であり、天からきたギフトだと思える一因でもあるように思うのだ。
犬の「しつけ」は人間社会に完全になじむように為されるものであり、私がアリエスに対して心のどこかで甘くなった瞬間があったとすれば、ヒトとは違うその特質をこのうえなく貴重で大切なものと感じていたからかもしれない。種の相違やアリエスの特性を忘れずにやっていこうという路線は、5年でやっと固まったものだ。・・・これは別の機会に。
そんなこんなで、「こんなに特別で大切なのに、自分のことを特別だと猛アピールするこだわりも持たずさらりさらりと生きていく」、そこに益々しびれてしまう、というわけなのだと思うのです。