「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

放置されるコメント 誰かを責めようってわけじゃありません

2006年03月22日 00時12分42秒 | BLOG論
 ブログ更新が頻繁でない方の記事にコメントを載せて、それに返事がなかなかつかいでいることがあります。

 例えばそれが僕自身が一人だけつけたコメントだったりすると、もうお返事がついたかなとか、少しだけ期待して見に行ってもなかったり、しかも自分の前にも後にもコメントがなかったりすると、心情としてではなく、風景として寂しい感じがしますね。

 もう1回断っておきますけど更新しないことを責めようっていうんじゃないんですよ。
 僕のブログでも頻繁に起こっていることなんです。

 僕はそういうときのブロガーの心理ってなんだろうと考えています。

 大都会ではあり得ないことですが、田舎では電車にタッチの差で乗り遅れるとわずかな時間ですがホームにひとりぼっちになることがあります。
 多分そういった時間に感じる心理に近いものがあるのだと思います。

 そうすると不思議なんですね。

 だって僕らは相手のブロガーの書いたものを読んでいる。

 その読んでいる最中ってのは明らかにそこに書いたブロガーの存在を意識してますね。
 でもコメントを書き終えた瞬間から、次の記事が投稿されたり、コメントに返事がかかれたるするまでは明らかにそこにはブロガーはいない。

 チャットじゃないからね。

 でもたまにリアルタイムでコメント往還したりして、チャット気分で興奮度アップになったりするけどね。

 でも基本的にはいないことが多い。

 少なくとも読む側で意識していないでしょ。

 ちょっと不思議な感じがしませんか?


 話がずれてきたようだけど、僕らは日記を書いている、でもその日記は極めて公共性の高い場所に公開されている。
 でも基本的な道徳観念はブロガー自身にゆだねられている。

 でもってブロガー個人の責任で運営されている。

 だからいつ何処でどう書こうが、どう載せようが自由であり、コメントの返事も個人の事情に委ねられている。

 だから返事をいつ書こうが一向に構わないのである。

 だが風景として寂しい。

 「一度引き取らせては頂けまいか。」と届けて、本人が出てくるまで預かりたいと思うこともある。

 例えブログであってもコメントはコミュニケーションツールであることに間違いはなく、言葉にのせた心の双方向通信であるべきであると考えるのだ。

 だめかな、この考え