AN現代針灸治療

ANとは「にただあつし(似田敦)」のイニシャルです。現代医学的知見に基づいた私流の針灸治療の方法を解説しています。

代田文彦先生の言葉と日常

2024-02-28 | 人物像

代田文彦先生は鍼灸師の心を、よく理解する希有な内科医だった。鍼灸師や鍼灸界特有の欠点があることも熟知していた。病院にいる鍼灸師には、苦笑いしつつ、時には辛辣な発言もしたが、鍼灸師の心情や立場をよく理解した上での発言で、またマトをついた指摘だったので、どの鍼灸師も反論できなかった。


1.「まず、足元を固めよ」
鍼灸師になると、すぐに将来の夢を語りたがる。そうした話よりも重要なのは、現在の立場や生活を確保することが先決だと語った。玉川病院流の鍼灸を統一しようという話もあったが、そんな暇があったら各人が自分の技量を磨いたほうがいい、と取り合わなかった。


2.「人に頼るな」
人に仕事を頼むと、がっかりした結果になることがある。全部自分でやるつもりで行うことが大事だ。 


3.「机の中身を見ると、頭の中身が分かる」
ともに整理整頓が大事だということ


4.「本田先生(私の尊敬している医師)の力が100点だとすれば、××先生(私が個人的に嫌いな医師)の力も98点はある。医師の力に大きな差はない」
代田先生の前で、私が本田先生のことを、あまり褒めるので、私をたしなめたのだろうが、真意は必ずしも明らかでない。 


5.「ある鍼灸師だが、20年間勉強を続け、医師なみの力をもった人がいる」と代田先生は語った。それを聴き、一人の針灸研修生は、少々驚き、「そんなに時間がかかるものですか?」と問い直した。代田先生は「そんなもんだ」と返答した。


6.「今(30年前)は、鍼灸師にとって、一番よい時代だろう」
   「医師にできないレベルの針灸をせよ」
 30年前の話。10年後に、鍼灸師は食えなくなる時代が来るかもしれない。医師 が鍼灸をやり出す。その対策としては、医師にできないレベルの鍼灸をすることだ。


7.「針灸は、何と頼りない医療だろう、と思う時がある」
   「針灸の守備範囲を心がけよ」
   「針灸治療が効くのは、五十肩以外は、みんな自律神経失調症だ」
 「 鍼灸をして、鎮痛剤の薬が1日3回から2回に減ったとしても、手間や費用を考えると、割に合わないでのはないか?と質問すると、「それでも鍼灸の効果はあった」と判断するのでいいことだと返答した。


8.玉川鍼灸研修生の一人(M.K氏)が、代田先生に向かって「患者に鍼灸治療をすると、邪気をもらってしまうので、非常に疲れる」と話したことがあった。先生は「それこそ気のせいだ。治療に集中するから疲れるだけだ」と返事をした。代田先生は「気」を認めていなかった。 


9.「鍼灸師は、いつまでたっても親父(代田文誌先生)の本を金科玉条にしている。よほど頭が固いんだな」と言った。


10.代田先生は、外来診療とは別に、常時20名前後の入院患者を担当していた(ちなみに常勤医師の平均入院担当は10人程度)。その入院患者は、鍼灸研修生ごとに2~4人程度が割り当てられ、助手として診ることができ、必要ならば鍼灸治療も行った。
週1回は入院患者のカンファレンスを行った。鍼灸師が担当患者ごとに現状や問題点を説明したが、その際カルテを見ながらの説明は許さなかった。代田先生には「担当した患者であれば、重要点は記憶していて当然だ」との信条があったからだ。鍼灸師の頭の中には、自分が担当した数名の入院患者のデータ(それも不確かな)しかないのに、担当入院患者20名のデータは、すべて代田先生の頭の中にあるようだった。今想い起こしてもても驚異である。


11.間中喜雄先生も針灸が大好きだが、鍼灸そのものが好きなのだ。そういう点で彼は天才だ。しかし病気を治す目的で、より良い鍼灸臨床を目指そうと考えている我々とは方向性が違う。

12.有効性の統計学的な検定は、臨床家にとってあまり意味がない。効いたか効かなかったかは、実感としてすぐに認識できる。


13.玉川病院当時の代田先文彦生は、東洋医学もできる内科医としてユニークな地位を築いていた。私が玉川に入って1年目頃には、自ら週2回の半日、針灸外来を担当していた。しかしその翌年から針灸をしなくなった(針灸は週2回女子医大耳鼻科に出向して行っていた)。
私は玉川研修生5期生だったが、玉川6期生以降の者は、おそらく代田文彦先生が実際に患者に針灸する姿を見ていないのではないだろうか。玉川で代田先生が針灸をやらなくなった理由は、内科医として多忙になり過ぎたせいであったが、本当かどうか、もう一つ理由を、先生独特の苦笑いしながら教えてくれた。自分が針灸をすれば、針灸を希望する患者が全員、自分の処へ来るので、針灸師の仕事がなくなってしまうということだった。

そして代田先生はこういった。「自分も本当は針灸したい。玉川の針灸師がうらやましい」


14.代田文彦先生が、医者になりたての頃、片手挿管法の練習をしていると、文誌先生がこう言った。「お前は医者なのだから、片手挿管法など練習しなくてよい」
以来、片手挿管法の練習は中止し、文彦先生の刺針は、常に両手挿管法によるものだった。
それから二十年経った頃、代田文誌先生の治療風景を収めた8ミリフィルムを観る機会があった。文誌先生も、両手挿管法で刺針していたのであった。

 

 15.代田文彦先生は、大学時代に空手部に所属していたのだが、大学2年時から6年時まで計5年間、主将を務めていた。対外試合の際、相手の打撃を受けても、全然効いていないような平然とした顔をして審判を欺き、相手にポイントを与えなかったという。あとで確認してみると肋骨にヒビが入っていたとか。

 

16.代田先生は、大学時代にきちんと先生についてフルートを習っていた。年に一度の玉川病院のクリスマスパーティーの演目として玉川交響楽団と称して、楽器を演奏できるドクター数名と「聖よしこの夜」を演奏したのだが、まともに演奏できたのは代田先生ただ一人だった。先生の上前歯には隙間があり、フルートを吹く時に息が漏れるということで、歯と歯の間にはさむ金でできた金型をはめ、演奏に臨んだのだった。フルートのケースには、金型も入っていた。

 

17.年に2回、玉川の東洋医学科では宴会を開いた。午後6時から開催という場合、それに間に合うように会場に来ていたのが文彦先生だった。人一倍多忙なはずなのに、これは驚きだった。他の針灸師メンバーは、いろいろな理由をつけて遅れるのが常であった。本当に忙しいひとほど時間を守ることを知った。そうしないと後の日程も狂うことになる。

 

18.先生は結構カーマニアだった。私が玉川2年目の頃、三鷹の自宅から二子玉川(通称ニコタマ)の病院まで白いフェアレディーZで通勤し始めた。職員駐車場にあっても非常に目立ち格好よかった。何回か助手席にのせてもらう機会があり、信号待ちからのスタート奪取で、背もたれに押しつけられ、他車を出し抜く加速にしびれたものである。下の写真は昭和54年製フェアレディーZだが、私が26才の頃だったので、まさしくこの外観だった。
数年後に、今度は三菱パジェロに変わった。パジェロは外見的には砂漠をキャラバンするような無骨な外見だったが、助手席に乗ってみると、高級乗用車のようなクッションと静寂性があった。フェアレディーZとは、また別の魅力があった。

 

19.代田先生は週に2回、火曜の午前中と木曜の午後2時間づつ、アルバイトで道路公団診療所で外来診療を行っていて、仕事の行き帰りには中央高速を利用した。その際、高速道路入口の係員にチケットを渡すだけでフリーパスだった。まあ当然のことであろう。他に毎週金曜は、玉川病院には出勤しないで、東京女子医大でメニエールの鍼灸臨床研究をしていた。他の常勤医師から比べ、玉川病院で仕事する時間は短いようであったが、玉川病院では朝8時から病棟回診を始めていた。朝と夕に担当患者を回診し、昼にはきちんと入院患者の処置をしていたので1日3回患者の顔を見ることにしていららしい。他に週に2回、午前と午後に漢方外来をしていた。東京女子医大での月給の額を私に漏らしたことがあった。月給××万円と、驚くほど少額だった。駐車場代(1日2万円)が女子医大負担という点が気に入ったらしい。

 

 

このお写真は、奥様の瑛子先生からお借りし、掲載の許可を頂戴しました。

 


江の島の今昔と杉山和一の墓 ver.1.1

2024-02-21 | 人物像

1.江の島道

私の住む街の隣に立川市があり、そこに「江の島道」とよばれる通りがある。この道は江の島まで続くのかと前から気になっていた。調べてみると、江戸時代以前の道の名前は大きな街道は別として、付近の住民が勝手に名前をつけることがあったという。江の島道は数百メートルの長さしかないが、地図でみると確かにその南の方角に江の島があった。

江戸時代頃から江ノ島は信仰の島とされ、庶民の間では江ノ島参りが流行した。これにあやかったものだろう。

 

 

2.今と昔の江の島
 
外国人が撮影した江戸時代の江の島の写真が残っている。モノクロなので疑似カラー化してみた。江ノ島は陸とは砂州でつながっていて、干潮時は歩いて渡ることができた。その時以外は舟で渡った。

江戸時代の江の島遠景は、現代とあまり変わらない。ただ手前にある北側(片瀬地区)は緑豊かである。あまり目立たないが、現代の江の島は島の東側は埋め立てられコンクリートで広く造成され、ヨットハーバーや市民公共施設などになっていて、面積も江戸時代にくらべ倍増している。江の島ヨットハーバーは、1964年と2021年の東京オリンピックのヨットレース会場にもなった。

ところで浮世絵師の葛飾北斎も、富岳三十六景のシリーズとして「相州江の島」として下記の絵を描いている。意外にも写実的描写になっている。


3.信仰の山としての江の島

宗像(むなかた)大社とは沖津宮(へつぐう)、中津宮(なかつぐう)、辺津宮(おきつぐう)の総称で、それぞれ天照大神の三女神を祀っている。福岡にある宗像大社がとくに有名で、その沖津島は世界遺産に登録されいる。江の島にもにも宗像大社がある。辺津宮の女神が美人だったことから最も人気があって、弁財天(通称、弁天様)との別称がついている。江戸の住民にとり、江の島の弁財天にお参りできる信仰の山であると同時に、門前町特有の賑わいがあった。江戸の人にとって、お伊勢参りは遠く、その点江の島は手頃な観光地だった。

上写真は、辺津宮にある弁財天。通称、はだか弁天。辺津宮の女神である。人づてにこの噂を聞きつけ、これを見たさに多くの者がここを訪れたことだろう。



          

    江の島仲店通りと一の鳥居

 

江の島の入口には翠(みどり)の鳥居があり、なだらかな坂を過ぎると朱の鳥居がある。ここから道は3本に分かれた急坂になる。正面道は竜宮城のような建物をくぐり階段を登ると辺津宮に着く。左の道はエスカー乗り場である。エスカーとは、数十年前につくられた有料の連続する何段ものエスカレーターのことで、楽して辺津宮まで連れてってくれる。ただし下りのエスカーはないので階段で下りる他ない。和一の墓石は、右の急坂を上ってすぐ右手にある。


 


4.杉山和一の墓石


杉山和一は85才で没した。和一の墓は両国の杉山神社にっほど近い弥勒寺にあったが、和一にゆかりの深いということで江の島にも分祀した。この墓は江戸時代に建立された。墓石が苔に覆われて歴史の重みが伝わってくる。弥勒寺のものと比べても規模が大きい。


5.江の島灯台から岩屋までの道

辺津宮からの道は割合平坦で、間もなく江の島灯台に着く。ここは展望台を兼ねている。展望台にはシーキャンドルという、つまらない名前がつけられてしまった。
参拝者は、辺津宮、中津宮、奥津宮の順番でお参りすることになるが、次第に歩く人は減り、道も細くなる。奥津宮を
過ぎると道は急な下り坂となり、海岸に達する。この岩だらけの海岸は稚児の淵とよばれる。海岸には岩屋とよばれる2本の海蝕洞窟がある。第一岩屋は152m、第2岩屋は52mの長さであり案外短い。これが岩屋である。この洞窟こそが江島神社の発祥地になる。

江戸時代の奧津宮は、この岩屋にあった。和一は、この岩屋で21日間の断食修行し、針管法を着想した。岩屋は一年の半分くらいは洞内に水が入ってくるので、現在の奥津宮は山の上に移設されたものである。


4.江の島「岩屋」と杉山神社「岩屋」

上写真は、現代の岩屋。左下にあるのは岩屋までのびる高架通路。足が海水に浸かることなく洞窟見学ができるようになったのはよいが、「苦労して洞内に入りました」との達成感も失われてしまった。 

江戸時代の岩屋は、浮世絵の人気の題材で、多くの絵師が描いている。下は歌川国貞のもので、これを見たら一度は行きたくなるに違いない。

 

杉山和一は、江ノ島の岩屋で断食修行し、針管法を発明したので、宗像大社に厚い信仰をもってた。八十才を越え検校(盲人針医の最高位)にまで上りつめた後も、月に1度は江ノ島詣を欠かさなかった。両国から江の島まで直線距離でも60㎞はあって、当時の人は健脚だったにしても片道丸二日の行程だった。これを知った将軍綱吉はこれをねぎらい、両国の本所一つ目の地の江島神社内に江ノ島岩屋に似せた洞窟を造成し、参拝できるようにした。江戸庶民も、わざわざ江ノ島までお参りに出向く必要がなくなったといって歓迎し、江島杉山神社は大きな賑わいをみせた。
 
江島杉山神社については、以下の拙著ブログを参照のこと。本稿をもって杉山和一についてのブログ三部作が完成しました。これは杉山流三部書にあやかったネーミングになります。

江島杉山神社と弥勒寺参拝 ver.1.3

2024.4.18

三重県津市、偕楽公園内<杉山和一、生誕の碑>参拝

2022.11.1

6.べんてん丸

岩屋を参拝した後は、渡し舟「べんてん丸」に乗船すること約10分で、江の島弁天橋のたもとまで運んでくれる。ただし気象状況によって運休になることもある。昔私が行った時は、運休していた。やむなく行きと逆コースを徒歩で戻った。急坂に苦労した覚えがある。

 


江島杉山神社と弥勒寺参拝 ver.1.3

2024-02-18 | 人物像


 新年の令和4年1月2日、江島杉山神社と弥勒寺の見学に出かけた。新コロナ禍の中なので、今回は一人で出かけた。両国駅から徒歩10分ほどで隅田川が見た。水上バスが宇宙船のような形だ。それを過ぎるとマンション風の鉄筋建造物があり、出入り口がお寺のような形をしている。何かと思って近づくと「春日野部屋」と書かれていた。このあたりは両国国技館も近く相撲部屋が多いのだろう。

隅田川と水上バス

春日野部屋の正門

 

両国駅から歩くこと10分くらいで江島杉山神社に到着。近所の方々だと思うが、次から次へと参拝に来る人が多く、気合いを入れて合掌する人もいたのは驚きだった。着飾っている人もあまりないことから、日常的存在として逆に地元の方々の信仰に根付いていることが知れた。そもそも本来は江の島なのに、なぜ江島と命名したのか謎だったのだが、結局どちらでもよく意味が通じればよいらしい。

江島杉山神社の一の鳥居

本殿。左に見えるのは杉山和一記念館

 

1.杉山和一の管鍼法発明のきっかけ

和一は江戸時代、伊勢の津で生まれた(三重県の津市の偕楽公園には「杉山和一生誕の碑」がある)。幼い頃失明した和一は鍼で身を立てるため、江戸に出て山瀬琢一に入門した。しかし師から経絡経穴の教えを受けても記憶することができず、師はこれを怒って追放してしまった。悲観した和一は江戸自体信仰修行の場だった江ノ島の岩屋にこもり7日間の断食修行したが満願の日になっても収穫らしきものは得られず、悲観して帰路についた。その道中、石につまずいて倒れたが、足に刺さるものがあるのに気づき、手に取ってみると、それは 筒状になった椎の葉に松葉が包まったものだった。このような筒に鍼をいれて刺入すれば痛くなくさせるのではないかと考えたのが、今日主流の「管鍼術」であった(江戸時代の鍼は太かった)。
なお上記の鍼管法発明のきっかけとなったエピソードは、今日ではよく知られているものだが、”筒状になった椎の葉に松葉が包まったもの”が刺さるということは、少々できすぎた話ではないかとの疑問が残った。杉山流三部書の序を書いた今村亮(明治十三年)によると、「岩屋で断食修行中の夢うつつの状態の時に、鍼管と鍼を授かったということである」とだけ記載がある。

和一の著として非常に有名なものに「杉山流三部書」がある。どのような内容なのか読んでみると、意外なことにすでに知っている内容ばかりだった。このことは現行の鍼灸学校教育に内容が吸収されたことを示している。改めて杉山和一の影響力が大きかったことに気づく。

2.綱吉の褒美としての本所一つ目の土地を提供

杉山和一は時の将軍徳川綱吉(生類憐みの令で有名)の難病を治療・回復させた。綱吉から何か欲しい物はないかと問われ、和一は「この世で何もほしいものはありません。それでもと言うのなら、(盲目の私は)物を見ることのできる目を、と願うばかりです」と応じた。哀れに思った綱吉は、本所一ツ目に三千坪の土地を下賜し、和一は総録屋敷(盲人の職業自治組織)と針灸按摩講習所を設立した。なおこれは世界初の盲人教育の場だった。

和一は、ついに検校の位にまで上り詰めた。検校とは、鍼灸あんまを職業とする盲人の最高位で「けんぎょう」と読ませる。将軍とその家族の治療にあたる者をいう。ちなみに座頭市とは、座頭という低い身分のあんま師で、名前が”市”という意味である。市中を杖をもち笛を吹きつつ歩き、客をとって生活していた。

和一は八十を過ぎても月一度の江ノ島の岩屋の月参りを欠かさなかった。これでは身体がもたないと思った綱吉は、この敷地内に岩屋風の洞窟を造成し、江ノ島弁財天の御分霊をお祀りすることにした。これはすぐに「本所一ツ目弁天社」と呼ばれ名所になり、江戸庶民の信仰を集めた。和一が没したのは、八十五才の年だった。

 

3.江ノ島にある宗像(むなかた)神社

宗像神社とは海難事故の安全祈願の神様で、海辺にあるのが特徴。本家は宗像大社といい、福岡県にある。その支社は宗像神社で全国に数カ所あって江ノ島(江島ともよぶ)もその一つ。宗像神社は、3つで一組になっており、辺津宮(へつぐう)・中津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)とよぶ。津には”何々の”といった意味がある。三つの神社には辺津宮=田心姫神(たごりひめのかみ)、中津宮=湍津姫神(たぎつひめのかみ)、沖津宮=市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)が祀られている。
辺津宮の女神は美人であることも知られ、弁財天(通称弁天様)ともよばれる。弁財天は<水の神>そして<銭の神>とされている。水の神なので、境内にある池を渡ってお参りする。またそれを守るのは、狛犬ならぬ白蛇と決められている。

池には滝に見立てた水流れが注ぎ、その傍らには琵琶を弾区弁財天の石像がある。

辺津宮、中津宮、沖津宮だが、辺津宮は最も規模が大きく交通の便もよい。しかし沖津宮は小さく行き着くのが難しい。宗像大社の沖津宮は福岡県の北、玄界灘中央の小島にあり、中津宮からは海を隔てて沖津宮を眺めることができる。沖津宮は、現代にあっても女人禁制どころか一般人も立ち入りできない。神職のみ上陸時には海中での禊を行い、神事を司るが一木一草一石たりとも持ち出すことができない。神職は一ヶ月毎に交代で勤める。
 
江ノ宮の沖津宮は元は岩屋にあったというが、1年の半分は洞窟が海水に満ちて入れなくなるので、現在は島の高い処に移されているた。

琵琶を弾く弁財天。手前にあるのが銭洗い場

 

 

4.岩屋の中はどうなっているか

池にかかった小さな太鼓橋を渡ると、すぐに岩屋入口になる。内部に蛍光灯は光っているが少々薄暗い。5mほど歩くと杉山和一像があり、そこがT字路の分岐。右手すぐには
宗像三姉妹の女神を祀っているが暗くてよく見えない。左に曲がって3mほど行くと
大きな蛇像があり、その周りを陶器の小さく可愛い白蛇が何十体ととぐろを巻いていた。

杉山和一像

 

 

宗像三姉妹の像?

 

白蛇の石像

 


5.その他境内にあったもの

江島杉神社は、誕生した経緯が複雑なので、祀っている内容も、多彩で興味はつきない。

①本殿、②杉山和一のレリーフと点字の説明文、④力石(力自慢大会用)、⑤杉多稲荷神社の鳥居と石碑。綱吉が和一に贈った土地は、元は杉多神社だったというが、杉多神社は隅に追いやられた形になっている。
本殿左には近年、杉山和一記念館が設立された。1Fは杉山和一の資料館、2Fは杉山按治療所になっている。ただ正月中は休館ということで見学できず残念だった。

 

和一のレリーフと点字の説明文

杉多稲荷

6.2019年に発見された杉山和一の木像

2019年、和一木造座像が江島神社で見つかった。木像の存在は知られていたが、注目されてこなかった。このたびの調査で和一自らが作らせた唯一の像と判明した。木像は高さ約50cm。頭巾がないこともあって、これまでの和一像と比べて年は若く写実的で、等身大の人間として彫られている。

 

 

7.杉山和一の墓

杉山神社は「神社」であり、神を祀るところなので境内に墓はない。といよりも杉山和一は85歳で没したが、その当時そこは江島神社であって杉山神社ではなかった。明治二十年頃になって杉山和一の霊牌所が再興し、江島神社境内に杉山神社が誕生。昭和27年に合祀し江島杉山神社となった。

杉山和一の墓は、江ノ島にあるが、徒歩15分ほど離れた弥勒寺にもあるので、当日は弥勒寺も参拝した。外見はごく普通のお寺で、正月だというのに参拝する人は見あたらない。正門を入って、右側は墓地となっている。すぐ左側にはお目当ての「杉山和一の墓」と「はり供養塔」が並んでいた。両者とも質素なものだった。和一の墓前には、なぜかセイリンディスポ針のカラの包装が落ちていた。鍼灸学生が和一に見守られながら、この場所で刺針練習したとでもいうことだろうか?
はりというと、普通は裁縫用の針の供養のことをさすが、こちら鍼治療用としての鍼である。石碑の上から鍼柄がとび出ているかのような趣向ということは、縦長の石碑は鍼管を表現しているものではないか! 実によく考えられている。この石碑が鍼管法の創始者、杉山和一の墓にあることは憎いばかりの演出である。

 

弥勒寺

現在の杉山和一の墓。(あまり特徴がない。昭和以降に新たに造り替えたものだろう。墓石を墓誌は江戸時代のものか?)

江戸時代の和一の墓はこのようだった。この形は、江の島にある和一の墓石と同じタイプのようだ。

はり供養塔

昭和53年、東京都鍼灸按マッサージ指圧師会、社団法人東京都鍼灸師会など関連六団体により建立された。


9.回向院(追加分)

江島杉山神社と弥勒寺に行った道すがら、回向院にも立ち寄った。回向とは死者を供養するという意味がある。江戸時代に明暦の大火により10万人以上の人命が奪われた。回向院は、将軍家綱は、このような亡骸を弔うべく、万人塚という墳墓を設けた。これが無縁寺・回向院の始まり。交通の便が良い地だったので、江戸中期からは全国の有名寺社の秘仏秘像の開帳される寺院として、参詣する人々で賑わった。境内はさまざまなものが祀られているので、逆に宗教色はあまりない。昔から庶民のたまり場といった感覚で、庶民とともに歩んできた寺院ある。すぐ隣地には江戸時代に土俵が置かれていた場所というのが残っていて、回向院でも勧進相撲が行われていた。力塚と刻まれた大きな石碑が残っている。

 

一番人気は、大泥棒「鼠小僧次郎吉」の墓で、手を合わせる人が尽きることはない。やばい事をしても捕まることがないとされ、墓石を刻んで持ち去る者が非常に多かった。そこでお寺の対策であるが、”お持ち帰り用”として墓石の前に白い塩の塊ようなものが置いてある。これは勝手に削っても叱られることはない。

 

神社内には、水子塚もあって、多数のかざぐるまで囲まれている。このかざぐるま幼くして亡くなった子供を慰めるためにある。青森県の恐山にあるかざぐるまは、北風にビュービューと吹かれているのに対し、回向院のかざぐるまは、暖かいそよ風にゆっくりとクルクルと回っている感じで暖かい。

 

 

 


上天柱刺針と下玉枕刺針のねらい目の違い

2024-02-13 | 歯科症状

筆者は以前から上天柱刺針と下玉枕刺針の違いに注目していた。この度、筆者の推測を裏付ける症例を体験したので報告する。

1.上天柱

後頭骨の後下方の下項線には後頭下筋の一つである大後頭直筋の骨付着部がある。大後頭直筋へ刺針するには、C1-C2後正中から外方1.3寸に天柱穴をとり、その上方約1寸でC1-後頭骨間に上天柱(奇穴)から深刺する。上天柱から深刺直刺すると、僧帽筋→頭半棘筋→大後頭直筋と入ってゆく。大後頭直筋は、頭蓋骨-C1の屈曲伸展に関与し、頸椎に対する頭蓋骨のブレ防止の機能をもつ。したがって本筋の緊張では動揺性めまいや眼精疲労を生ずることがある。
 
なお天柱穴から直刺深刺する意味は分からなかった。これは天柱が無意味といのではなく、どこに天柱を取穴するかという解釈の違いによるものだろう。


 

2.下玉枕
 
後頭骨の後下部で下項線の上1~2寸上方には上項線があり、頭半棘筋が停止する。上項線から上には、筋はなく帽状腱膜となっている。上項線の直下には下玉枕取穴する。頭半棘筋は、Th3棘突起を起始として後頭骨上項点に停止する強大な筋で、下に向いてしまう顔面を引っぱり上げる役割があり、また頭蓋骨の重量を支持する役割もある。

下玉枕から直刺すると薄い頭半棘筋停止部に入り、その下に筋はなく骨があるのみ。したがって下天柱は深刺はできず、右玉枕からの刺針は、左玉枕方向に斜刺することになる。

 

3.顎関節症Ⅲb型と後頸緊張症状の症例報告(42才、男性)

5年ほど前から辛くてどうしようもなくなると当院に来院するようになった。現在、年に数回来院する。主訴はいつも同じで、左顎関節の動きが悪く後頸部痛があること。開口すると、左顎関節が詰まり、滑らかに動かないという。開口時のクリック音なし。左顎関節症Ⅲb型と判定した。

顎関節円板の慢性的な脱臼に対する針灸治療は、下関から聴宮方向に斜刺深刺し、外側翼突筋上頭の顎関節円板に付着するあたりを狙うのが私の治療パターンになる。寸6#2で実施すると反応が弱かったので2寸#8の針で刺し直した。10秒ほど置針すると、ちょうど悪い処に響いているとの訴えがえられた。5分間置針して抜針。
※下関から直刺深刺すると外側翼筋下頭刺激になり、Ⅰ型顎関節症による開口制限によく効く。

すると今度後頸部の頸板状筋あたりがつらいというので、下風池(C2棘突起下外方1.3寸)から直刺。ちなみに頭板状筋は、C1C2間の回旋機能を担当している。
その直後から、後頭下部がつらく感じると訴えた。そこで座位にして私の常套法である上天柱部深刺を行った。たいていの患者は、この治療で満足するのだが、本患者は面白いことに「そこが頸筋の最上部ですか?」と言った。私は「さらに上方にも筋があるから、そこに刺針しますか?」との質問に、「やってみて下さい」ということで、下玉枕から頭半棘筋停止に向けて刺入、直刺すると骨にぶつかるので、対側の下玉枕へと斜刺した。10秒ほど置針していると、「頸が次第にゆるんでいるのが分かる」と言った。結局この患者は、この針で満足したようだった。


4.症例を通じて学んだこと


以前から顎関節と頸椎には密接な関係があることを、整体やカイロプラクティック分野で指摘されてはいたが、内容が宣伝に偏り、エビデンスも不十分なので距離をおいていた。ただ本症例の治療を経験してみて、両者間に関連性のあることが理解できた。その理論的背景には次のものを発見した。

1)開口すると、C2に対してC1が前方に辷るとされ、顎関節症で円滑に開口できない場合、C1C2間の歪みは大きくなる。すなわち顎関節症は上部頸椎アラインメントを乱す方向に働くようだ。


2)頸椎と頭蓋骨の接合部を支点とすると、頭蓋骨の重心はやや前方にあるので、この状態では顔が下に垂れてしまう。後頭骨を下方に引っぱる筋があることで頭蓋骨の重量バランスが保たれる。  後頭骨を下方に引っぱる筋とは、後頭下筋および頭半棘筋である。上天柱は大後頭直筋の起始であり、下玉枕は頭半棘筋の起始である。

 


太極療法配穴の個人差(代田文誌著「鍼灸読本」より)ver.2.5

2024-02-10 | 灸療法

 数年前私は代田文誌著「十四経図解 鍼灸読本」春陽堂刊を入手した。初版は昭和15年で、昭和50年代に再版された。今日ではそれも絶版となった。

 集団的に施灸を初めたのは、昭和八年五月第二次自衛移民(500名)が満州に渡る時で、さらに昭和13年の茨城郡内原村にある満蒙開拓青少年義勇軍訓練所の開所から昭和20年まで、保険灸を施していた。義勇軍は満州に渡って後も引き続き保険灸をやることになっていた。富国強兵を国是としていた時代のこと、高価な医薬品を必要としないお灸で健康増進に役立てるなら、ということで国が保険灸普及の後押しをした。

その折、団員向けの小冊子を製作しようとのことで、昭和15年春陽堂から「鍼灸読本」を出版した。基礎的な内容なので本稿で特記すべき点はあまりないが、健康灸について興味深い内容を発見した。「健康灸」そして「保険灸」は外部向けの名称であり、事実上は太極治療そのものだ(澤田流とはいえないだろうが)。

いずれにせよ、戦争に負けて以後、この構想は頓挫し、戦後まもなく訓練所の建物も解体された。


1.3パターンの保険灸

茨城県内原村、義勇軍訓練所において、保険灸として以下の三種の規則をつくって灸をした。
下記経穴に、半米粒大灸5壮づつ実施。

1)健康「上」と認める者に、身柱・風門・大椎・曲池・足三里
2)健康「中」と認める者に、身柱・風門・大椎・四華・中脘・曲池・足三里
3)健康「下」と認める者に、身柱、風門、大椎・四華・肝兪・脾兪・腎兪・関元・天枢・曲池・足三里
 
註)四華:
四花ともいう。ヒモを首にかけ、鳩尾のところで両端を切る。このヒモの中央を喉頭隆起にかけ、その両端を背部にまわし、脊柱上でその先端に仮点(ア点)をつける。次に口を閉じて左右の口角の間を測り、脊柱上のア点にその中央部をあてて、その左右にイ、ウの2点、上下にエ、オの2点、計4点に施灸する。(本間祥白著「図解実用経穴学」より)膈兪と霊台および八椎下(筋縮と至陽の間でTh7棘突起下)の計四穴になる。潮熱・盗汗(肺結核時のような)、虚弱体質時に灸療する。

 

 

2.取穴理由

1)誰でも17~18才となると風門に灸した。これは風邪を予防し、同時に心臓の機能を整える目的。風邪は万病の始めであると古人は恐れていた。また同時に膏肓も併せて灸する。その意味はおそらく結核の予防と全身の活力を強めるためであったと思える。

2)24~25才ともなれば三陰交を加える。これは花柳病(=性病)の予防と生殖器を健康にならしめ婦人にあっては月経を整える爲であろう。

3)30~40才頃になると、足三里にすえる。これは胃を健康にし老衰を防ぎ、一切の疾病と予防し、その上長命を保つ方法とした。、
なお老いて視力の減弱を防ぐために足三里、併せて曲池へ施灸することもあった。

  

3.沢田流太極療法との相違点

「鍼灸読本」を出版したのは代田文誌40才の時だった。この年には「鍼灸治療基礎学」も出版し、翌年には「鍼灸真髄」も出版している。師匠の沢田健は文誌が38才の時に死去している。

「鍼灸治療基礎学」や「鍼灸真髄」は、沢田健の治療すなわち沢田流太極療法を大いに褒め讃えている。「鍼灸読本」にみる保険灸の取穴理論は、「三原気論」理論や五臓色体表を用いていないという点で本式の沢田流太極療法とは異なるが、沢田流基本穴に似た面があり、かつ一般人にとって考え方が分かりやすいものとなっている。


沢田流太極療法の説明

 http://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/90e2d4cb08485c0c8c12a8780dd7d6e6


※沢田流基本穴:百会穴、身柱穴、肝兪穴、脾兪穴、腎兪穴、次髎穴、澤田流京門(志室穴)、中脘穴、気海穴、曲池穴、左陽池、足三里穴、澤田流太谿(照海穴)、風池穴、天枢穴など。(時代により多少変化あり)

 

4.田中恭平氏の「健康長寿の灸」 と神田勝重氏の「保険灸」

内原村義勇軍訓練所で、代田文誌の同僚として次の2名の鍼灸師が、保険灸の配穴について記している。文誌を含めて計3名が同じテーマで記載しているが、それぞれ微妙に内容が異なっているのが興味深い。


1)田中恭平の「健康長寿の灸」
2018年6月22日、匿名氏から田中恭平『灸の医学的効果』309頁「健康長寿の灸」の内容紹介コメントを頂戴した。田中氏は、内原の満蒙開拓義勇軍の内原訓練所衛生課内の鍼灸部で代田文誌と一緒に働いていた。

① 身柱、風門、足三里の五点 ‥‥健康上の者
② 身柱、四華、三里の七点‥‥‥ 健康中の者
③ ②に腹部基本灸四点と左右の曲池を加へた十三点 ‥‥健康下の者 
④ ①に膈兪、肝兪、脾兪、腎兪、腹部基本灸の十二点を加へた都合十七点‥‥健康下の者 

(「腹部の基本灸といふのは、私・田中恭平自身で決めた基本灸でありますから、書物には基本灸などと云ふ文句はありません。腹部基本灸の穴は中脘、天枢、関元。)

2)神田勝重氏の「保健灸」
上述の匿名氏は、神田勝重『灸療要訣』(日本書房)115頁「保健灸」についての内容も紹介してくれている。神田氏は序文で、『灸療要訣』の内容の大部分は、私の師 代田文誌先生が後日『鍼灸治療要訣』として刊行される草稿の中より必要と思はれるものを寫させて頂いたものである」と記している。

①健康上と認めるもの‥‥身柱、風門、霊台、曲池、足三里
②健康中と認めるもの‥‥身柱、風門、四華、中脘、曲池、足三里
③健康下と認めるもの‥‥身柱、風門、四華、中脘、気海、腎兪、脾兪、次髎、左陽池、足三里、太谿


3)3者の比較

①健康度「上」

 

万病の元とされる<風邪>の予防のためだろう。上背部の灸を重視しているように見える。

②健康度「中」

 健康度「上」の風邪の予防に加え、肺結核の予防のためか、横隔膜あたりの刺激を重視しているようにみえる。

 

③健康度「下」

健康度「中」の肺結核予防に加えて、脾兪・腎兪など消化吸収力を高めることで、食物が人体に取り込むことで栄養になることを期待しているかのようだ。
興味深いのは、神田勝重氏の左陽池の灸である。左陽池は沢田流太極治療の伝統的治療穴の一つとして、沢田健先生は非常に重視していたのだが、代田文誌先生は、後に合理性に乏しいとして選穴しなくなった。陽池は三焦経の原穴であるが、沢田先生の独特の考え方として、三焦を重要視していた。その理由として三焦は生体における化学反応を連続的に起こす条件としての体温を一定に保つ内部環境があげられるという。陽池の左側を取穴するのは、人身の右を陰とし、左を陽とするという素問霊枢の説からきている。陽池は陽の池だから左をとるのが原則である。もちろん右の陽池を使っていけないというのではない。

沢田先生はほとんど書物を残さなかった方ではあるが三谷公器著「解体発蒙」を紹介する際の序文として、<三焦概論>という一文を残している。上焦を宗気、中焦を営気、下焦を衛気と関連づけて考察している内容となっている。


三谷公器著「解体発蒙」の三焦についての説明

https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/159cb2af0776c4083e2998a343973b28

 


5.集団施灸の効果

昭和50年4月15日。日鍼灸誌に堀越清三氏により「集団施灸の一例」として当時の将兵約800名に対する集団施灸(1週間~3ヶ月間)のデータを報告している。当時は軍機密として公表されなかった。安価で手軽にできる施灸治療の秘密を、敵国に知られるのを国家が嫌がったと思うと面白い。

原著論文

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsam1955/24/2/24_2_22/_pdf/-char/ja

一般兵、錬成兵、将校と下士官のグループ別で、それぞれその半数に施灸を行い、残り半数を施灸を行わない対照群とした。施灸前後に種々の体力測定を行い、施灸の効果の有無

を検討している。2回分析を行っていて、その結果は少々異なるが、おおむね次のようなった。(2回分析中、ともに有効なものを<有効>とし、1回のみ有効なものを<やや有効>と、2回ともに効果なかったものを<いまだ効果を見ざるもの>と分類してみた。

<有効と思われるもの>
体重増加、100m疾走の短縮、食欲増進、脚力、夜間排尿回数の減少

<やや有効>
睡眠、1000m疾走、懸垂、負担早駆、

<いまだ効果を見ざるもの>
患者発生状況
 

6.5人で協議してきめた保険灸の部位

奥野繁生からメールを頂戴した。保険灸の取穴について、当時の鍼灸師スタッフ5名が協議して「保険灸」の治療ポイントについて検討した結果が記されている文献を発見したとのこと。以下、奥野先生のメール内容。


『東邦医学』誌第6巻第7号(昭和14年6月、復刻版第四輯所収)を眺めていたら、代田文誌「鍼灸余話」という記事があり、そこに「青少年義勇軍の灸療」として、こう記されていました。

「茨城県内原の満蒙開拓青少年義勇軍に於て保健のためにその全員に灸をしてゐることに就ては前にも記したことがあるが、本年(昭和十四年)四月二日に、内原の青少年義勇軍訓練所に於て、同所長加藤完治先生を中心として、帝大医科の茂在教授、日大医科の齋藤教授と田中恭平氏と私との五人で協議した結果、左の様な灸を一般に行ふことに決定した。そのことを、茲に併せ記して大方の参考にしたいと思ふ。

一、健康甲と認める者に。身柱、風門、大椎、曲池、足三里。
二、健康乙と認める者に。身柱、風門、大椎、曲池、足三里、中脘
三、健康丙と認める者に。身柱、風門、大椎、曲池、足三里、中脘、関元、四華。

以上は、内原義勇軍訓練所の衛生部に於ける医師との協定の上にて一般的に施す灸治である。以上の灸点を選んだ理由については煩雑であるから今は記さぬが、これだけの灸にて青少年達の健康を維持し、その体格を向上せしめ、併せて結核其他の病気の予防に役立つであらうことは、確信して疑はぬ処である」

五人で協議した結果、だったのですね。(引用以上まで)

 

上記取穴を図示してみると以下のようになった。

 

先に挙げた3名の健康灸パターンに似てはいるが、微妙に異なっているものとなった。まあこれが正解という筋合いのものではないが‥‥
健康度「甲」と健康度「乙」とでは、中脘穴を加えるか否かという点のみが異なる。健康度「甲」健康度「乙」ともに上背部刺激は重視しているが、中背部や腰部を取穴していないのが特徴的である。