現代針灸治療

針灸師と鍼灸ファンの医師に、現代医学的知見に基づいた鍼灸治療の方法を説明する。
(背景写真は、国立市「大学通り」です)

鍼灸師の現状とAMT制度に対する私の意見

2021-01-26 | 雑件

1.鍼灸専門学校が急増した結果、学生・学校とも苦しくなった

近年の鍼灸師制度のエポックは、鍼灸師が国家資格になったことだろう。これにより肩書き的に資格価値が向上したのだが、就職口や収入が増えた訳ではない。福岡の裁判以降、鍼灸も柔整も専門学校は倍増し、入学しやすくはなったが有資格者は倍増した。受診患者が増えたわけではなく、有資格者が増えた分だけ、一人当たりの年収は低くなった。

大儲けしたのは、入学定員を増やした鍼灸や柔整の専門学校だけといえそうだが、ネットが普及した現在、国家試験をパスしただけでは儲けるのが難しいことが広く知られるようになり、入学希望者が減少してきた。学生が定員割れを起こして経営難になった学校も少なくない。


2.鍼灸学校卒後の新人鍼灸師の進路

通常は医療関係の学校を卒業すると、その専門を活かすべく病院勤務の正職員となり、規定の給与や待遇が補償され、簡単には解雇されることはない。しかし鍼灸も柔整も西洋医療システムの枠外に存在しているので、卒後の生き方が限られてくる。
 
詳細は差し控えるが柔整には収益モデルがあり、柔整師になれば儲かるという常識がこの半世紀続いてきた。一方鍼灸師は、保険取扱いをするために医師同意書が必要というネックがあることや、慰安的要素もあまりないこと、自費治療中心となることなどにより、少人数の患者に対して全力を傾けて治療するというスタイルになる。来院患者も多くないので儲かりにくい。ゆえに店舗も貧相なもので、院長一人でやっている零細鍼灸院が大部分である。仮に無給だったとしても、手間がかかるだけの鍼灸学校新卒者の卒後教育を行う余裕などとてもない。


3.鍼灸師の経済 

鍼灸師はどれほどの年収を得ているのだろうか。データ(2006年頃)によれば1年間における鍼灸医療の延べ受領3000-3500万人、1界の治療費を4000円とすると総合治療費は1200~1400億円と推定。就業鍼灸師は、約60,000~65,000人、施術所数は42,000カ所と推定。これらの数値から鍼灸師一人あたりの年収を算出すると230万円、施術所あたりの収益は330万円と推定される。国民医療費における鍼灸の総治療費の占める率をみると、国民医療費を35兆円としれば0.4~0.5%にしか過ぎない。

引用文献:藤井亮輔、坂井友実、佐々木健 他:就業者実体調査にみる鍼灸マッサージの 現状と課題(第2報)、医道の日本、2006


4.鍼灸師の努力は盛業鍼灸院を目指すこと以外にない

いくら鍼灸師側が、今の制度が悪いと叫んだとしても結局一人相撲に終わってしまう。社会を動かすには力不足ということ。それが分かっているから、鍼灸師の仲間同士が一つの目的に向けて一丸となって歩むことに意義を見いだせない。努力の方向は、ただ自分の治療院を盛業させることに向けられる。ただし開業しない鍼灸師の方が多い。ある調査では、開業しているのは有資格者の約3割で、柔整は約7割だった。当然のことだが開業しても成功する保証はないのである。

一方、鍼灸学校の新卒者の希望を聞くと、「まずは実力ある先生の見習いとして2~3年働き、実力を養成しつつ開業したい」という者が多い。大きな医療施設で勤務鍼灸師として安定した生活を送りたいという者もいる。これらは実にまともな要望である。が、このような希望が叶うことはめったにない。求人がないのだからやむを得ない。求人があるのは接骨院での無資格マッサージ要員ばかり。

 

5.山下九三夫医師によるAMT制度の提言

山下九三夫医師(故)が1981年(昭和56年)の時、医道の日本誌にAMT制度の構想について独自の提言をした。AMTとはAcupuncture and Moxibustion Therapist を略したもので鍼灸師のことである。単に日本語を英語表記にしたのは、PT、OT、STなどのパラメディカルと同列に位置づけ、病院内で活躍の場を広げたいからだと思われる。現在の医療制度の中に鍼灸を取り入れ、鍼灸師が病院で活躍できるようにするという目的を達成するため、鍼灸師教育体制の質の向上、医師の鍼灸に対する正確な評価、そして法改正が必要だという趣旨であった。
 この5年ほど前には、日本初となる明治鍼灸短大ができたことや日産玉川病院東洋医学科の創設が続き、鍼灸界にもついに新しい波がやってきたのかと、期待した鍼灸師も多かったと思う。
 
この山下九三夫の提言したAMT制度について、代田文彦先生に意見を聴いてみると、
「山下氏は周りから散々批判され辟易とした。ちょっと自分の想いを書いてみただけじゃないか」と逃げ腰になっていたという。ただしAMT制度は沈滞した鍼灸界を活性化させる重要な提言なので、日本東洋医学雑誌に再検討の記事が掲載されている。(末尾の引用文献参照)

 

6.AMT制度が誕生したらどうなるのか(夢物語として)

1)病院で鍼灸が行うようなれば、一挙に鍼灸師の活躍の場が広がり、鍼灸師の生活もPTやOTの待遇程度に落ち着くだろう。鍼灸学校教育でも病院鍼灸師を目標とした教育スタイルが確立するので、1日に1コマ(90分)を3コマないし4コマ程度の授業時間で、4年程度の就業年限となるだろう。より大きな変化は座学のみならず病院における実地教育も取り入れるられることである。教育カリキュラムにはPT、OTの例が参考になる。

2)病院システムの一貫として鍼灸が運営されるので、「鍼灸科」あるいは「東洋医学科」と標榜することが望ましい。初診は科長である医師が鍼灸治療の適否を判断し、治療そのものは鍼灸師に委任する。医師自ら漢方薬を処方するのもありである。チーム医療として定期的に症例検討会を行う。

3)病院鍼灸では、病院付近の開業針灸にとって経営的に驚異であるから、病院鍼灸は保険取扱はしないことにする。それだけでも開業鍼灸師の大半は患者減となってしまうので、救済の意味から開業針灸での保険取扱は簡素化する。

4)十年~二十年の後、鍼灸師は新規開業は禁止となるのと当時に、病院鍼灸では保険を使うことになる。すなわち現行のPTやOTと同じように、医師の間接的指示のもと、鍼灸師の判断で治療をは行うようになる。
救済措置として近隣の開業鍼灸師は、希望に応じて病院勤務できるよう特別教育を用意し病院鍼灸師の一定比率を近隣の開業鍼灸師枠として設ける。


   引用文献
○若山育郎、形井秀一 山口智 篠原昭二 山下仁小松秀人:病院医療における鍼灸
 -鍼灸師が病院で鍼灸を行うために- 日東医誌、Vol.65 No4(2014) 

○矢野忠:現代における日本鍼灸の存在意義、社会鍼灸学研究2010(通巻5号)


鍼灸科学派としての代田文誌(代田文誌の鍼灸姿勢その3)

2021-01-08 | 人物像

1.若き日の頃 
二十代後半~三十代後半の代田文誌は、沢田健の目覚ましい鍼灸治療効果を目前にし、鍼灸古典をしっかり学習する必要性を改めて自覚した。ただし盲目的に沢田健をカリスマとしてひれ伏すのではなく、同時期に、東大の解剖学教室へ通ったり、長野県の日赤病院の研究生となったりし、科学的な鍼灸とは何かを模索していたという事実がある。

2.沢田健死後の展開
沢田健が死去したのが1938年で文誌38才の時だった。文誌が長野市で開業したのが44才。終戦が45才、GHQの鍼灸禁止令が47才のこと。文誌にとって激動と変革の時期だったのだろう。
文誌は昭和18年10月、「鍼灸医学の新方向」と題し、次のような一文を発表した。新しく科学的針灸を志向しようとする堂々たる宣言といえよう。 

<あたらしき時代とは?>

 「あたらしき時代」とは何をいうか、科学的学文的な基礎の上に立つ科学的針灸の時代をいうのである。これに対して「ふるき時代」とは、前科学的な時代-ただ経験医学にのみ止まり、科学的理論の上に立たなかった時代を言うのである。(中略)ただ経験医学であるだけならよいが、支那古代の自然哲学をもとにし、易理を根底として組織されてある上に、極めて迷信的な分子も混入し、統一せる治療体系をもっていない。故に鍼灸を行う人々の間に理論の統一がなく、治療に対する考え方もまちまちで、雑然混然たる状態である。従って、その発展の可能性に乏しい。
 鍼灸基礎理論として十四經絡があった。これは古人が自然哲学的理論に経験を交ぜて組織したものであるらしいので、それはあくまで独断的な組織であって、実験医学を根底とした理論の上に立つものではないから、科学的検討の素材とはなり得ても、医学とは言い得ぬ。それ故、これの運用がいかによい成績をあらわしても、直ちに以ていかの新しき時代の鍼灸医学の根拠とすることはできない。今後新しく起こるべき鍼灸医学は、実験医学を根拠とした科学的なものでなければならない。(以上は、塩澤全司(山梨大学医学部名誉教授)「父 塩澤 芳一」でインターネットで見ることができる。)

3.「沢田流太極療法」を振り返っての見解

1)經絡論争

昭和22年、GHQは鍼灸禁止令を指示した。これ対抗したのが石川太刀雄で「鍼灸術ニ就イテ」をいう一文をGHQ提示し、昭和23年には鍼灸禁止令は解除された。この頃から、医道の日本誌面で2年間にわたり「經絡論争」が起こった。經絡否定派は代田文誌や米山博久らで、經絡肯定派は柳谷素霊、竹山晋一郎らであった。

2)竜野一雄(經絡肯定派)
への返答
その論争の中で、經絡肯定派の竜野一雄は太極療法の発展型として經絡治療が誕生したという旨を発表した(1951~1952年)。以下は竜野の文章である。
沢田健による太極療法は、統一原理が提唱され、兪募穴と五穴(井栄兪經合のことか?)の特性まで発達したが、經絡相互間の関係は陰陽の原理まで理解されるだけで、五行説までには発展しなかった。
太極療法に代わって、柳谷素霊氏らにより、經絡治療が名乗りをあげた。經絡という統一体の上に立ち、五行という法則概念によって相互間の関連をつかみ、三部九候の脈診を用い、五穴を以て主治として、これを本治法とし、これに対して局所的な対症療法を標治法とした。
竜野の文に対し、代田文誌は次のように回答し、沢田流太極療法を回想した(1952年)。
竜野氏の指摘される如く、太極療法は沢田健先生創設以来あまり発展していないのは、門下生の一人として恥るところである。太極療法は、全体関連性全機性にもとづき、病気を機能病理学的にみていく立場へと進んでいる。

3)沢田流太極療法は、科学的でない 
昭和32年、「鍼灸真髄」の「改訂版に際して」の文章中では、次のように沢田流を評価している。
この書に記されている沢田先生の説は、おおかた古典の説に基づくものであるが、同時に先生の独創的見解も極めて多い。その思考や表現は極めて素朴で簡単で、科学とはいえないが、経験を通して至心に追究し、(中略)科学の素材となる貴い資料を多く保有している。(中略)鍼灸の科学化はわれわれの常に念願するところである(中略)‥‥


4.真理を追究する人

代田文誌が熱心な仏教の信者だったことはよく知られているが、宗教と同じように、鍼灸にも真理を求めた。その「真理」に近いのは、沢田流などの古典的鍼灸よりも科学的針灸だと判断したのだろう。この考えを表明したのは戦後のことであるが、内に心に秘めていたのは鍼灸師になって、間もなく生まれたものであったらしい。それは沢田健の治療を見学しつつ古典の勉強をする一方で、同時期に解剖学教室や病院研究生となったりしていることで推定できる。戦後になり、代田文誌が科学派に<転向した>として批判するのは間違いである。

 


澤田流太極療法 (代田文誌の鍼灸姿勢その2 ) Ver.1.5

2021-01-08 | やや特殊な針灸技術

代田文誌が澤田健の治療院を見学したのは昭和2年のことで、澤田健50才、文誌27才の時だった。代田は神業的な治効を出す澤田健の姿をみて驚嘆し、鍼灸古道を学んでいく決意を新たにした。

その澤田流太極治療とは、どのような内容だろうか。筆者の手元には、通い弟子あった代田文誌著「沢田流聞書 鍼灸真髄」昭和16年発行と、内弟子であった山田国弼(くにすけ)著「鍼灸沢田流」昭和7年発行(昭和55年再版され現在再び絶版)の2冊がある。

前者は、まさしく治療見学で見聞きしたことが中心で、詳細で綿密なメモ風となっておりドキュメンタリーのようで面白いのだが、澤田流太極療法について、順序だてて書かれている訳ではないので、初心者にとってとっつきにくいと思えた。その点、山田先生の「鍼灸沢田流」は、治療現場とは一歩離れた立場から、教科書的に整理されているので、最初に読むべき書として適切だと思う。本稿では、山国弼著「鍼灸沢田流」(絶版)の内容のを整理しつつ、代田文誌の見解をまじ交え紹介する。

1.沢田健の治療風景

澤田先生は灸を主として針はその補いとして使うことの方が多かった。使用針は金鍼ばかりで、多くは4~5番だった。長さは2寸~2寸5分。最初の頃は管を使わず、すべて捻針だった。多くは直刺だが斜刺もあった。手技は雀啄または回旋が多く、単刺も随分あった。刺針は徐々だったが、抜針は右手で一気に抜き去るというもの。昭和2年に代田文誌が見学した時は、澤田先生は体を診て腹と腰だけに灸すえ、あとは背部も手足も灸ツボをとって墨をつけて、城一格氏(内弟子)へ回していた。朝9時から昼飯抜きで、夜8時頃まで、1日40~50人みていた。


2.太極療法の語源

 
「太極」とは元来「易」の用語で、万物の根源をさしている。ここから陰陽の二元が生ずる。太極療法とは澤田健の造語で、天地の究極原理に根ざした治療法という意味がある。これに反する治療を小極治療(≒対症治療)と呼び批判していた。

ただし澤田健自身は、自分の治療を「沢田流」と称せず、「普遍的な古典治療」とよんでいた。ただし古典とは異なる位置を経穴として用いることがあり、通常の取穴位置と区別する意味で、例えば澤田流合谷などといった表現をすることがあった。このことが澤田流とよばれる下地になっていたのかもしれない。「澤田流太極療法」というのも、おそらく弟子たちが考えた造語だろう。

 

3.診療の第一段階:三原気論から太極治療へ 

1)三原気論

古法の一つに「三原気論」というのがあるらしい。先天の原気系は腎、後天の原気系は脾、原気の別使系は三焦であると考えた理論で、今日ではあまり有名とはいえない。三焦は五臓六腑を正常に機能させるためのエネルギー源なので、これが五臓六腑を正常に作動させる条件となる。たとえば人間の深部温は37℃が正常だが、これより低くても高くても体調が悪くなる。三焦のエネルギーは、臍下丹田を潤し、十二経を潤すとする。

※稚拙ながらここで筆者独自の東洋医学観を述べるならば、三焦という蒸籠容器のに腎水を入れ、それを丹田の炎で熱することで水蒸気が生ずる。この水蒸気は後の世で蒸気機関にも利用されるように、非常に強い力が生ずる。この推動力は血を循環するエルギーでもあり、血を温めるエネルギーにも使われるということである。体温は丹田の炎(=命の炎)が熱源だが、丹田から生ずる熱が腎水を温め(=これを腎陽とよぶ)、熱い水蒸気となって蒸籠容器を温める。三焦とは、温まった蒸籠容器そのもののこと、あるいは生命活動する内部環境をさすと、筆者は考えている。その点、三原気論の立場には納得できないものがある。 

 


2)先天の原気の治療部位として、丹田と腎兪に施術

診療手順では、まず仰臥にて腹をみる。そして丹田(または気海)の虚実を診る。生命根本は先天の原気系をつかさどる腎が重要だからである。丹田に力が満ちてくれば、いかる病気も治るとする考え方がベースになっている。腎の治療により、患者個体の治癒力増進の心勢力に働きかける。次に伏臥位にした後、腎兪(ときに腎の募穴である沢田流京門≒志室)を施術する。

※「腎間の動悸(=腹腔動脈の拍動)は人の生命、十二経脈の根なり」という


3)原気の別使系は三焦であることにより、陽池に施術


難經の六十六難には次のような記載がある「原穴の部位は、三焦の気が運行して出たり入たり留止する場所でもある。故に五臓六腑に病があれば、所属する経脈の原穴を選穴すきである」。これを論拠とし治療穴として三焦経原穴である陽池を使う。人身の右を陰となし左を陽となるとの古典の説より、左陽池に施術する。

丹田は、体温の発生源であり、体温によって三焦は温められ、胸腹腔内臓は、本来の理機能の営みが可能となる。  


4)続いて後天の原気系である脾をみる。代表穴中脘


腹部診察では、上腹部より下腹部を重要視するのだが、下腹部に問題が少ない場合や、よしとした場合は、上腹部とくに中脘を施術。なお必要ならば水分や気海や大巨や滑肉門を使う。その狙いは栄養代謝の改善にある。 

 


4.第2段階:五臓六腑の調節

三原気論による施術は、匙加減するとはいえ、どの患者に対しても同じようなターン取穴をする。しかし第2段階になると個別治療の理論が必要である。 

患者ごとの個別治療の基本理念は、五臓六腑を調整することにあるが、患者の訴えや外見を五臓色体表に照合することで、いずれの臓腑に根本の問題があるかを決め、治療方針とした。

一例として肝の体質者を示せば「顔色青く、眼に異様な光があって、怒りっぽい性質で酸っぱい味を好み、病季は春に配す。すなわちヒステリーや怒発性の神経疾患(逆上)春に萌しがち」といったことが裏書きされる。


その治療は、背部においては膀胱經の背部兪穴を、胸腹部においては募穴を選穴し、補的に手足の原穴を治療点として重視した(ときに五行穴中の兪穴・合穴を施術した)。三焦の病変で、と全身性急性病変など急激な病状の悪化に対処するためには、人の発生的見地から、臍傍の八穴(気海、大巨、天枢、滑肉門、水分)を以て、外邪と生命力の極の闘争の場としてこの部の治療を重視した。 

ところで、この第2段階の思考は、患者側の症状所見を五臓色体表に当てはめるという作業中、治療者の解釈や判断が出てくる。杓子定規に五臓色体表に当てはめるため、本来意味のすくないことも過大評価し、重要なことを無視するということにもなるだろう。このあたりの直感に基づく判断が、他の術者にはできないレベルにあったのだろうと思われた。この作業を形だけマネしても澤田健のような臨床能力は発揮できないに違いない。このことが澤田流太極療法の普及の妨げになっているといえよう。

 

澤田健「十二原之表」解説 2013.8.22

https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/159cb2af0776c4083e2998a343973b28

 

6.沢田流になかったもの

澤田健は五臓色体表を座右に置き、診療の指針とした。基本の治療穴は、障害のある五臓の兪募穴と原穴であり、難經六十六難(五臓六腑に病あれば、所属する経脈の原穴を選穴する)を中心に考えていて、經絡治療のように一つの害ある臓腑にひきづられる形で関連する他臓腑も悪くなるといった波及作用は考慮しなった。


經絡治療が誕生したのは澤田の没後で、経絡治療派は相生相剋関係を治療に織り込んだ。逆にいうなら、澤田健は経絡治療派の影響をまったく受けていない。すなわち難經六十九難(虚すればその母を補い、実すればその子を瀉するべし)や難經七十五難(肝実虚に補水瀉火法を応用する原理)は治療に利用しなかった。經絡治療は澤田の治療式の発展型として捉える見方もあれば、型にはまって硬直したという見方もできると思う。脈診にしても、沢田の脈診も遅速虚実程度であって、三部九候の脈は治療に取り入れなかった。(代田文誌も、代田文彦も脈診は行わなかった)

 
沢田健の太極治療(沢田のいう「古典に基づく治療」)を文字として説明すると、その理論は、いわゆる經絡治療派の治療理論に比べれば単純だといえよう。しかしながら実際の治療効果を出すという点で、澤田健はやはり名人であった。「生ける体を読んで治療するという識に基づき、長年の経験によって自得された特別な能力があった」と代田文誌は記してる。

おそらく幼少から鍛錬した武術や柔術の修業も、その能力形成に関係していたことだろうが、こうした能力は天才一代のみ可能であって、代々伝えるということは不可能なことである。このことが沢田流が現在さほど普及していない理由といえるかもしれない。代田文誌著「鍼灸治療基礎学」の序には「我が沢田流の如きは、教えても解らぬ。心眼で感得し得る者にのみ理解できる」と沢田健が話したという旨が書かれている。

 

7.沢田流基本穴について

沢田流太極療法をしようと思っても、知識不足・技術不足の者がいる。沢田流太極治療を行っていると、自ずとよく使うツボと、そう使わないツボが出てくるので、使う頻度の高いツボをリストアップすることはできる。こうした観点から、沢田流基本穴が選ばれた。

基本穴は、百会穴、身柱穴、肝兪穴、脾兪穴、腎兪穴、次髎穴、澤田流京門(志室穴)、中脘穴、気海穴、曲池穴、左陽池、足三里穴、澤田流太谿(照海穴)、風池穴、天枢穴などである。 (時代により多少変化あり)

どのような患者が来院しても、このようなツボに灸治を行えば、「当たらずといえども遠からず」の治療ができるというものだが、本来の沢田流太極治療と異なる。沢田流太極療法とは、どのような患者が来ようと、沢田流基本穴に施術する、との安直な考え方が一人歩きしてしまった。代田文彦先生は、それを嘆き、たとえ一穴治療であっても、太極治療といえる場合がある(例:小児疳の虫に対する身柱の灸)と語っていた。

ブログ「戦時下における集団施灸の効果」
施術者による太極治療基本施灸点の相違について記されています。

https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/572d8ed33eff104ad4e3580011444a18

 

9.お宝写真

十年前位に、代田泰彦先生(文彦先生の実弟)から、沢田健が代田文誌に贈ったという<五臓色体の図>を拝見させていただいた。縦20㎝、横100㎝くらいの巻物のようなものだった。紙は茶色く変色し、年代を感じさせるものだが、パソコンで白っぽく色調を変化させた。余りに長いので、3回に分けてスキャンした。(本稿ではパソコン操作で2分割した)て残すことにした。紙は黄色く代田文誌先生から代田文彦先生が譲り受けたのだが、文彦先生も亡くなったので、泰彦先生が保管していた。五臓色体表と五行穴のほかに、ここでも難經六十六難のことが記されている。

 

 

 ※中国の柴暁明医師が、本記事を中国語に翻訳して下さいました。

柴暁明医師曰く、
中国では、鍼灸医、と灸道ファンの間に沢田流はよく知られています。これは承淡安さんのお陰です。承さんは1957年「鍼灸真髄」を中国語に翻訳したのです。
 
 
泽田流太极疗法 -上篇

https://mp.weixin.qq.com/s?__biz=MzU0Nzg5MjkzNQ==&mid=100000163&idx=1&sn=3eb291ca92ee5d1cc32b20201863c31f&chksm=7b463a0b4c31b31d6cf4049e9feb605a8bc2684b93823d8059e0b16aef999bf4de791579aa1f#rd

泽田流太极疗法-下篇

 https://mp.weixin.qq.com/s?__biz=MzU0Nzg5MjkzNQ==&mid=100000168&idx=1&sn=47f8edee92149f889bab37414d05a60f&chksm=7b463a004c31b31699424452ca73b19fbb80cc6f3fdf0a9c720562b11700ced83d8c140c9be8#rd

 

https://www.douban.com/group/topic/123779089/


眼精疲労の鑑別と鍼灸治療 ver.1.2

2021-01-08 | 眼科症状

1.眼精疲労の鑑別
 
最もみられる眼科的訴えは眼精疲労であろう。本当に眼精疲労であるなら、眼を休めれば回復するが、休養しても治らない場合、器質的疾患を疑う。
 本当に単なる眼精疲労か?
 
①眼痛(+)→緑内障

②見えづらい:眼がかすむ

白内障(糖尿病性白内障の可能性)
ぶどう膜炎(サルコイドーシスの可能性) 
眼底出血(糖尿病性網膜症、高血圧症の可能性)
像が歪む、像の一部欠損→中心性網膜炎、網膜剥離 
チラつく→生理的飛蚊症(網膜剥離、ぶどう膜炎の可能性)

③目の乾燥感→ドライアイ(シェーングレン症候群の可能性)
上記を否定できれば、機能性眼精疲労、仮性近視、心身症を疑う。

※全身疾患の部分症状として眼症状を訴える疾患はつぎの通り。
ベーチェット病、サルコイドーシス、シェーングレン症候群


2.眼精疲労に対する鍼灸治療の考え方

1)後頭下筋のコリの治療→上天柱
 
後頭下筋は、頭蓋骨のブレがあっても視点のブレがないようにする役割がある。現在のデジタルビデオカメラには手ぶれ防止装置がついているのが普通になった。これにより、歩きながらで、あまりブレのないムービーをとるのができるようになったわけである。これと同じ意味の機構が後頭下筋になる。
平成31年2月13日放映
NHKテレビ放送「ためしてガッテン!」では頚のコリと後頭下筋の関連について放送していた。横から卓球のラリーを見る観客は、玉を追うために眼球が左右に動くことになる。その際、無意識に顔面も左右に小さく動いていることが観察された。この顔の動きは後頭下筋の緊張によるものだそうである。
後頭下筋疲労の改善には、上天柱から深刺し、鍼先を後頭下筋まで入れて置針する。

2)大後頭三叉神経症候群としての治療→天柱、頭皮上圧痛点刺針

大後頭神経の興奮は三叉神経をも興奮する。眼の知覚は三叉神経第1枝であり、大後頭神経の鎮静目的に、天柱深刺置針を行う。
百会の手前2/3の頭皮知覚は主に三叉神経第1枝支配、百会の後方1/3の頭皮知覚は主に大後頭神経支配である。頭皮上の圧痛点に斜刺し、10分間程度の置針をする方法も広く行われている。

※三叉神経第1枝は知覚性で、上眼窩裂から眼窩内に入り、鼻腔・角膜・結膜・ 毛様体・虹彩の知覚をつかさどった後、前頭神経として額~頭頂部皮膚知覚をつかさどる。なお私は、眼精疲労の原因をズバリ一言でいうなら、三叉神経第 1枝神経痛のバリエーションだと考えている。

3)  天柱刺針は交感神経を緊張させ眼精疲労を改善させているのか?

本来、人間は近くを見ているとき、意外にもリラックス状態にある。というのは、原始時代、人間は仕事として獲物を狩り、そして狩ってきた食料を住居で食べて生活するという形をとってきた。そのため遠くにいる獲物を探したり、狩るときは交感神経が優位になり、家の中で家族と食事をしている時は副交感神経が優位になることが正常な自律神経サイクルだったのだろう。
     
ところで眼精疲労患者に対して、伏臥位や座位で天柱手技針をすると、「施後に頭や首がすっきりし、眼の疲れがとれ、外界が明るく見える」といった反応が得られることが多い。天柱深刺は比較的強刺激になっていると思うのだが、このような刺激で眼精疲労が改善するというのであれば、交感神経緊張→網様体筋弛緩という機序が働いたのかもしれない。日本人は、真剣に物事に取り組もうとする時、ハチマキ巻く習慣があり、これも緊張度を高める一つの方法として認知されている。すなわち、眼精疲労改善は、頭~項頸部を交感神経緊張状態に誘導することで改善できるのではないか? 
      
4)側頭筋刺激→頭維から客主人に向けて水平刺

中世の医学では、血液のよどみが病気の原因であると考えられたため、血管を切開した。頭痛ではコメカミの血管から血を出し、頭痛の軽減を図ろうする方向へ発展した。コメカミから血を出す方法は、小刀や矢先を用いた。

顔面で顔面表情筋は顔面神経支配だが、咀嚼筋は三叉神経(第3枝)支配である。咀嚼筋というのはストレス筋の一つであり、側頭筋は最大の咀嚼筋であるから、ストレス状態で緊張を生ずる。側頭筋部は、三叉神経節興奮時に反応が現れると思われ、側頭筋のコリを緩めることがストレス改善、そして眼精疲労の改善に役立つと予想する。

ストレス筋というのは、ストレス状態にある時、働く筋をいう。たとえば動物が敵と遭遇した場合、戦うか逃げるかしなければならい。噛みつき攻撃は動物にあっては戦う手段として当たり前のことであり、側頭筋の緊張が関係することが知れる。


5)リラクセーションを目的とした治療

眼精疲労が眼周囲の筋の疲労の結果起こるという見解は、疑問視されている。たとえば眼瞼痙攣の者は必ずしも眼精疲労を訴えない。心身症者の眼精疲労は、眼に問題があるのではなく、大脳の情報処理能力の疲労だとする意見がある。要するに脳の疲労であるから、リラクセーション目的の施術が有効になる。
 

 


眼窩内刺針が刺激対象とするもの ver.2.2

2021-01-08 | 眼科症状

筆者は加藤雅和先生(米沢市で鍼灸院開業)に誘われ、最近、MPS(Myofascial Pain Syndrome 筋膜性疼痛症候群)研究会に入会した。そこで小山曲泉の掃骨針法の存在を知った。小山曲泉の眼窩内刺針を追試してみると具合が良いようなので、第2版としてこの内容を付け加えた。

1.はじめに
眼科疾患に対する治療で、古くから上下の眼窩内刺針という技法が存在している。この刺針は、治療効果を論ずる以前の問題として、眼球を傷つける懸念、皮下出血しやすい部であること(軽い場合は瞼に皮下出血斑をつくる。ときには瞼が腫れあがる)、施術に対する患者の恐怖感があることなどから、施術するのに躊躇する部位となっている。

実際に臨床に用いるかという問題はさておき、理論的にどういう意味があるのかを整理してみたい。

2.上眼窩内刺針 

1)魚腰(奇穴)

位置:眉毛中央。正視するとき瞳孔の直上。
刺針:内方に横刺する。
解説:三叉神経第1枝の分枝である眼窩上神経刺激になる。正中から外方2.5㎝外方の眉毛上に眼窩上神経ブロック点がある。
 
2)上眼窩内刺針 
位置:眼球と上眼窩の間隙。具体的には瞳孔線上、瞳孔線の内眼角寄り、瞳孔線の外眼角寄りの3つの方法がある。
刺針:閉眼させ、細針にて静かに直刺。1~2㎝刺入。置針。
解説:深刺すると上眼窩裂内に刺入できる。

①上眼窩裂刺

睛明の上からの眼窩内に非常に深刺すると、上眼窩裂刺針になる。上眼窩裂とは、眼窩底の内方にある穴で、ここから三叉神経第1枝、動眼・滑車・外転神経、眼静脈も出る。
※郡山七二は、眼窩内刺針には、鎮静作用もあると記し、鎮静法として内眼角付近からの眼窩刺針を第一に推薦している。(郡山七二「現代針灸治法録」天平出版)

②上眼瞼挙筋刺

※上眼瞼挙筋(動眼神経支配)は、上眼瞼を挙上させる働きがある。本筋は眼瞼腱膜を介して眼瞼板につながっている。上眼瞼挙筋の腱膜が剥離すると、後天性腱膜性眼瞼下垂になるが、一説によれば老化などで眼瞼挙筋が伸びて弛んだ状態になっても眼瞼下垂となるとされる。この場合、上眼窩内刺針をする意義がある。もっとも専門家は、眼瞼挙筋に対する刺針や、その拮抗筋である眼輪筋に対する刺激は無効だと判断しているようだ。

③涙腺刺激
外眼角と眉の間部の眼窩内に涙腺がある。外側からの上眼窩内刺では、涙腺を刺激できる。
※ドライアイは、涙腺分泌減少によるものではなく、マイボーム腺からの脂分泌が減少すため、眼球表面に分布した涙の蒸発量が増加するためだとされる。涙腺直接刺激はあまり価値がない。


3.下眼窩内刺針 


1)毛様体神経節刺針


歴史と意義:毛様体神経節刺針法は1979年、中村辰三氏が発表した。毛様体神経節は副交感神経性の神経節(眼の栄養、分泌、疲労回復などの機能)であることから、この部への刺針を試みる価値があると推測した。実際に試みると、針治療により急速に視力が改善するという。針治療が眼底出血に有効である症例があったとの治験も得たという。

刺針技法:眼耳水平面(眼窩下縁の最低点と耳孔最上部を結ぶ面)から、上向き角度約30度、正中面に対する内向き角度約30度で、眼窩下縁と外側縁の交点から、眼球の後方に向けて約3.5㎝内側上方へ刺入。1号針を用いた10分間置針。軽く雀啄後に抜針。


 

2)球後刺針

位置:外眼角と内眼角との間の、外方から1/4 の垂直線上で「承泣」の高さ。

刺針:眼窩内に直刺、その後針尖を上内方に少し向け、視神経孔方向に刺入。患者は眼球が熱く腫れる感じを覚える。針の刺入時の注意は睛明の刺針と同様。
解説:球後とは、眼球の後という意味がある。中国では内眼病の治療穴として用いられる。眼の周囲に中国鍼を何本も刺すのだから内出血になるが、治療者はそのことにあまりこだわらない。治すためのやむを得ない副作用だと思っているらしい。まあ、現代眼科治療で処置なしの病態でも本当に治るのであれば文句のつけようがないことである。

深刺すると下眼窩裂に入ると思うが、下眼窩裂が眼窩下神経(三叉神経第2枝の分枝)が通る部であって、臨床上は眼窩下孔(=四白)刺激と同等の価値があると思う。したがって、三叉神経第2枝の興奮時に使えるであろう。 

 

前記の毛様体神経節刺針は未知な点があるほか、技術的難易度も高い。毛様体神経節刺針の代用として従来からは球後刺針が行われてきたと思う。球後刺針の狙いは、下眼窩裂に刺入するのではなく、眼球後にある長・短毛様体神経や鼻毛様体神経であろう。わさびを食べると、鼻にツーンときて、涙が出るのは、これらの神経興奮による。

 

4.小山曲泉の上眼窩内刺と下眼窩内刺

小山曲泉(1912-1994)は、掃骨針法を創案者として知られている。その理論は今日の医学観点からは納得のいかない部分はあるが、実践面では「骨にぶつけるように深刺することがよい治療効果を生む」と指摘した。

眼精疲労に対しては、これを軽い眼窩神経痛としてとらえるべきだとする。眼痛を訴える患者に対して、眼球自体を指圧するのと、眼窩内に指を折り曲げて按圧するの とでは、どちらが快痛であるかを術者が問うと、文句なしに骨を圧重した法が気持ちよいと言うと指摘し、3番~5番で圧痛方向に刺針して軽く雀啄すようにする、必ず快痛の響きがあるということである。
  
筆者は眼の疲れを訴える患者の何例かに本法を追試してみた。これまで筆者が眼窩内刺針を行う場合、これまでは押手を弱く構えていたこともあって、圧痛の有無を調べていなかった。閉眼させ、眼窩内に指を折り曲げて按圧してみると、患者に聴くまでもなく、術者の指先に圧痛硬結を感じとれる共通ポイントのあることを発見した。それは睛明のやや上方と、承泣の2点だった。
  
これらを刺入部位とし、指頭で探し当てた圧痛硬結に向けて刺入すると、しっかりと硬い筋中に刺入できているといった手応えがあった。針灸師にとって、硬い筋中に刺入できている手応えというのは非常に重要で、これまでの眼窩の骨にも、眼球にも当てないように刺入するような針では、効いているのか効いていないのかの感触がつかめないのであった。

この硬い筋といいのは場所的に、外眼筋や眼瞼挙筋のだと思えた。眼窩内の骨にぶつかるまでこのシコリに向けて4番針で約2㎝刺入して5分間置針してみた。患者は眼球部に重い感じがしたという。さらに閉眼したまま、上下左右の眼球運動を数回指示した。 (眼球運動の際は、何も刺激感がなかったという)。施術後は、眼のスッキリ感があったとのこと。

眼精疲労には、眼の奥がつらいという者と、目頭がつらいという者に大別できる。前者には天柱深刺を、後者には小山曲泉流を、と使い分けをすればよいのではないかと思った。  

※このテーマでブログを発表したところ、掃骨鍼法の存在を知らしめた<小橋正枝先生からご返事を頂戴し、以下のような詳しい手技を披露していただいたので紹介する。

ご本人に鍼管を持って頂き、最も納得の行くポイントを検出して頂くこともあります。その位置から直近の骨壁に先ず当ててから、骨に添わせて刺入します。石灰沈着など必要が有れば、雀啄も致します。