代田文誌先生(以下敬称略)の年譜を調べていると、これまでほとんど知られていない事実が分かったので、ここに紹介する。(平成25年3月24日)。
追伸:代田泰彦先生から、東城邱著「耕雲紀行の背景」(耕雲紀行 和合恒男遺稿刊行会編)という資料コピーを頂戴した。代田文誌先生と和合恒男の関係が記録されているので、部分的改訂版として加筆することにした。(平成25年5月19日)
1.代田文誌が針灸に目覚めるきっかけ
1)著書「療病神髄」
代田文彦先生(故)の奥様、瑛子先生から文彦先生のお父様である代田文誌先生(以下敬称略)著による「療病神髄」(絶版)という本を頂戴した。この著作は、昭和9年20才の時、文誌が喀血して以来、27、8才頃までの療病中の随筆集である。序文には人生の問題で悩みつつ、病みつつも人生を生かす道を発見した。(中略)神のこころを知り得たのである‥‥と書かれている。代田文誌は、法華経の信者となった。医師は、治せない患者を放置する。しかし病は治らなくても幸せになる方法があることを発見した、との記載がある。
2)代田安吉(父)の精神異常と按摩
本書の中で「体と体が触れあうことが精神と精神の触れ合う始めとなる」との記載後、「(大正14年頃)私の父の発狂の看病をした時、何としても父の病を治そうと苦心し、朝夕ねてもさめてこれをのみ思い念じる‥‥1日4時間位按むことは珍しくなかった」とくだりを見つけ、非常に驚いた。お父様が発狂したとは、どういう意味だろうか。さっそく代田文彦先生の弟の代田泰彦先生にメールで質問してみた。以下は、泰彦先生の返事である。
「父の追憶」(昭和6年2月下旬)と題した文誌の手書きの文書が残っている。これによると代田安吉(父)は大変元気であったが、「大正14年の春、製糸工場統一問題で考えすぎた結果、発狂してからはずっと体が弱くなりました。発狂してから7ヶ月ばかり床についていましたが、ある朝忽然として夢の覚めたように良くなり、再び元の父上にかえり‥‥」と元気になったらしい。この期間は、おそらく鬱病を発していたと推測される(ある時突然良くなるというのは鬱病の特徴で、むかし話「三年寝太郎」状態)、と書かれていた。発狂したと書いているが、大正14年頃の文誌の医学知識は未熟なものであっただろうから、その後の昭和6年に回顧して鬱病だったと訂正したのだろう。泰彦先生自身は、強迫神経症だったのではないかと思っているらしい。
3)代田文誌の針灸への契機
「父の追憶」の文書は続く。「お父様の精神異常を治すため、飯田病院の神経科に連れて行ったり、岡崎にある寺に<狂>を治す名灸があると聞いて兄弟3人で岡崎に行ったりしているが、一番多くの努力を費やしたのは、文誌が自らが按摩をしたことで。この按摩というのは「飯田の古本屋で“handbook of massage” というオックスフォード大学から出版された英語の本を買ってきて、辞書と首っ引きでこれを読み按摩の原理を知った」と書いてある。また「和漢三才図會の経絡の部の発狂に効くというツボに灸をすえたりし、これが後に鍼灸治療に携わる契機になっている」と書いている。(安吉は昭和2年に奥様の<やすえ>に先立たれた後、次第に元気がなくなり、認知症も進行。昭和5年に老衰で死去した)
2.沢田健先生の治療見学していた頃と沢田健先生の死後
「鍼灸真髄」によれば、代田文誌が沢田健先生の治療を見学したのは、昭和2年6月10日から昭和4年12月16日までの5回(実質50日間程度。だたし正確な日数は記載がない)で、その後も、昭和5年、9年、10年、11年、12年に各1日ずつ見学した。
では見学日以外には、何をしていたのだろうか。年譜をみると昭和6年から3年間、長野県日赤病院の研究生となっていたことを知るが、それ以外にも和合恒男(詳細後述)とともに、現在の安曇野市に瑞穂精舎(みずほしょうじゃ)を設立し、その指導員となった。
なお昭和12年(37才)に、この時の生徒の一人で、「やゑ」という女性と結婚した。
昭和13年、沢田健は病死。文誌の生活は下に述べるように瑞穂精舎設立と運営の協力者という立場であったが、茨城県の内原訓練所における施灸指導の要望の声もあがった。ただしこの当時、代田文誌は非常に多忙で、実際に内原訓練所に出向いたのは数回程度であった。
1)瑞穂精舎時代
昭和の初期、長野市に和合恒男という人がいた。郷土の士として「人を相手にせず、天を相手とする」百姓生活を通して、心と体を磨きあげようとする求道者であり、東大卒業後、その実践の場として昭和3年に現在の松本市に財団法人、瑞穂精舎を設立した。その協力者となったのが代田文誌だった。瑞穂精舎との命名は、法華経の精神を生かし、瑞穂の国の理想を実現するための精神の道場という意味。
朝五時に起床、午前中は授業、昼から夕までは農業実習、午後9時就寝という厳しいものだったが、家庭的な温かさがあったという。
この瑞穂精舎は修業の一環として行脚(あんぎゃ 仏法を広めるため徒歩で各地を巡る)が実施された。とくに満朝(満州と朝鮮)行脚は修業の総仕上げとしての重大な意味があった。
この時期、政府は満州や蒙古に3万人の開拓農民を送る計画をたてた。その移民準備のため、3~6ヶ月程度の訓練施設(後に2ヶ月間に短縮)として、満蒙開拓少年義勇軍訓練所として15才~19才の青少年が集う施設を全国各地につくった。瑞穂精舎の人員も、指導者として満蒙開拓少年義勇軍訓練所に送られた。
※和合恒男は昭和10年、農本政治をかかげ積極的に政治活動を行い、長野県会議員に当選。しかし当選直後から肺結核を発病。昭和16年、40才にて死去。
2)満蒙開拓少年義勇軍内原訓練所時代
代田文誌は、昭和13年(38才)より瑞穂精舎の流れで茨城県にある満蒙開拓少年義勇軍内原訓練所にて灸療所と開拓医学指導の手伝いをした。ただし代田文誌は多忙のため顧問という立場(他に顧問は田中恭平氏)となり、齋藤誠一という青年鍼灸師が訓練生に灸することになった。施灸部位は、左右足三里・大椎・左右風門の計6カ所。義勇軍に参加する者全員に2ヶ月間、毎日の日課施灸し続けたというから、さぞかし多忙なことだっただろう。灸治専用の建物として、兵舎内に一棟「一気寮」が建てられたことは、灸治が健康増進に役立つことを当時の政府が認識した現れであり、この集団施灸が、国家プロジェクトの一貫だったことが理解される。
この「一気寮」については、山下仁氏の調査報告が発表され、詳細な内容が明らかになった。内原訓練所内には茨城県内で2番目に大きな病院(常勤医師12名,職員合計86名)もあった。灸を希望する者は当初は少なかったが次第に増加し、患者の自由選択にしたところ、その2/3は一気寮に集まったとのことだった。このような情況となったことで病院からは怨まれるくらいだったと代田文誌が記している。
山下仁:満蒙開拓少年義勇軍内原訓練所の灸療所「一気寮」に関する報告、日本東洋医学雑誌、Vol.71 No.3 251-261,2020
日本内地で訓練された農民は、満州や蒙古に渡り、農業開拓に従事した。代田文誌も、内原訓練所から満州に向かう1200名の青少年義勇軍の出発を見送った機会があることを記している(「満蒙開拓青少年義勇軍と其灸」漢方と漢薬、第5巻第8号、昭和13年7月1日)。全員皆国防服に身を固め、戦闘帽をかぶり、リュックサックを背負い、手に手に鍬の柄を握りしめて整列し‥‥という記載がみられる。
大いなる希望および苦難を覚悟した彼らであったが、昭和20年の日本敗戦で、ソ連軍が満州に急に侵攻したため、逃避行せざるを得なかった。逃げ切れず捕虜になったり殺された者も多数いた(このあたりの話は、山崎豊子著「大地の子」が有名)。
代田文誌には兄弟がいたが、次男夫婦も満州に渡った。終戦をきっかけとして、他の者同様に非常な苦労をしたらしい。文誌にとっては生涯この問題は痛恨の出来事だったに違いない。代田文誌の幾冊もの著書の後に載せられた略歴には、満蒙開拓少年義勇軍内原訓練所のことは省略されている。
※平成25年4月、ついに「満蒙開拓平和記念館」が建設された。所在地は長野県阿智村711-10
しかし昭和30年代頃からか、医師そして柔整までも保険で受診できるようになり、自費診療中心の針灸では生活が苦しくなった。何であっても安い方が良いという考え方が価値観を狂わせた。
しかしそのワクでは納まりそうにない主張が込められていています。断片的ではなく、一本の主旨一貫とした文章にまとめて書いてみませんか。投稿いただければ、当ブログの投稿記事として掲載します。