AN現代針灸治療

ANとは「にただあつし(似田敦)」のイニシャルです。現代医学的知見に基づいた私流の針灸治療の方法を解説しています。

太極療法配穴の個人差(代田文誌著「鍼灸読本」より)ver.2.5

2024-02-10 | 灸療法

 数年前私は代田文誌著「十四経図解 鍼灸読本」春陽堂刊を入手した。初版は昭和15年で、昭和50年代に再版された。今日ではそれも絶版となった。

 集団的に施灸を初めたのは、昭和八年五月第二次自衛移民(500名)が満州に渡る時で、さらに昭和13年の茨城郡内原村にある満蒙開拓青少年義勇軍訓練所の開所から昭和20年まで、保険灸を施していた。義勇軍は満州に渡って後も引き続き保険灸をやることになっていた。富国強兵を国是としていた時代のこと、高価な医薬品を必要としないお灸で健康増進に役立てるなら、ということで国が保険灸普及の後押しをした。

その折、団員向けの小冊子を製作しようとのことで、昭和15年春陽堂から「鍼灸読本」を出版した。基礎的な内容なので本稿で特記すべき点はあまりないが、健康灸について興味深い内容を発見した。「健康灸」そして「保険灸」は外部向けの名称であり、事実上は太極治療そのものだ(澤田流とはいえないだろうが)。

いずれにせよ、戦争に負けて以後、この構想は頓挫し、戦後まもなく訓練所の建物も解体された。


1.3パターンの保険灸

茨城県内原村、義勇軍訓練所において、保険灸として以下の三種の規則をつくって灸をした。
下記経穴に、半米粒大灸5壮づつ実施。

1)健康「上」と認める者に、身柱・風門・大椎・曲池・足三里
2)健康「中」と認める者に、身柱・風門・大椎・四華・中脘・曲池・足三里
3)健康「下」と認める者に、身柱、風門、大椎・四華・肝兪・脾兪・腎兪・関元・天枢・曲池・足三里
 
註)四華:
四花ともいう。ヒモを首にかけ、鳩尾のところで両端を切る。このヒモの中央を喉頭隆起にかけ、その両端を背部にまわし、脊柱上でその先端に仮点(ア点)をつける。次に口を閉じて左右の口角の間を測り、脊柱上のア点にその中央部をあてて、その左右にイ、ウの2点、上下にエ、オの2点、計4点に施灸する。(本間祥白著「図解実用経穴学」より)膈兪と霊台および八椎下(筋縮と至陽の間でTh7棘突起下)の計四穴になる。潮熱・盗汗(肺結核時のような)、虚弱体質時に灸療する。

 

 

2.取穴理由

1)誰でも17~18才となると風門に灸した。これは風邪を予防し、同時に心臓の機能を整える目的。風邪は万病の始めであると古人は恐れていた。また同時に膏肓も併せて灸する。その意味はおそらく結核の予防と全身の活力を強めるためであったと思える。

2)24~25才ともなれば三陰交を加える。これは花柳病(=性病)の予防と生殖器を健康にならしめ婦人にあっては月経を整える爲であろう。

3)30~40才頃になると、足三里にすえる。これは胃を健康にし老衰を防ぎ、一切の疾病と予防し、その上長命を保つ方法とした。、
なお老いて視力の減弱を防ぐために足三里、併せて曲池へ施灸することもあった。

  

3.沢田流太極療法との相違点

「鍼灸読本」を出版したのは代田文誌40才の時だった。この年には「鍼灸治療基礎学」も出版し、翌年には「鍼灸真髄」も出版している。師匠の沢田健は文誌が38才の時に死去している。

「鍼灸治療基礎学」や「鍼灸真髄」は、沢田健の治療すなわち沢田流太極療法を大いに褒め讃えている。「鍼灸読本」にみる保険灸の取穴理論は、「三原気論」理論や五臓色体表を用いていないという点で本式の沢田流太極療法とは異なるが、沢田流基本穴に似た面があり、かつ一般人にとって考え方が分かりやすいものとなっている。


沢田流太極療法の説明

 http://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/90e2d4cb08485c0c8c12a8780dd7d6e6


※沢田流基本穴:百会穴、身柱穴、肝兪穴、脾兪穴、腎兪穴、次髎穴、澤田流京門(志室穴)、中脘穴、気海穴、曲池穴、左陽池、足三里穴、澤田流太谿(照海穴)、風池穴、天枢穴など。(時代により多少変化あり)

 

4.田中恭平氏の「健康長寿の灸」 と神田勝重氏の「保険灸」

内原村義勇軍訓練所で、代田文誌の同僚として次の2名の鍼灸師が、保険灸の配穴について記している。文誌を含めて計3名が同じテーマで記載しているが、それぞれ微妙に内容が異なっているのが興味深い。


1)田中恭平の「健康長寿の灸」
2018年6月22日、匿名氏から田中恭平『灸の医学的効果』309頁「健康長寿の灸」の内容紹介コメントを頂戴した。田中氏は、内原の満蒙開拓義勇軍の内原訓練所衛生課内の鍼灸部で代田文誌と一緒に働いていた。

① 身柱、風門、足三里の五点 ‥‥健康上の者
② 身柱、四華、三里の七点‥‥‥ 健康中の者
③ ②に腹部基本灸四点と左右の曲池を加へた十三点 ‥‥健康下の者 
④ ①に膈兪、肝兪、脾兪、腎兪、腹部基本灸の十二点を加へた都合十七点‥‥健康下の者 

(「腹部の基本灸といふのは、私・田中恭平自身で決めた基本灸でありますから、書物には基本灸などと云ふ文句はありません。腹部基本灸の穴は中脘、天枢、関元。)

2)神田勝重氏の「保健灸」
上述の匿名氏は、神田勝重『灸療要訣』(日本書房)115頁「保健灸」についての内容も紹介してくれている。神田氏は序文で、『灸療要訣』の内容の大部分は、私の師 代田文誌先生が後日『鍼灸治療要訣』として刊行される草稿の中より必要と思はれるものを寫させて頂いたものである」と記している。

①健康上と認めるもの‥‥身柱、風門、霊台、曲池、足三里
②健康中と認めるもの‥‥身柱、風門、四華、中脘、曲池、足三里
③健康下と認めるもの‥‥身柱、風門、四華、中脘、気海、腎兪、脾兪、次髎、左陽池、足三里、太谿


3)3者の比較

①健康度「上」

 

万病の元とされる<風邪>の予防のためだろう。上背部の灸を重視しているように見える。

②健康度「中」

 健康度「上」の風邪の予防に加え、肺結核の予防のためか、横隔膜あたりの刺激を重視しているようにみえる。

 

③健康度「下」

健康度「中」の肺結核予防に加えて、脾兪・腎兪など消化吸収力を高めることで、食物が人体に取り込むことで栄養になることを期待しているかのようだ。
興味深いのは、神田勝重氏の左陽池の灸である。左陽池は沢田流太極治療の伝統的治療穴の一つとして、沢田健先生は非常に重視していたのだが、代田文誌先生は、後に合理性に乏しいとして選穴しなくなった。陽池は三焦経の原穴であるが、沢田先生の独特の考え方として、三焦を重要視していた。その理由として三焦は生体における化学反応を連続的に起こす条件としての体温を一定に保つ内部環境があげられるという。陽池の左側を取穴するのは、人身の右を陰とし、左を陽とするという素問霊枢の説からきている。陽池は陽の池だから左をとるのが原則である。もちろん右の陽池を使っていけないというのではない。

沢田先生はほとんど書物を残さなかった方ではあるが三谷公器著「解体発蒙」を紹介する際の序文として、<三焦概論>という一文を残している。上焦を宗気、中焦を営気、下焦を衛気と関連づけて考察している内容となっている。


三谷公器著「解体発蒙」の三焦についての説明

https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/159cb2af0776c4083e2998a343973b28

 


5.集団施灸の効果

昭和50年4月15日。日鍼灸誌に堀越清三氏により「集団施灸の一例」として当時の将兵約800名に対する集団施灸(1週間~3ヶ月間)のデータを報告している。当時は軍機密として公表されなかった。安価で手軽にできる施灸治療の秘密を、敵国に知られるのを国家が嫌がったと思うと面白い。

原著論文

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsam1955/24/2/24_2_22/_pdf/-char/ja

一般兵、錬成兵、将校と下士官のグループ別で、それぞれその半数に施灸を行い、残り半数を施灸を行わない対照群とした。施灸前後に種々の体力測定を行い、施灸の効果の有無

を検討している。2回分析を行っていて、その結果は少々異なるが、おおむね次のようなった。(2回分析中、ともに有効なものを<有効>とし、1回のみ有効なものを<やや有効>と、2回ともに効果なかったものを<いまだ効果を見ざるもの>と分類してみた。

<有効と思われるもの>
体重増加、100m疾走の短縮、食欲増進、脚力、夜間排尿回数の減少

<やや有効>
睡眠、1000m疾走、懸垂、負担早駆、

<いまだ効果を見ざるもの>
患者発生状況
 

6.5人で協議してきめた保険灸の部位

奥野繁生からメールを頂戴した。保険灸の取穴について、当時の鍼灸師スタッフ5名が協議して「保険灸」の治療ポイントについて検討した結果が記されている文献を発見したとのこと。以下、奥野先生のメール内容。


『東邦医学』誌第6巻第7号(昭和14年6月、復刻版第四輯所収)を眺めていたら、代田文誌「鍼灸余話」という記事があり、そこに「青少年義勇軍の灸療」として、こう記されていました。

「茨城県内原の満蒙開拓青少年義勇軍に於て保健のためにその全員に灸をしてゐることに就ては前にも記したことがあるが、本年(昭和十四年)四月二日に、内原の青少年義勇軍訓練所に於て、同所長加藤完治先生を中心として、帝大医科の茂在教授、日大医科の齋藤教授と田中恭平氏と私との五人で協議した結果、左の様な灸を一般に行ふことに決定した。そのことを、茲に併せ記して大方の参考にしたいと思ふ。

一、健康甲と認める者に。身柱、風門、大椎、曲池、足三里。
二、健康乙と認める者に。身柱、風門、大椎、曲池、足三里、中脘
三、健康丙と認める者に。身柱、風門、大椎、曲池、足三里、中脘、関元、四華。

以上は、内原義勇軍訓練所の衛生部に於ける医師との協定の上にて一般的に施す灸治である。以上の灸点を選んだ理由については煩雑であるから今は記さぬが、これだけの灸にて青少年達の健康を維持し、その体格を向上せしめ、併せて結核其他の病気の予防に役立つであらうことは、確信して疑はぬ処である」

五人で協議した結果、だったのですね。(引用以上まで)

 

上記取穴を図示してみると以下のようになった。

 

先に挙げた3名の健康灸パターンに似てはいるが、微妙に異なっているものとなった。まあこれが正解という筋合いのものではないが‥‥
健康度「甲」と健康度「乙」とでは、中脘穴を加えるか否かという点のみが異なる。健康度「甲」健康度「乙」ともに上背部刺激は重視しているが、中背部や腰部を取穴していないのが特徴的である。

 

 


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8 コメント

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Unknown (Unknown)
2018-06-22 22:12:46
田中恭平『灸の医学的効果』309頁「健康長寿の灸」によれば、
イ、身柱、風門、足三里の五点
ロ、身柱、四華、三里の七点
ハ、ロに腹部基本灸四点と左右の曲池を加へた十三点
ニ、イに膈兪、肝兪、脾兪、腎兪、腹部基本灸の十二点を加へた都合十七点
イは健康上と認めらるるもの。
ロは健康中と認めらるるもの。
ハとニは健康下と認めらるるもの。
(「腹部の基本灸といふのは、私自身で決めた基本灸でありますから、書物には基本灸などと云ふ文句はありません。…中脘、天枢、関元」300頁)とあり、

また神田勝重『灸療要訣』(日本書房)115頁「保健灸」には、
健康上と認めるもの
身柱、風門、霊台、曲池、足三里
健康中と認めるもの
身柱、風門、四華、中脘、曲池、足三里
健康下と認めるもの
身柱、風門、四華、中脘、気海、腎兪、脾兪、次りょう、左陽池、足三里、太谿

とあります。
神田勝重は序文で、
「『灸療要訣』の内容の大部分は、私の師 代田文誌先生が後日『鍼灸治療要訣』として刊行される草稿の中より必要と思はれるものを寫させて頂いたものである」と記していますが…
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保険灸の内容を追加しました (似田)
2018-06-22 23:55:15
ご指摘ありがとうございました。その内容を、本ブログに追加しました。
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Unknown (Unknown)
2018-08-05 07:01:26
前回コメントした者です。
『代田文誌著作選集』に収録されている「学童施灸座談会」に、代田文誌の次のような談話がありました。
「…集団的に施灸を初めたのは、昭和八年五月第二次自衛移民の渡満の時でありました。…
加藤校長が、西洋医学的な体格検査は既にやつたが、あなたには東洋医学的の体格検査をやつて貰ひたいといふので、全員五百人を私が診ることになつたのです。…
私は保険灸を一人残らずにやつて、病気予防に備へ度いと提案したところ、加藤校長も大賛成でした。…
午前に話をし、午後一〇〇名宛施灸をしたのであります。
穴は身柱・風門・曲池・足三里、これだけはどんな健康体にも保険灸としてすえました。
身柱は結核予防疲労恢服、風門は風邪結核予防、曲池は肩こりその他、足三里は全体的保険、脚気予防、脚力増強、その他胃腸にはどこ神経痛にはどこという風に。…
次は義勇軍、この方も昭和十三年開始以来現在まで施灸してゐるが、穴は大体自衛移民と同じでそれに霊台を加える。義勇軍は健康を上中下に分け、下は治療灸によつてゐます。…」

また、東部第37部隊における集団施灸の記録を、堀越清三が報告していました。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsam1955/24/2/24_2_22/_pdf/-char/ja
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<保険灸について>改題 (似田)
2018-08-06 12:25:21
再度、貴重な情報をお教え下さりありがとうございました。早速内容を当ブログに反映させました。なお以前のタイトルは、内容を示すのに適切でないと考え、上記の通りに改題しました。
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Unknown (奥野繁生)
2018-08-08 19:45:57
2回にわたり、コメントを投稿した奥野です。
名前を入れずに投稿してしまい、大変失礼致しました。
私も鍼灸師ですので、技術的な面にも注目したくなるのですが、歴史的にみた場合、加藤完治に共鳴して、満蒙開拓に加担したことになる代田文誌や田中恭平の歴史的責任をどのように考えたら良いのか、悩むところです。
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奥野繁生先生へ (似田)
2018-08-09 01:40:48
奥野繁生 先生

私が満州蒙開拓団のことを知ったのは、約10年前のことで代田文誌先生の年譜を調べたことでその事実をしることができた。それは代田文彦先生はお亡くなりになった後のことだったので、詳細について質問することはできなかった。
しかし文彦先生の弟である代田泰彦先生とは親交があり、質問してその時の状況を少々知ることができた。

泰彦先生の話では家庭でも、満蒙開拓団のことは、一切話題にしなかった。話せないほどの深い苦悩であったことは推察される。 

満州蒙古開拓団は、満州や蒙古の広い土地を耕して農作物を沢山収穫しようというわが国の政策であったが、日本農民に割り当てられた新天地も、日本が現地中国人蒙古人から二束三文で強制的に取り上げたものだった。現地中国人や蒙古人の恨みをかったのは当然だっただろう。

ドラマなどでは終戦後に侵攻したソ連軍に追い回されたという被害者としての側面が強調されるが、日本は加害者としての立場もあったことを認めない訳にいかない。代田文誌がそうした状況に荷担した責任はないとしても、お灸を指導した顔見知りの者たちが現地で悲惨な死を迎えたことは二度と想い出したくないことだっただろう。

平成25年に長野県に満蒙開拓平和記念館ができたということで、一度は行かなければならないと思っています。

奥野繁生 先生






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似田先生 (奥野繁生)
2018-08-11 22:41:11
丁寧なご返信ありがとうございます。
記念館は行ってみたいですね。
代田文誌日記も読んでみたいです。
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Unknown (奥野繁生)
2018-11-24 22:26:47
『東邦医学』誌第6巻第7号(昭和14年6月、復刻版第四輯所収)を眺めていたら、代田文誌「鍼灸余話」という記事があり、そこに「青少年義勇軍の灸療」として、こう記されていました。

「茨城県内原の満蒙開拓青少年義勇軍に於て保健のためにその全員に灸をしてゐることに就ては前にも記したことがあるが、本年(昭和十四年)四月二日に、内原の青少年義勇軍訓練所に於て、同所長加藤完治先生を中心として、帝大医科の茂在教授、日大医科の齋藤教授と田中恭平氏と私との五人で協議した結果、左の様な灸を一般に行ふことに決定した。そのことを、茲に併せ記して大方の参考にしたいと思ふ。
一、健康甲と認める者に。身柱、風門、大椎、曲池、足三里。
二、健康乙と認める者に。身柱、風門、大椎、曲池、足三里、中脘。
三、健康丙と認める者に。身柱、風門、大椎、曲池、足三里、中脘、関元、四華。
以上は、内原義勇軍訓練所の衛生部に於ける医師との協定の上にて一般的に施す灸治である。以上の灸点を選んだ理由については煩雑であるから今は記さぬが、これだけの灸にて青少年達の健康を維持し、その体格を向上せしめ、併せて結核其他の病気の予防に役立つであらうことは、確信して疑はぬ処である」

五人で協議した結果、だったのですね。
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