AN現代針灸治療

ANとは「にただあつし(似田敦)」のイニシャルです。現代医学的知見に基づいた私流の針灸治療の方法を解説しています。

「秘法一本鍼伝書」⑥<上肢内側痛の鍼>の現代鍼灸からの検討 

2018-08-21 | 肩関節痛

1.「秘法一本鍼伝書」上肢内側痛の鍼(肩貞)

1)取穴法
後腋窩紋頭の内上方約2寸を下からナデ上げると、内上方から外下方にむかって太い筋肉が指に触れることができる。この筋の下縁に指頭を突っ込むように強圧すると有感的に響く処がある。本穴はここに取る。いわゆる肩貞穴である。

2)用鍼
寸6ないし2寸の3番の銀鍼または鉄鍼を用いる。

3)患者の姿勢
正座して手を下垂させ、拳を握らしめ、閉目させて呼吸を静かにさす。

4)刺針の方向
鍼尖を穴の部から内上方に向かうように刺す。取穴の時に述べた筋層の下に鍼を刺すように心構えて刺入する。硬物につき当たったならば、瀉法を行う。

5)技法
患者をして吸息させる同時に、鍼を進退しつつ左右に動揺させながら刺入する。鍼の響きが小指側に響けば刺入をやめる。

6)深度
約1寸3分ないし2寸近く刺入。鍼尖、硬結物に当たり、小指側に響く程度でやめ、弾振する。

7)注意
針響強劇にして患者圧重倦怠感ありといえば直ちに退け、皮下まで鍼尖を抜き上げ、患者をして呼吸させて抜除する。補助法として鍼尖を缺盆穴に水平にあて、やや外方に向かうようにして刺入する。これまた小指側に響くように刺すべし。首の側面、肩背に響く場合は、鍼尖を転向させて上肢に響くようにすべし。

 

 

 2.現代鍼灸からの解説

1)後方四角腔の局所解剖

後腕と肩甲骨間にできる陥凹を、後方四角腔とよぶ。後方四角口腔は、上腕三頭筋外側頭・上腕三頭筋長頭・大円筋・小円筋が四辺を構成していて、腋窩神経が深層から浅層に出てくる部である。

 


後方四角腔に直刺すると腋窩神経を刺激できるが、腋窩神経には知覚神経成分がないので、響きを生じることはない。
内上方に向けて斜刺すると、小円筋に刺針できる。一本鍼伝書<上肢内側痛の鍼>は、小円筋に対する刺激になるだろう。しかし小円筋刺針は上肢外側に響くことはあっても、上肢内側に響きは得られにくい。

 

 しかしながら肩貞から、小円筋を貫通して、肩甲骨と肋骨間に入れるような深刺をすると、肩甲下筋を刺激できる。肩甲下筋トリガーポイント活性時、その放散痛は、上肢内側に放散する。なお、肩甲下筋は、肩甲下神経の運動支配である。

 

 

 

 肩貞穴から肩甲骨と肋骨間に入れるような深刺で上肢内側痛に効果があるのならば、膏肓など肩甲骨内縁の穴から、肩甲骨内と肋骨をくぐる深刺も効果あるに違いない。
ということで実際にやってみる。3寸鍼を使い、2寸以上深刺すると、ズキンというような響くポイントに命中し、その直後からつらい症状が改善することを何例も経験できた。

実際の臨床にあたっては、患側上の側臥位で、肩甲骨の可動性を改善することを目標として、肩貞または膏肓から深刺し、介助しながらゆっくりと上腕の外転運動を行わせるようにすると効果的になる。 

 


 ※肩甲上神経:棘上筋・棘下筋を運動支配。知覚神経支配なし。肩関節包上部と後部を知覚支配
 ※腋窩神経 :小円筋・三角筋を運動支配。上外側上腕皮神経として上腕外側を知覚支配。肩関節包下部を知覚支配

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「秘法一本鍼伝書」⑤<上肢外側痛の鍼>の現代鍼灸からの検討 ver.1.2

2018-08-21 | 肩関節痛

最近の当ブログでは「秘法一本鍼伝書」中の下肢痛の鍼を4パターンに分け、現代鍼灸の立場から解説した。同じような形式で、上肢痛は2パターン分けて説明する。

1.「秘法一本鍼伝書」上肢外側痛の鍼(肩髃)

1)取穴法

肩関節上際部で上腕を挙げて凹みが出るところがある。この凹みに前と後の2カ所あり、前の凹みが治療穴である。この凹みのところに指端をあてて一応手を下垂する。それから患者をして上肢を外転そして内転させると、指端に太い筋が現れたり隠れたりするのを感ずる。外転させた時に太い筋が指下にきたり、内転させるとその筋前方に転移して指下には只やや陥凹の感を得る。これが穴である。肩髃穴である。

2)用鍼
寸6ないし2寸の2番を用いる。毫鍼の銀鍼または鉄鍼でよい。

3)患者の姿勢
正座させて両手は穏やかに下垂させ、手は自然の位置に垂れ、力を入れぬようにさせる。


4)刺針の方向
上方より穴所から垂直に、つまり上腕骨の縦側に沿うように刺入する。


5)技法
鍼を進退(刺入し、入れまたは引く)するにあたり、や左右に揺するごとく刺入する。もしくはゆるい間歇法を行う(これを古法では白虎揺頭の法)という。

※白虎揺頭の法:「金筋賦」にみえる刺針手法の一つ。基本的には深層まで刺針し、得気したのち浅層まで引き上げ、虎が頭部をゆらすように振顫する手法。


6)深度
針響が橈側に響くのを度とする、響いたら抜針する、患者が刺針によって重圧感を感じなければ弾振する。重圧感覚を訴えたら鍼を直ちに抜除する。

7)注意
患者が鍼を抜除した後でも重圧感を訴えたら円鍼を用いる。または渋滞のところに散鍼する。もし針響が予期どおりない時は、いったん抜いて刺し直す。
総じて、上肢外側の痛み・神経痛・リウマチ・肘腕の関節炎には呼吸の瀉法を、麻痺・鈍麻・痒癢(かゆい、くすぐったい)には呼吸の補法を用いる。


 

2.現代鍼灸からの解説

1)肩髃穴の取穴

「上肢を90度外転させてできる肩甲上腕関節の上際にできた2つの陥凹のうち、前の方の陥凹」というのが広く知られている<肩髃>穴の取穴法である。後の陥凹が肩髎穴になる。しかしこのような表現は解剖学的に曖昧で、昔から疑問だった。ひとつの取穴法として、上腕骨大結節を術者の母指と示指でつまむようにすると、肩髃と肩髎を同時に取穴できるというものがあったので、自分では結節間溝(大・小結節間)部が肩髃、大結節後の陥凹が肩髎とすることにした。しかしながら十年ほど前、肩髃穴の前方に<肩前>という新穴があることを知った。肩前穴は、上腕骨小結節と大結節の間にある結節間溝を走行する上腕二頭筋長頭腱部になるから、必然的に<肩髃>は、大結節と肩甲骨肩峰端の間隙に取り、肩髎穴は上腕骨大結節の外方陥凹部と肩峰端との間隙であると考えるようになった。 臨床的意味合いは次の通り。

上腕二頭筋長頭腱刺激→肩前穴
棘上筋腱刺激→肩髃穴
棘上筋腱刺激→肩髎(あまり使わない)


 

 

 2)上外側上腕皮神経痛に対する肩髃から曲池方向への水平刺刺

肩関節上外側の痛みは、三角筋部に相当し、この皮膚知覚は上外側上腕皮神経知覚(腋窩神経の分枝)支配である。腋窩神経の本幹は小円筋・三角筋を運動支配し、腋窩神経はさらに肩関節包下方を知覚支配している。

すなわち三角筋の痛みであるかのように見えるものは、実は上外側上腕皮神経痛による。そのため筋膜に対する刺針よりも、皮膚に対する水平刺または皮膚の刺絡の方が効果的になる。皮膚の痛みは皮膚を撮むように触診すると過敏点を検出しやすく、発見した撮刺点を貫くような水平刺を行うとよい。
その典型が、肩髃から曲池方向に水平刺である。この一本鍼は、清脳開竅法(天津の石学敏により開発された脳血管障害の鍼灸治療法)での脳血管後遺症としての肩関節痛の治療とほぼ同じものである。

 

 

 

しかしながら私の臨床経験から、上述した治療を行っても、直後効果のみで終わることが非常に多かった。この領域の皮膚を刺絡してみても、効果あるのは治療当日のみで、翌日には元に戻るのが普通だった。
上腕外側痛を生ずる、もっと本質に迫った治療があるのではないかと考えるようになった。

 

2)棘下筋の放散痛に対する天宗刺針

トラベルのトリガーポイントの図を見ると、上腕外側痛は、棘下筋のトリガー活性化に由来することでも起こるようだ。天宗穴あたりの圧痛点に4番程度の鍼を置いておき、まずは側臥位で上腕外転の介助自動運動を実施。すると次第に外転可能な範囲が広がることが多い。同じことを坐位で実施(上腕外転運動は重力に逆らうのでより強刺激になる)。

時には棘下筋の伸張を強いるので、上腕外転に軽度障害も生ずることが多い。このような場合、圧痛ある天宗に4番針以上で刺針すると上腕外側痛と上腕外転制限に効果あるようだ。
陳久性で棘下筋の緊張が強く、肩関節外転のROMは正常だが、それでもスポーツ時の動きが悪いという患者に対しては、天宗刺針で効果不足の場合には、上腕を自動的に外転させた肢位(棘下筋の収縮状態)でこの刺針をすると効果が増大する。もっと強く棘下筋を伸張させるヨガの「ネコの背伸びのポーズ」をさせた状態で圧痛ある天宗に雀啄刺針をするとよい。

 




3)大円筋・小円筋の放散痛

上腕骨と肩甲骨外縁の陥凹(後腕のつけね=後方四角腔)には肩貞を取穴する。肩貞から肩甲骨外縁に沿うように(それでも肩甲骨上になる)刺針すると小円筋に刺針できる。小円筋の放散痛は三角筋部の後方から上腕外側に放散痛が得られることがある。 

 


肩貞から少々下方には大円筋があり、肩甲骨下方の外縁で肩貞の下方1~2寸下方から刺針すると、小円筋と同様に三角筋部後方に痛みが放散するほか、前腕の背面にまで放散痛の得られることもあるらしい。後方四角口腔に刺針してもスカスカとした粗な組織に刺入している手応えが得られるだけで、筋中に命中しないので、筋膜症に用いる価値は薄い。しかし大円筋・小円筋の起始部である肩甲骨部に刺針すると、上腕外側に響きの得られることがある。

 

 

 

以上の検討から、肩甲骨棘下腋窩にある筋刺激が、上腕外側症状をきたすことが多いと思われた。
もちろん腕神経叢過敏状態や斜角筋放散痛が上肢外側症状を生ずることがあるが、ここでは論じない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「秘法一本鍼伝書」③<下肢外側の病の鍼>の現代鍼灸からの検討

2018-08-13 | 腰下肢症状

1.「秘法一本針伝書」下肢外側の病の鍼(環跳)

1)取穴法
患側を上にした側腹位で、なるべく腹壁に大腿をつけるようにする。上前腸骨棘の外下方で曲がり目に太い筋がある。この筋の後側にゴリゴリするところがある。ここを指で押さえると大腿の外側に響く処がある。これを環跳穴とする。

2)用鍼
3寸の2番ないし5番の銀鍼、あるいは2番ないし3番の鉄鍼をもちいる。

3)患者の姿勢
前記した体位にせしめて取穴。患側の膝頭を両手で抱き、腹壁につけるようにすればなおよい。

4)刺針方向
皮膚に対して直刺。

5)技法
刺入した鍼を静かに状芸に進退動揺させながら刺入する。

6)注意
全身に力を入れ息を吸いこみ、そのまま止めて息を腹に貯えるようにする。かつ口を閉じ、鍼の響きがあれば直ちに抜く。下肢後側が痛み場合と同じ。
補助法として、丘墟穴、外丘穴、中涜穴に刺針する。


2.現代鍼灸からの解説 
 
ブログ「大腿外側痛の針灸治療」参照。本ブログと内容が一部重複している。
 https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/03c8b1fc1f9c88bc3814afbb3daad2a8

環跳の位置は現代でも2通りある。素霊の下肢外側の病の鍼の「環跳」は下記①の方法による。

①側臥位で股関節と膝関節を屈曲。その時できる鼠径部横紋の外側、大転子の前上陥凹部にとる(学校協会テキスト)、
②側臥位、大転子最高点と仙骨裂孔を結ぶ線を三等分し大転子から1/3の陥凹部にとる(韓国の標準テキスト)。

 
素霊の環跳刺針では、では中殿筋が伸張されて筋トーヌスが高まっている状態で中殿筋中に刺針できるので、針響が生じやすくなる。
中殿筋は、基本的に股関節外転筋で、大腿骨頭を骨盤に引きつけて歩行を安定させる作用がある。

本筋の緊張では腸骨稜に沿う痛み他に大腿外側に放散痛を生じる。
また中殿筋の深部には小殿筋がある。その機能は中殿筋に準ずるが、小殿筋放散痛は大腿後側にとどまらず、膝関節を越えて下腿後側や外側まで生じるという特徴がある。
つまり症状が大腿外側までならば中殿筋を、膝を越えて下腿にまで及べば、さらに深刺して中殿筋の奥の小殿筋にまで刺入するとよい。

 

 

 

 

 

 

 


 


耳鳴に対する鳴天鼓のやり方 ver.1.1

2018-08-02 | 耳鼻咽喉科症状

1.鳴天鼓(めいてんこ)の再発見

ネットの面白情報チャンネル<らばQ>2017年9月20日の記事に、側頭部をタッピングすると、耳鳴りが軽くなるという内容があった。その方法を行った患者たちが喜ぶユーチューブ動画もあって、患者の喜ぶ姿をみて、これはすごい効果だと思った。効果があるなら自分の治療として取り入れることになる。

実はこの方法は、古典的内気功の「八段錦」の一方法で鳴天鼓(めいてんこ)とよばれているもの。私も三十年前に試したことがあったのだが、熱心に聴講していなかったせいか、間違った方法を覚えてしまっていて、大した効果は期待できないとの印象をもっていた。 

2.鳴天鼓の実際

1)方法

①両肘を左右に張り出し、手掌中央で耳穴をぐっと押さえて外耳道を密閉させる。
②そのまま頭の後ろに指を添えて、中指はお互いの方向を指す。
③中指の上に人差し指を乗せ、そこからはじくように人差し指を落として頭を叩く。その衝撃音が耳孔の空気を伝わり鼓膜に響くように感じる。
④1日2回、1回につき20~40回これを繰り返す。

 2)効果

効果には個人差がある。効く者は手を離すと耳鳴りが治まっていることに気づく。耳鳴が停止している時間は2~3分間だが、長く繰り返すほど止まっている時間が長くなる者もいる。

 

 

 

3.作用機序の考察

音波が耳孔から鼓膜に伝わる。鼓膜→小耳骨→前庭窓→蝸牛と伝わり、聴覚に影響を与える。
鼓膜に刺激を与えるという観点からは、下耳痕穴(耳垂が頬に付着する部の中央)からの直刺2㎝と同じ原理となるだろう。この刺針を行うと耳中に響く感覚が得られる。

「右耳管狭窄症で時々耳が遠く感じる」と訴える者に上記方法を行うと、施術直後頬が温かく血が通った感じがして気持ちよいという結果が得られた。温感が得られたということは、頸部交感神経緊張状態が緩んだことを意味しているので、星状神経節ブロックと同様の効能があるのだろうか。ベル麻痺の初期治療に星状神経節ブロックを行うことが多いが、それと同じような効果が得られるかもそれない。 今後耳鳴を中心とした患者に追試したい。


4.その後の考察

耳鳴患者に対し、鍼灸治療に加え、鳴天鼓を併用したり、多愁訴の一つとして耳鳴のある患者に対しては、鳴天鼓だけを行うこと約1年経った。当初の思惑とは異なり、鳴天鼓の治療効果はあまりないので、やっぱりダメかと希望を失いかけていた。そんなある日、耳鳴りを訴える患者が来院した。その人は頭の小さな人だった。ベッドに座らせ、施術者(私)と対峙させた。両手掌で耳孔をぴたっと塞ぐようにして、後頭部に両手指をもっていき、指を弾こうとしても、頭が小さいので両手の指がぶつかるような状況だった。そこで施術者の指を頭頂部あたりにもっていって指を弾くも、耳鳴は不変だという。そこで指を後頭部にもっていって弾くことにしたが、そうすると手掌と耳孔間が密着できず隙間が空くことになったが、後頭部を数回指で弾くと耳鳴りは消失したとのこと。すなわち手掌で耳孔を塞ぐことよりも、指で叩打する部位の方が重要なことを示唆させるものであった。結果的に、上述した<作用機序の考察>は的外れだったことになる。

今後、手掌で耳孔を塞がないで、後頭部叩打する方法と、術者の中指頭を患者の耳孔に入れ、示指で指を弾くようにするという2通りの方法の相違点を追究していきたい。

この症例を経験して以後、指で弾く部位は、以前よりも後頸部に近いものとなり、後頭部の玉枕~天柱付近が最適であることを発見。治療効果が増したように感じている。30回程度指を弾いて指を耳から離すと、耳鳴りが消失していることに気づくのが普通である。ネットで調べてみると、私の印象と似ている図を発見したので、引用し掲載しておく。

 

 


石坂宗哲が考察した営衛と宗気 ver.1.3

2018-08-01 | 古典概念の現代的解釈

本稿は、ブログ「営衛と宗気のイメージした解説
https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=6b294c3841433e83f3a321c4b291a6df&p=1&disp=50
の後編に相当するものです。


1.石坂宗哲の時代的背景と年譜

甲府の鍼灸医家系の三代目として1770年に生まれた宗哲は、年少の頃から伝統的な鍼灸を学んでいた。青年時代の状況は記録に残っていないが江戸で鍼灸医として働いていたらしい。この功績が江戸幕府に認められ、1797年弱冠27才にして甲府の西洋医学校を創設するよう命じられ、鍼科顧問になった。31才で再び江戸に呼び戻され、寄合医師(江戸幕府への通い医師)、鍼科奥医師(将軍家の診療にあたる医師)、法眼(医師頂点の称号)と出世の階段を上るようになった。 
 
宗哲の特異な背景としては、幼少時(3才頃)杉田玄白らの『解体新書』刊行という時代で、西洋医学というものに触れる機会があったことと、42~46才に当時の医学・博物学の知識人シーボルトと交流した環境が関係しているといえだろう。シーボルトは日本の鍼灸を、宗哲からの話を聴くことで知った。宗哲が西洋医学を盲信する医師であればシーボルトは興味を示さなかっただろうし、東洋医学オンリーの医師であれば西洋医学との接点を見出し難く、シーボルトとの対話は成立しなかっただろう。シーボルトが理解したわが国の鍼灸医学は、ほぼ石坂宗哲が説明した内容だった。
  

1770年0才 江戸後期、甲府に石坂宗哲生誕。代々鍼灸医の家系を継ぐ。

※27才 甲府医学所(西洋医学校)設立。鍼科創設。
1801年31才 江戸に戻り、寄合医師になる。
1804年33才 奥医師(鍼科)となる。
1812年41才 法眼となる。
         この頃から蘭学と漢医学(東洋医学) の漢蘭折衷を模索。  
1822年~1826年 42~46才 ドイツ人医師シーボルトと交流
         自著『鍼灸知要一言』などをオランダ語に訳し、シーボルトに渡す。
         シーボルト帰国後、石坂宗哲は独自の理論を石坂流と命名。独自の鍼灸理論を追究した。
1826年 『知要一言』・『医源』・『宗栄衛三気弁』・『鍼治十二條提要』刊行。
1841年 『内景備覧』刊行。
1842年 72才 死去

 

 

2.伝統医学を刷新させるため西洋医学知識を利用

三代目の鍼灸医としての家系に生まれ、幼少の頃から漢方医学に浸かって育った石坂宗哲は、西洋医学に惹かれる一方、先祖代から続いている伝統医学を価値のないものとして捨て去ろうとする考え方にも同意できなかった。それどころか、中国古代の医学書のよく分からない部分をオランダ医学という別な角度から眺めることで、漢方医学を発展できるのではないか(知要一言)と考えた。
 
その中核的内容として、人体を巡るもの(伝統医学では十二經絡)の実態についてだった。具体的には脳と脊髄、脳脊髄神経、及び血管系に着目した。
その一方、いわゆる伝統理論に対する批判は痛烈だった。精神・宗気の道(めぐり)を見失って、陰陽五行という考えが唱えられるようになった。栄衛・経絡の真実を見失って、十二経脈の流注が一つながりにつながっているという考えが現れた。末流に登場した誤った説を信じて、源流にあった真実を捨て去ってしまったのだ。(『宗栄衛三気弁』)

 


3.営衛と動・静脈

松本秀士:動脈・静脈の概念の初期的流入に関する日中比較研究 或 問 WAKUMON 59 No. 14(2008)pp.59-80   より

1)解体新書にみる動静脈
 
動脈・静脈という訳語が与えられたのは「解体新書」(1774)からである。ハーベイの血液循環説発表は約150年以前のことだったので、解体新書には現代医学でも通用する血液循環のしくみ(心臓→動脈→小動脈。小静脈→静脈→心臓)という循環があることを証明した(1628年)。またその直後にマルチエロ・マルピーギの顕微鏡発明に伴い、毛細血管も発見された。これらの知見の後に、解体新書がわが国に入っていきたことは幸運だった。西洋医学でも17世紀頃まではローマ時代の医師ガレノスが唱えた血液巡行が信じ続けられていたからである。
 
ところで「脈」とは血の流れる管という意味で、動脈との名称は、<脈うつ脈管>であるところからで、その一方脈の打たない脈管は血脈(けつみゃく)と命名した。血脈との名称は、伝統医学でいう血脈(血液の流れる管、血管)をそのまま流用した。なお静脈と命名されたのは1800年代からであった。
 
杉田玄白は、人体をめぐる4種類のものは、動脈、血脈、筋、神經以外にないと記していて(『医事問答』1795)、十二經絡の存在を疑問視し、十二經絡とは動脈や血脈のことではないかと推察した。

 

2)石坂宗哲の営衛の考え方(『医源』より)
 
宗哲は心臓→動脈→細動脈→毛細血管→細静脈→静脈→心臓という循環は理解していたらしい。「心蔵は血脈を出入させている。これを栄衛と呼ぶ」とある。


①動脈とは‥‥

拍動している血管のことを栄とよび、中を動脈血が整然と進み、拍動して止まることがない。進むにつれて枝別れして、太さにより経絡・別絡・孫絡・支絡・細絡の区別がある。
内部から始まり、外部に向かう。
以上の内容から宗哲は、經絡はすなわち動脈血管と考えていたことが理解される。

 

③静脈(血脈)とは‥‥

「衛は拍動せずに入っていく。脈外を進み、途中各所に節(弁)がある。栄と同様に経絡・別絡・孫絡・支絡・細絡がある。外から始まって内に向かう」とある。
動脈と異なり、静脈の解釈は現代解剖学とは異なる。脈外を進むというのを、血管外と理解すれば静脈ではなく、これは<衛>の定義になる。
衛は栄の終る所から始まり、逆行して胸腹部に集まり、心臓の右側に入る。起始部は絡であり、その終点は経になる。つまり、栄と衛は互いの始まりと終わりの所で繋がり、経絡を受け渡し合っている。環に端がないのに似ている。以上の記載は、現代でいう静脈の走行そのものである。末梢から始まって心臓に向かうほど太い血管になるという点も矛盾がない。
 
 
衛は血管外を走るという点を考察してみた。人間は自分の上下肢や顔面などで外から皮膚を見ると処々に青黒いパイプのような血管を散見できる。これは表在静脈で中には当然静脈血が流れている。ここを刃物で切ると動脈血管ほどでないにせよ出血するだろう。
一方、このような表在血管部位でない場所を刃物で切っても、やはり出血する。これは皮静脈を傷つけた結果であるが、宗哲は皮静脈の存在を知らないことで、血管外と判断したのではないだろうか。このことから推察するに、表在静脈は栄が流れる部、すなわち動脈と理解したのではないかと考えたと思った。
 
外から見て視認できる血管は、表在性なのでほとんどは静脈なのだが、これを動脈と解釈することで、営衛と動静脈循環の整合性を導いたと思われる。

 

 
宗哲は、表在静脈を「動脈」とし、皮静脈を「静脈」とした?

 

4.宗気と脳脊髄神経

1)宗気は神経線維中を流れる水液のことか? 

石坂宗哲は、脳脊髄神から起こり、12対の脳神経、31対の脊髄神経の末端までの神経伝達の物質を宗気とよんだ。ちなみに<神経>との名称は杉田玄白らの『解体新書』で初めて用いられたzenew(オランダ語発音ゼニウ。世奴と表記。英語のnerve)を神経と和訳した。神気と経脈とを合わせたことに由来している。神経との和訳は、中国語にもなった。
nerveは中国語でも神経である。

「宗気は純白の水液にして脳髄より出でて一身に周行する」とある。純白というのは、神経線維の色調のことをさしていると思える。水液の意味は不明だが、神経線維を植物の茎に例えれば、茎の中の細い管を流れる水液のことを指しているのではないかと想像する。
要するに神経というパイプの中を、宗気という水液が流れている。

 

2)脳髄―精神―宗気論 

宗気が正常に生成され、身体をくまなく行き渡ることで、健全な精神が生まれる。精神は、古くからある中国語で、精+神の複合語である。


①神とは大脳皮質機能のこと

ここでいう神とは神様のことではない。神とは寒温を覚え喜怒哀楽の情を起こし、臭味を知り、事物を辧(わきまえ)る等、己に具えて己の自由となるもの。要するに大脳皮質の健全な作用を意味する。正常な意識がなくなった状態は「失神」、意識はあってもそれが正常でなければ「狂」である。

 


②精とは命の炎のこと 

精とは生命の元である。例えれば命のロウソクの炎のことをいう。両親のもつロウソクを炎を、その子に分けてやることで新しい生命が誕生する。誕生後に空気や飮食の力を借りて、心身が成長するにつれ、ロウソクの炎が大きなものになる。成人になると、ロウソクの火を新たな生命の誕生のために分けてやれるようになる。しかしやがては病や老化により、自分のロウソクの炎を保てなくなる。これが死である。

 

5.鍼の臨床

1)総論

石坂宗哲は、<定理>すなわち真実を追究した学者として有名だが、具体的な治療内容については、あまり記録が残されていない。少ないが治療原則として次の内容が知られている。 

①鍼の効能には、宗気とした神経系を調整することを補法、瀉血(静脈を切って鬱滞している悪血を取り除く)し、営衛の気を流通させるのを瀉法と位置づけた。(『鍼灸茗話』)
②すべての病気の本質は神経のマヒ(神経筋肉内の痺症)であり、鍼は神経や筋肉のマヒをとくものであるから、鍼はほとんどすべての病気に適応がある。
③極細の銀針を用いて、補法手技を多く使う。温和な手技で丁寧に時間をかけて必要な治療量を与えることと、背中を治療する場合、一般の鍼灸家なら正中線の外方1寸5分の輸穴や膀胱系二行線を主として治療するところだが、石坂宗哲は正中線から外方5分の夾脊穴上を好んで治療した。宗気の放散する起始点として、脊柱傍への刺激は広い適応がある。

 

2)治療の実際

石坂宗哲自身の鍼治療技術が明記されているものは実存しないので、現在となってはどのような治療方法が当時の石坂流の鍼にあたるのかは確定する ことはできない。
現代では町田栄治氏が第一人者とされていて、専門雑誌への投稿や著作「石坂宗哲流鍼術の世界」などの労作が知られている。町田氏の著作は入手できなかったが、後藤光雄氏の「石坂流鍼術の特質」をネットで発見できたので、その内容を簡単に紹介する。なお後藤氏は町田氏の徒弟にあたる方である。

①神部の銀鍼、寸5または2寸を使用。
②誘導刺
誘導刺(杉山真伝流の管散術で、切皮したまま管ごとトントンと繰り返し叩打)を肩背部から腰部にかけてて脊椎両側に約5分間行い、深刺の準備を患者に与える。
③背部深刺
伏臥位にて、肝兪・脾兪・胃兪・三焦兪・腎兪;腎兪・大腸兪などと、その高さの夾脊穴に四診あれば深刺する。深刺しなければ深部の硬結はとれない。硬結がなければ刺さない。深刺は、ゆっくりと時間をかけて深部の硬結を揉撚し、置針の際も両手を離さず鍼をもったままにする。
後頭部では、天柱・風池・大杼・瘂門。以上に25分間。
④仰臥位
腹部(中脘;中管、陰交、関元;關元、章門、期門)、喉部(天突、人迎、甲状軟骨周囲)、肩甲上部(肩井、肩髎、肩外兪、秉風)以上に10分間。
⑤手足は補助的にのみ行い、普通は省略する。
                  (治療時間は、約40分間)