AN現代針灸治療

ANとは「にただあつし(似田敦)」のイニシャルです。現代医学的知見に基づいた私流の針灸治療の方法を解説しています。

舌痛症の針灸治療からの考察(54才女性)

2022-07-23 | 歯科症状

1.主訴:舌が痛む

2.現病歴、所見
2年前、逆流性食道炎。内服薬で寛解。4ヶ月前から舌が痛くなった。歯科受診すると、精神科で向精神薬処方するよう指示されたが、これは違うと思い、当院ブログをみて当院受診したという。
舌はとくに前方がピリピリする。ちなみに舌はやや肥大で舌質は薄いピンク色。舌苔は白く厚かった。唾液量は正常。顎関節正常。腹部に硬結や圧痛なく、背部は左上~中背部の起立筋緊張あり。不眠なし。

3.病態把握

舌痛症は、症候性が1/4、本態性が3/4である。ただし全身症状良好で精神症状もないようだった。事前に歯科を受診で精神科紹介されているのでひとまず症状性を除外できたので本態性と判断した。

なお舌前2/3の知覚は三叉神経第3枝の舌神経(下顎神経の分枝)で、舌骨上筋群の知覚は下歯槽神経(下顎神経の分枝)であるが、研究者の報告によれば、これらの神経をブロックしても舌痛症状はあまり変化なかったという。そこで舌痛症の現代医療では抗うつ剤投与し、肩こりや不眠などの合併症状に対しては星状神経ブロックが行われるようになった。

 

 

4.針灸治療
 
知覚神経に対する神経ブロック法があまり効果ないということならば、舌痛の原因として疑わしいのは舌痛をもたらす前頸部とくに舌骨上筋の顎二腹筋後腹のトリガー活性である。

舌痛症にマッサージを試みた報告を発見した。舌痛症を筋膜性疼痛症候群(顎舌骨筋・内側翼突筋・胸鎖乳突筋・後頸筋、肩甲上部の僧帽筋)の索状硬結部に圧迫と圧搾マッサージを30分間実施。その際、皮膚表面の摩擦を少なくする目的でマッサージ用オイルを皮膚表面に塗布。自宅ではセルフマッサージ、ストレッチング、生活習慣の指導を併用。4ヶ月間で6回治療で舌の自覚症状や味覚障害が改善したという。
(原節宏、滑川初枝「二次性Burning Month syndromeに筋膜トリガーポイントマッサージ療法を適 応した一例」日本口腔顔面痛学会誌、2011)


5.針灸治療 

トリガーポイント針治療では、筋緊張を問題にしているので、上述報告の施術部位を針に置き換えればよい。初診時には当初、舌上筋部の顎二腹筋後腹に硬結を発見したので、この硬結中に寸6#2で4本を5分間置針、他に上部消化器反応の可能性を考え、腹臥位で左肩甲間部~中背部の筋緊張に対し、起立筋を緩める目的で5分ほど置針。以上で治療終了。舌骨上筋の硬結に対してはせんねん灸を自宅施灸するよう指示した。


6.経過

1週間後再来。舌痛症状は1/3ほど改善し、光明が見えてきたとのこと。
前回治療で最も効果があったと考える舌骨上筋群反応点への刺針は、硬結を治療点として選穴したのだが、もっときちんとした反応点を見出そうと思い、刺針体位を工夫してみた。
それは仰臥位で上部胸椎部下にマクラをはさみ、頸部を過伸展体位にして、舌骨筋を再度触診してみた。すると前回とはことなり、顎舌骨筋部にシコリを触知できた。前回よりも刺激量を増やしても大丈夫そうだったので、2寸#4針に変更してシコリ中まで刺針、5分間置針。置針している間唾液を数回ゴクンと飲ませる一種の運動針を行った。他の治療は前回通り。
 
さらに1週間後再来。舌痛症状は1/2程度になったとのこと。舌骨上筋の圧痛は、左の顎舌骨筋・茎突舌骨筋・顎二腹筋後腹にあったので、硬結を目安に寸6#2で2㎝刺して数分間置針。1日数回自分で、左舌骨上筋の圧痛点を押圧するよう指示した。

 

 

 

上図の説明
舌根穴は、いわゆる舌の根もとの部分で、舌痛に使用。廉泉穴より左右外方1㎝の部は甲状舌骨膜にある上喉頭神経刺激。上後頭神経は咽頭知覚を受け持っているので、本穴からの刺針は、咽痛の対症療法として使用。

 

7.補足:喉のつまり感について

ノドのつまり感は、嚥下の際に強く自覚する。嚥下運動は、咽頭にある食塊を喉頭に入れることなく食道に入れる動作で、この食塊の進入方向を決定するのが喉頭蓋が下に落ちる動きである。この喉頭蓋の動きは喉頭蓋が能動的に動くのではなく、嚥下の際の甲状軟骨と舌骨が上方に一瞬持ち上がる動きに依存している。嚥下の際のゴックンという動作とともに甲状軟骨が一瞬上に持ち上がり、喉頭蓋が下に落ちる動きと連動している。
つまり舌骨上筋の過緊張でも、喉の詰まり感は生ずる。治療は舌骨上筋の緊張を緩めることにある。

 


口内炎の針灸治療 Ver.1.4

2022-07-15 | 歯科症状

1.口内炎の原因

口内炎とは口腔内にできた炎症の総称で、部位別では舌炎・口角炎・歯肉炎などに分類し、性状別ではカタル性・アフタ性・潰瘍性・壊疽性などに分類する。.アフタ性口内炎は
最も多い口内炎で、口腔粘膜に生じる浅い潰瘍(びらん)のことをいう。直径数ミリのびらんが発生し、しばしば中心に白苔をもつ。周囲に10日ほどで消えるが再発を繰り返しやすい。食に際して痛む。アフタ性口内炎の診断には、単純性ヘルペスとの鑑別が必要である。単純性ヘルペスは数個でき、微熱出現する。なおベーチェット病では直径1㎝ほどの大きなアフタができる。

1)創傷性
       口腔の傷+唾液量減少 →  細菌を洗い流せず口内細菌増加→炎症→(潰瘍)口内炎
                 ↑
       ストレス・新陳代謝減少→口腔粘膜の新陳代謝低下→口内炎

口腔の傷の原因は、歯ブラシで傷つけたり、歯で粘膜を噛んだり、魚の骨などが刺さるなど。口内炎患者の口腔内では、常在菌が繁殖して炎症を起こしている。多くの場合は、唾液によって細菌が洗い流され、口内炎になる前に傷が治癒するのだが、唾液分泌が減少して口腔内乾燥すると口内炎になりやすい。

口の粘膜は絶えず新陳代謝で再生してるが、疲労やストレス時ではで新陳代謝が低下し、口内粘膜の代謝も減少し、悪化するとアフタができる。

口腔内乾燥の原因の一つに、声の出し過ぎや女性ホルモン不足がある。
更年期にみる口内炎を、とくに「更年期口内炎」とよぶ。


2)ビタミンB群不足


口内炎に対し、内科医では、まずビタミン不足を考え、ビタミン剤(チョコラBBなど)を投与するという。

(ビタミンB2不足→口角炎、ビタミンB6不足→舌炎、口内炎)
または口内細菌を殺す目的でトローチを投与。
ビタミン不足が原因で、口内炎になるケースは、1~2割とされ、当然ながらビタミン不足でない者にビタミン剤を使うことは無意味である。まずビタミン不足を考え、ビタミン剤(B6やB2)を投与。口内細菌を殺す目的でトローチを投与することもある。

※腸内細菌はビタミンB1、B2、B6、B12を合成するので、他疾患治療のための抗生物質の長期投与や下痢症では腸内細菌を殺すことになる。



3)免疫力低下


睡眠不足、過労、ストレスなど。ほかに抗生剤、ステロイドの長期服用による。



2.重篤疾患との鑑別


1)ベーチェット病

口内炎で重要なことは、単独で捉えてよいのか、それとも全身性疾患の部分症状なのかという点である。全身性疾患の代表に更年期障害とベーチェット病がある。
ベーチェットでは直径1㎝ほどの巨大なアフタ性口内炎が初発する。
 
2)口腔癌
口内炎から癌に進行するわけではないが、癌の初期状態に、口内炎によく似ている白板症(はくばんしよう)  とや紅板症(こうばんしよう)といった病変がある。


3.口内炎の現代医学治療


傷や潰瘍で細菌が繁殖→白血球など免疫細胞が戦いを始める→この戦いで組織が破壊されることが炎症、すなわち痛みとなる。すなわち、口内細菌の繁殖を抑えることが根本的な治療になり、その他の治療は、対症療法にすぎず、したがって再発予防には役立たない。


1)うがい
殺菌成分入りのうがい薬(イソジンなど)や洗口液を使ったうがいが効果的である。
20秒間のうがいを3回すれば、口内細菌量が1/10になる。

2)ステロイド系の塗り薬
免疫を抑制し、痛みを和らげる働き→原因をなくすのではなく、症状を緩和させる作用。病院で処方される口内炎の塗り薬の大半がこのタイプ。代表藥はケナログ。口内炎により、痛くて食事ができない場合、とりあえず痛みを抑える意義がある。

3)その他の殺菌・消炎成分入りの塗り薬
大半が市販薬がこのタイプ。塗った場所だけの局所的な殺菌効果である。

4)外科的治療
かつては口内炎部を硝酸銀で灼焼する方法が用いられたが、最近ではレーザー照射がこれに代わった。粘膜を灼焼して痂皮をつくり、外部刺激を遮断することで鎮痛を図る。口内炎部を、すべて痂皮で覆えば鎮痛できる(不完全では痛みは取れない)
  

4.口内炎の針灸治療


舌や頬粘膜、口腔底の痛みは、舌粘膜知覚刺激の結果であり、これは舌神経(三叉神経第Ⅲ枝の分枝。舌前2/3の粘膜の感覚支配)により中枢に伝達される。他に舌には鼓索神経(顔面神経の枝。舌前2/3の味覚支配。顎下神経節への副交感神経線維)が入る。

   
針灸治療は、項筋緊張緩和→C1~C3神経の鎮静→三叉神経第Ⅲ枝の鎮静→口内炎の鎮痛、という治癒機転を考える。要するに、項部のコリを緩めることが重要である。



1)線香の火の瞬間的接触
 
局所を焼く対症治療で、以前行われた扁桃炎に対する硝酸銀塗布と同じような意義がある。確かに施術直後から痛みを減らすことができる。これはレーザー治療と同じ考えである。
患者は瞬間的に熱く感じる。治癒機転を高めるという効果はあると思うが、口内炎部分を、まんべんなく焼く訳にいかないので、即座に鎮痛はできない(減痛はできる)。

2)交感神経興奮させる目的で、座位での大椎や治喘からの強刺激
   
3)肩髃刺針

長尾正人氏は口内炎の鎮痛に効果があるとして、「肩髃の一本」(医道の日本、平成10年7月号)を紹介している。肩髃穴に、2番針を1㎝ほど刺入、痛みがとれるまで雀啄または10分間置針する。5分以内の置針では効果はなく、7~10分間の置針で、ほぼ確実に数分で痛み消失するという。臂臑よりも効く。

筆者は、数例の口内炎患者に肩髃置針15分間を追試してみたが、明瞭な効果は得られていない。しかし中には「追試して効果があって驚いた」との意見もあった。肩髃刺針の有効性の根拠を推察するに、おそらく頸部交感神経節を刺激した結果、口腔粘膜の血流量が増加して治癒機転が働くのだろうと私は考えている。だとすれば肩中兪からの深刺でも同等の効果が得られると思われる。
 

4)ハスの灸

家伝の灸として「ハスの灸」が知られている。ハスとは長野県北部の狭い地域にみる方言で、化膿姓疾患のこと。植物のハスのことではない。歯バッスとは急性歯肉炎のことをいう。抗生物質のない時代のこと、当地域では「ハスには刃物を見せるな灸で治せ」といわれていたという。ハスの灸の取穴は不明瞭な部分はあるが、歯痛側の肩骨(=肩峰?)の前方2寸の圧して痛む処(肩髃?)。さらに(肩骨から?)背骨に向かって3寸の圧して痛む処(肩髎?)の2点である。この2カ所に米粒大の固ひねりの艾炷を2点交互に時々灰をとりながら20壮以上すえる。一言でうなら肩関節周囲の圧痛点への多壮灸治療で、除痛効果・排膿効果が期待できるという。(池田良一「家伝の灸-ハスの灸」歯肉炎の灸 全鍼誌 51巻3号 2001.5.10)

私は口内炎に対する肩髃の鍼の効果について、懐疑的であったが、ハスの灸の存在を知ることで、今では肩関節と口内炎・歯肉炎の顆に関連性があるようだと考えを改めるようになった。


5)口角炎に対するせんねん灸

1週間前から右口角炎となった。食事をすると口を大きく開けると痛み、かさぶた破けるので治癒なかなか軽快しない。口角炎には灸がよいことを思いだし、せんねん灸(息吹)を局所にすると、気持ち良い熱感を感じたので、もう一壮実施。直後から開口時の痛みは半減した。 
   


代表的な薬物灸について ver.2.4

2022-07-15 | 灸療法

はじめに
東洋療法学校協会編の「鍼灸実技」教科書には、薬物灸の説明が載っている。現在のわが国において、薬物灸を実際に行っている処は非常に少ないのだが、灸基礎実技の担当講師は、不案内なのにも関わらず、立場上薬物灸について一通り説明する必要にせまられる。

薬物灸について簡明に、かつ興味深く、教えるにはどういう内容にいたらよいのだろうか。私が過去に教えた内容を記すことで諸先生方の参考に供したい。2016年1月5日、このような出だしで、「代表的な薬物灸について ~灸基礎実技講師のために Ver.1.3」を記したが、薬物灸それぞれについての成分に対する詰めが緩すぎたようだ。この点を考慮して、書き改めることにした。

 

1.天灸
<カラシナの種により皮膚を発泡させる>
 
主成分は、カラシナの乾燥種子である、白芥子(はくがいし)。白芥子は発泡薬であるが、香辛料ホワイトマスタードの原料としても使われる。粉末にした白芥子を水で調合して練って団子状にし、皮膚に貼って1~3時間放置して発疱させる。主に鼻炎・扁桃炎・喘息など呼吸器疾患患者に対して、座位にして大椎・肺兪・膏肓などを選穴する。現在では香港で広く普及している。白芥子には、発泡とともに発疹・発赤・掻痒などをもたらす。
 
発泡薬とは、血管壁に作用して血管拡張作用があり、皮膚透過性があるので、疼痛・発赤、ついで漿液性滲出をきたし、局所に水疱が生ずる。要するに人為的にⅡ度の火傷を起こさせる。  

 

 

 

 

 

2.漆灸
<生漆により人為的に接触皮膚炎を起こす>
 
漆灸の主原料は生漆で、生漆十滴、これに樟脳油(皮膚にスースーした冷感と清涼感の香り)十滴を調合し、ヒマシ油適宜をよくまぜ、モグサにしみこませて肉池のようにして置き、これを小さい箸先で穴部につけるだけ。
別法として乾漆一匁(もんめ≒3.5g)、ミョウバンン十匁、樟脳5匁、モグサ適宜を粉末にして。黄柏の煎汁につけて、モグサに混和浸潤させ、穴部につけるというのもある。後述する駒井博士の穴村の灸=墨灸というのは、漆灸のことだという。墨灸も漆灸も小児病に多用された。

※生漆による皮膚カブレ反応は遅延性で1~2日後に生ずるが、ごく少量皮膚につけるだけなので、有益な刺激だけになるのだろう。
 

①漆

毎年、初夏から秋口にかけて、漆の木の樹皮に傷をつける。すると乳白色の樹液が染み出てくる。これを掻き出したものを生漆という。生漆を濾過して煮詰めたものが漆である。漆の最大需要は、漆器などの天然樹脂塗料としての用途で、美しい艶がでるようになるとともに耐久性も増す。
    
漆は乾いてしまえば健康被害は与えないが、乾いていない樹液はカブレを起こす。このカブレはアレルギー性接触性皮膚炎を生じたもので、漆が肌の毛穴についた時に皮膚のタンパク質と、漆の主成分ウルシオールが反応して起こる遅延性アレルギーで、漆に触れてから1~2日経ってからカブレ(激しいかゆみ、赤い発疹、水疱)が生じ、1ヶ月近く続く。

②樟脳(カンフル)
クスノキの幹を砕いて蒸すと樟脳ができる。樟脳には爽やかな芳香があり、皮膚の神経の冷感を刺激する(ただし実際の皮膚温は下がらない)。かつては強心剤として樟脳からつくる精油カンフルを用いた(実際には無効だった)ことがある。クスノキの周りには虫がよってこないことから、樟脳は防虫剤としての用途もあった。しかし現在では安価なナフタリンにとって代わった。

③ミョウバン(硫酸カリウムアルミニウム)
温泉にある「湯の花」とは、ミョウバンが固まったもの。雑菌の繁殖を防ぐ作用。防腐作用として食品添加物の用途、制汗剤や静臭剤スプレー成分としての用途。湯船にミョウバンを入れて入浴すると、体脂がとれてすっきりするという。

3.水灸
<皮膚に対する冷感と清涼香>
 
いくつかの薬物に組み合わせがあるが、代表的なのは薄荷、竜脳、アルコ-ルを混和したもの。筆、箸、棒などを用いて皮膚に塗布する。薄荷と竜脳は皮膚に冷感と爽快な香りを与える。ただしこの冷感は、実際に皮膚温を下げた結果ではなく、皮膚神経に「冷たい」という錯覚を起こさせたもの。しかしアルコールを加えることで塗布した部分の気化熱を奪うので皮膚温を下げる作用も多少あるだろう。現在市販されているサロンパスやタイガーバームの作用に似ている。
 
①薄荷(ハッカ)
ハーブの一種の草の葉のこと。Lメントールは薄荷の精油成分。冷感と清涼な香を付加する。ただし皮膚温度を下げる作用はない。
  
※余談:テレビ番組の<ナイトスクープ>で、「アイヌの涙」という入浴剤を入れると、熱い湯でも冷たく感じるという現象を放映したことがあった。「アイヌの涙」の正体はハッカ油で、湯船に数滴垂らすのが正し方法なのに、多量に使った結果だと分かった。皮膚に対する熱湯刺激と、皮膚の冷感刺激で、脳が見事にだまされた現象であった。 
 
②龍脳
龍脳は、竜脳樹という樹木の幹を砕いて蒸して採取する。龍脳の別名はボルネオールで、ボルネオ島がその由来。皮膚に対する冷感と清涼香を与える。龍脳は、書道で使う墨(すみ)の香料としても知られる。墨の香りは、心が落ち着き、幽玄な雰囲気に浸れるとされる。

 

4.墨灸
<墨の香り龍脳>
 
墨灸とは、生薬エキスに墨を垂らしたものを、ツボに筆などで塗る治療法で、火は使わず、熱さも熱傷跡も皮膚に残らない。幼児・子供の夜泣きや疳の虫、おねしょの治療として普及した。何種類かの生薬の組み合わせがあるが、一例を示せば、<黄伯(おうばく)を煎じてその液で墨をすり、樟脳、ヨモギなどの生薬を混ぜてできたものを、筆でツボに塗る>というもので、スーッとするようなヒリヒリっとした感覚である。
 
琵琶湖湖畔の草津市穴村(温泉で有名な群馬県草津とは無関係)の墨灸は有名で、紋状に跡が一時的に付くことから“もんもん”と呼ばれ親しまれ、1日300人多い時に1000人の患者が来院した。 ※もんもんとは、入れ墨の別称。
 
①墨
墨の成分である龍脳(ボルネオール)の心落ち着く香り。遠赤外線効果が治効に関係しているという見解もある。
 
②黄伯
樹皮の内側の内皮が黄色のことから命名。主成分はベルベリンで非常に苦く、内服としては下痢止めに使う。大幸薬品の「正露丸」には黄柏を配合している。外用としては、打ち身・捻挫などに用いる。水で練って湿布のようにして貼ると、冷感が得られる。


※岡山県に天台宗寺院の「鏡之坊教会」がある。墨灸は、この寺に代々伝わったものであるという。この寺の灸は隔物灸で、厚さ約2~3㎜、直径約2㎝の灰色の軟らかい粘土状のもの(墨+保存用の塩+数種類の材料)を皮膚に置き、その上に小指大のモグサをのせて2~3壮施灸する(病気や症状によっては多壮灸することもある)。この隔物は湿っているので、皮膚に加わる灸熱もじんわりしたかなり熱いものになる。施灸後は水疱ができたりときに化膿することもあったが、現在は患者が嫌がることもあり、以前に比べると緩やかなものになった。治療点は、基本的な経穴を決め、あとは症状に応じた治療点を選ぶ。基本的な治療点として重視しているのが、足と腰(湧泉、命門、腎兪または志室)。以上、原田滋泉氏報告を少々改変 「家伝の灸-墨灸」について 全鍼誌51巻3号、2001.5.10.


5.紅灸

<プラセーボ効果としての赤色染料>

紅花(べにばな)は、黄色と紅色の2種の染料がとれる。黄色の染料は、紅花を湯で煮るだけで採取できるので安価で、庶民の衣類を染めるのに用いた。一方紅色の染料を採るには、黄色染料を洗い流した後、水にさらして乾燥させる。これを何度も繰り返すと紅色にするという手間のかかるものだった。この紅色染料は、大変高価なもので、富裕層の衣類や口紅などに用いた。
 
紅灸は、紅花から絞った汁(紅花水)をツボに塗布する。赤色は血の色であることから、古来から生命増強の力があるとされた色で、赤ちゃんのお宮詣りや祭りの時、額に紅をつけた。紅灸で、紅花水を使わず、単なる食紅を水で溶いて、使ったという例もあるようで、プラセーボ効果のようでもあった。 
 
※現在、紅灸を製造しているのは、鹿児島の本常盤というところ(販売は丸一製薬)のみ。
実際の紅花水の成分は、紅花の絞り汁の他に、樟脳(冷感と爽快な香り)・チモール(爽快な香り)・トウガラシチンキ(温感)・サリチル酸(血管拡張)・Lメントール(ハッカの有効成分で冷感と爽快な香り)などを含有している。温感成分と冷感成分が両方入っていることで、サロメチール・キンカンを薄めたような刺激感が得られる。


6.総括
 
水灸・墨灸は、血管拡張作用のあるサリチル酸メチルは含まれないが、ハッカ・樟脳・龍脳が含まれ、これにより冷感と爽快な香りを与えることがわかった。要するに、現代でいう冷感湿布であるサロンパスのようなものだろう。ただし実際に皮膚温を下げる効果はあまりない。
 
ポカポカした温感を感じさせるには、ハッカ・樟脳・龍脳に加えてトウガラシ(有効成分はカプサイシン)を配合している。要するに温感湿布にも、冷感成分は入っていて、またカプサイシンによる実際の皮膚温上昇はあまりない。現代の市販薬では、キンカンやサロメチールがこの範疇である。薬物灸でこの範疇に入るものは皮膚に炎症(発赤・掻痒・水疱)を起こすことを狙いとする天灸だろう。ちなみに皮膚温を上げるには、現代ではホカロンなどの使い捨てカイロが手軽である。
 
ユニークなのは、天灸と漆灸だった。天灸は白芥子塗布によりⅡ度の火傷を起こし、水疱をつくる。漆灸は生漆を皮膚にごく少量接触させることで、接触性皮膚炎(発赤・掻痒・水疱)にもっていく意図があるのだろう。