AN現代針灸治療

ANとは「にただあつし(似田敦)」のイニシャルです。現代医学的知見に基づいた私流の針灸治療の方法を解説しています。

間中喜雄著「PWドクター沖縄捕虜記」と平和碑  ver.2.1

2022-11-09 | 人物像

1.「PWドクター 沖縄捕虜記」とは

間中喜雄先生は医師となって間もなく招集を受け、5年余を軍隊で過ごしている。この間の最後の1年、すなわち終戦直前から沖縄本島での捕虜生活の様子が、自著「PWドクター 沖縄捕虜記」(1962年金剛社刊)に記録されている。なおPWとは、prisoner of war (戦争捕虜)のことである。私は35年ほど前に古本で800円で入手したが、すでに絶版で入手困難である。
間中先生が世間に広く知られる存在になるのは1950年の日本東洋医学会設立時頃からであり、以後は中国、アメリカ、フランス等世界中で講演活動することになる。
本書は、いわゆる"世に出る"前の下地形成の資料として格好な読み物となっている。

2.間中喜雄の前半生の年譜
明治44年 小田原生まれ
昭和10年(24歳)京都帝国大学医学部卒業。その後、東京で2年間の外科研修
昭和12年(26歳)父親の代から続く小田原の「間中外科病院」を継承
昭和15年7月(29歳)招集 東部12部隊野戦化学実験部に配属。その後復員。
昭和16年(30歳)宮古島、豊部隊山砲兵第28連隊に陸軍軍医中尉として再度配属。
昭和19年10月 アメリカ軍の宮古島空爆開始、以後連日のように空爆を受ける。
昭和20年9月(34歳)無条件降伏 
昭和20年11月 アメリカ占領軍が宮古島初上陸。捕虜となり、沖縄本島へ輸送。
         屋嘉戦争捕虜収容所で10日間過ごす
昭和20年末 嘉手納第7労働キャンプに移動。医師として10ヶ月間労働
昭和21年12月(35歳) 那覇港→名古屋、復員。10ヶ月間の労働賃金は90ドル。
           (以後省略)

3.PWドクター時代の間中先生の日常

間中喜雄先生(本書では新納仁としている)は沖縄の一孤島である宮古島(本書でM島としている)に陸軍軍医中尉として配属された。宮古島は沖縄の遙か南200㎞下った孤島である。
宮古島に間中先生が配属されて数年後からアメリカ軍の空爆が連日のように始まり、軍事基地だけでなく市街地も廃墟同然となり、深刻な食糧難、非衛生状態の蔓延から、風土病であるマラリアが大流行していた。当時宮古島には、終戦当時、2万人の日本兵がいた。

しかし本書は、そうした凄惨な状況には触れていない。基本的にはユーモラスな自伝であり、終戦宣言後の、混乱状態から書き起こしている。宮古島では激しい爆撃はあったが、アメリカ軍の上陸による戦闘はなかったせいか、戦後に来島したアメリカ占領軍に対しても、敵愾心がおきないらしく、元日本兵は従順にアメリカの指示通りに動いた。
(沖縄地上戦の後に捕虜となったものは、宮古島出身兵と異なり、極限的な体験をしたので、捕虜生活というのは魂の抜け殻のようだったらしい。)

嘉手納労働キャンプで、初めてナマでアメリカ人の社会の一端を知ることとなり、カルチャーショックに襲われた。豊富な物資、機械化、スピーディーな事務処理、あけっぴろげな人間性について、驚きは大きかった。一方、厳しい軍紀下にあった日本軍内での将校や兵も、同じ捕虜として対等な立場になった。いままでの価値観や規律は一気に崩壊した。

本キャンプには、二千名ほどの捕虜が集められたが、英語の達者な者は2名のみ(うち1名は二世)。間中先生も、少々英語を操れるというので、重宝された。
元々秀才だった間中先生にしても、ナマの英語を身近で見聞きするという生活は、初めての訳で、実践英語の良い英語訓練の場となった。手元に辞書がないので、相手の言っていることを推理する他なかった。アクセントを間違えたら、ありふれた言葉も通じないこと。自分は、アメリカ日常用語を知らないことを痛感した。間中先生は、近い将来、国際的に活躍することになるが、その下地が形成されたらしい。
  report→出頭する(報告せよ) observe→出席する(見る
  火が消える→go out   火を消す→put out    cot→簡易ベッド
  必要である:It is indispensable. →I cannot do without it.
英語では、このDO  TAKE  MAKE  PUT  GO  GET というようなやさしい言葉の組み合わせで、いろいろな言い廻しができる。読み物もないので、米軍娯楽用の小説を図書館から借り受けて読んだ。辞書がないので、判らない字は飛ばして読むのだが、こうした楽な読み方が非常に英語の勉強になるという。

一般兵(将校以外)は、強制労働で、木工、土工、給仕、コック、ペンキ吹きつけ、倉庫番、荷役、掃除など。午前8時出発、作業中止が午後4時、午後5時到着。土曜は半休で午後はスポーツ。祝祭日は休み。食い物は米軍と質・量ともに同じ。きびしく鍛え上げられた日本兵からすれば、非常に楽な生活だった。日本人は働き者が多く、しばらく作業所に通っているうちに信任を得てアメリカ軍の監督なしで作業する者も多くなった。
終いには、爆弾庫の管理、武器の管理まで捕虜に任せた。
敵と戦う必要がなく、食べ物も豊富にあるとなると、暇つぶしの方法が問題になってくる。

捕虜の一人が踊りのお師匠さんがいて、踊りの稽古が始まった。これが高じて、カテナ納涼大会が発足。盛大に踊りの輪ができた。やがて風呂設備や床屋、スポーツ施設(野球、ピンポン、バトミントン、バレーボール、バスケットボール)も完備。収容所同士のリーグ線や米軍と試合するのもできた。土俵もつくり、番付までできた。最も豪華だったのは演芸分隊で、田舎の芝居小屋ぐらいにはできた。この演芸が収容所生活最大の慰安だった。手元には脚本や参考書もないはずなのに、毎週出し物を工夫した。

4.面白かった文章の一部

1)宮古島の対空射撃について:我が軍の対空砲砲火は、まったく敵飛行機に当たらなかった。後期になると、砲弾を節約するため豊式爆弾を使用。豊式爆弾というのは要するに打ち上げ花火のことである。これで飛行機が落ちますか?と問うと「落ちはしまいが、敵は驚くだろう」(大きな音がするので)と答えた。
2)終戦後、宮古島にも飛行機がDDT(新型殺虫剤)を散布。人畜無害なのに、目立って蚊や蠅が減り、その効果に驚いた。
3)宮古島から沖縄本島への輸送船内では、あちらこちらで車座になってサイコロ、トランプなどの賭博横行。湯飲み大の缶詰を2缶配給された。1つはビスケット・レモンジュース・ジャム、もう1缶には、肉や豆が入っている。久しぶりの美味に、こんなうまいもんが世の中にあったのかと思う。
4)かつての大隊長も同じ捕虜キャンプに集められた。間中先生の姿をみて大隊長曰く「やあ貴公もここへ来たかや」と言ったといって、ご機嫌だった。同じ不幸は仲間が多いほど慰められるし、同じ幸福なら仲間が少ないほど得意なものである。
5)カデナ労働キャンプ内には、他に医師もいた。大柄なその医師に身長を問うと、「目の下170です」と奇妙な挨拶をした。
6)毎日、ジャムの5ガロン缶が十人に1つの割合で配給がある(1ガロン≒3.8リットル)。始めは珍しくてペロペロなめていたが、だんだんと飽きて見向きもしなくなる。そのジャムとイーストを混ぜて五ガロン缶に入れておいた。次の日衛生兵が大声を挙げて「できました。こりゃいけます‥‥」とジャム酒をもってきた。甘口のどぶろくと化した。酒の醸造法も、たちまちカデナ全体の流行になった。
7)ラジオが日本の君が代を放送した。日本を敵として戦ってきたはずの米兵たちが起立して敬意を表している。日本の捕虜たちは戦争が負ければ国家もくそもあるものかいといった顔で知らん顔している。

 

5.間中喜雄の「平和碑」について

私は「PWドクター沖縄捕虜記」を読み、間中喜雄にとって、太平洋戦争が世間一般の常識とは異なり、苦しみの体験という印象はあまりないように感じた。ところが最近、間中の地元である小田原市郊外の東泉院という寺に、間中作の「平和碑」のあることを知った。間中が死去したのは1989年なので、少なくとも30年以上前に作られたことになる。間中は書画の才能もあったので、石版に文字を刻み石像も自作した。石碑の文章をみると、間中の戦争体験が悲痛であったことを改めて知らされた。

東泉院入口

 

 

以前は違ったが、石碑の文字の周りが白くなっている。タワシなどで擦ったのだろうか。誰かが文字を鮮明にさせるためにやったものだろう。

「何のために死んだのか判らない人たちに捧ぐる碑」
平成元年十一月、間中喜雄によって小田原市久野の東泉院に造立された慰霊碑)

間中喜雄 平和碑

戦争の狂気が国々を侵すとき無数の
無垢の人々がいたましくもその犠牲になって殺されてゆく

 

この碑文は、民間人が戦争で殺された不条理に対する無念を表しているものだが、具体的には原爆で亡くなった犠牲者に対する無念のようだ。脇にある詩碑の写しには次のように示されている。

九泉の地底より 千仞の天まで
一と数え 拾百千と読み 万億兆と叫び 
血を吐きて、なお反響も無き寂滅 
頭を打ちつけ 地団駄を踏み 転輾反側すれど こたえも無き無明 
迷蒙より諦観へ 暗黒より光明へ身をもんで求むれと無
真理は虚妄 善は仮象 愛染も空し
右顧左眄して 眼睛何を見んとするや 
須是を永遠とし 屈折し 展しまさぐり 喝仰し 何をか得たる
神神は死し 大地は枯渇し 七つの海に魚も住まず 
魂魄も息づかざるに いづかたに理想あるや
うめけ泣け苦しめ是れ 形骸を烈火に点し 無に帰れ 
すべてのもの失せて消滅せん

原爆の日にうたえる

間中喜雄(印)
平成元年十一月

 

 


美容鍼入門講座(全1回)実施しました(再録)

2022-11-08 | 講習会・勉強会・懇親会

令和4年9月11日、美容鍼講座を実施した。その時の模様は、すでにブログに載せたが、別の原稿を上書きして消去してしまった。あまりのショックに長らく放置していたが、あれから2ヶ月経った。気を取り直し、まだ私の記憶に残っているうちに、かいつまんで内容を紹介する。講師の小村はるみ先生は、新潟県長岡市でエステサロンを経営していたが、約10年前から美容鍼を取り入れているとのこと。

日時:令和4年9月11日8日曜)午後4時~8時
会場:国立市中1丁目集会所
指導者:小村はるみ(新潟県長岡市にて開業)

開催者:似田敦
実技助手:岡本雅典
参加者:11名

 

美容鍼の作用の似田私見(小村はるみ先生監修)

総論
1.顔面表情筋のコリをゆるめる作用
  皮膚と筋の乖離が減る → シワ、タルミが減る
                          ↑
                  両者を密着させているのがスマス
 
2.シワ≒リガメント( 筋をつなぎ留めるクイ)リガメント部分にスマスはない。
   シワを目立たなくさせるには真皮機能を復活させる。
   それには真皮を刺激・微細内出血させ、線維芽細胞を増産すること。
   これによりエラスチン・コラーゲン・ヒアルロン酸の分泌復活。
   リガメントの上下左右にこそスマスがある。スマスが緊張すると柔軟性を失った真   皮にシワができる。真皮の柔軟性を復活させることが重要。
      ※真皮の構成語呂:エ(ラスチン)コ(ラーゲン)ヒ(アルロン酸)いきした真否

各論
1.たるんだ頬のリフトアップ
 前頭筋(前頭後頭筋の)と側頭筋(側頭頭頂筋の)の筋収縮力を復活させる?
 それには皮膚を上方に引っ張りつつ上方に向けて斜刺、数秒間そのまま。
 30分置鍼(10分程度の置鍼では不足)
    代表穴は、前者が頭臨泣穴、後者が太陽穴や曲鬢穴
2.目の下のクマ
  眼輪筋緊張度がゆるんだことで、眼球の重みに耐えきれず、眼輪筋が前方にふくれる。  これは眼輪筋の筋力トレーニングを実施。目を閉じ、自分で上まぶたをおさえながら、  目を開けようとするトレーニング。

3.ゴルゴライン
  目の下から頬にかけて斜め下方にのびる溝のこと。
  目の下のクマと同様、頬部皮下組織の重さを支えきれず、垂れ下がった状態。 
  治療:①ライン直上からは真皮に対する浅刺(リガメントに対して) 
          ②ゴルゴライン下のリガメント近辺にある拘縮した上唇挙筋郡筋腹の拘縮を取るために硬結点に15㎜ほど直刺で何本か刺針
 4.ほうれい線
   大・小頬骨筋の過収縮。顴髎のコリをゆるめる鍼。
      マリオネットラインの治療も同時に実施

5.マリオネットライン
   口角下制筋の過収縮。地倉外下方のコリを緩める鍼。

 

 

 


三重県鍼灸会館での三県合同鍼灸研修会での感想

2022-11-02 | 講習会・勉強会・懇親会

令和4年10月30日(日曜)、三重県鍼灸会館において、第55回「愛知・岐阜・三重三県合同鍼灸研修会」があり、私も演者の一人に招かれ、<根拠のある変形性膝関節症の鍼治療をめざして>といテーマで、前半50分は座学、後半50分は実技デモというスタイルで実施した。もうおひと方の演者は、砂川正隆先生(昭和大学医学部 生理学講座整体制御学部門 教授)で、<鍼灸のエビデンス>というテーマで90分の講演を行った。私とは全く異なる正当派基礎研究で、鍼灸臨床に応用できそうなネタを数多く紹介してくださった。三重県鍼灸師会の委員は、細かいところまで配慮が行き届く方が多く、かつ平均年齢も若い印象を受けた。とくに松山真理子先生は私との連絡の窓口となりお世話していただいた。この研修会のため、zoomで打ち合わせ会も行い、準備万端だった。

この3年近く、zoomによる研修をしてきており、今回が久々のリアルな研修会となったとのこと。zoomによるお手軽な参加に慣れたことと、他の研修会の日程と重なったこともあり、集まったのは21名ということだった。

津市に行ったのは初めてのことで、三重県鍼灸会館に行ったのも当然初めてだった。この会館は津駅から徒歩10分ほどで交通の便がよい。2階建てのビルで一階は事務室、二階は研修室で、定員は40名だという。横一列は、3人用長机が2台おけるので、結構ゆったりした設計になっている。

上写真は大通り沿いになり、下写真は裏通り沿いになる。普段の出入りは、裏通り側から行う。

 

 

2.似田発表「根拠のある変形性膝関節症の鍼治療をめざして」の序文

初めは「根拠のある変形性膝関節症の鍼灸治療」とのタイトルだったが、あまりに図々しいので「・・をめざして」を付け加えた次第。
スポーツ外傷のように突然生じた膝関節痛や、化膿性膝関節炎のように膝関節部に強い熱感・腫脹・自発痛がある場合は針灸不適応である。しかし慢性的な膝関節痛であれば針灸禁忌の例はまずない。慢性膝痛に対し、医師は変形性膝関節症という診断名をつけ、理学療法を行うことが多いが、理学療法は即効性に難がある。

変形性膝関節症に対する針灸治療は昔から行われてきているが、今日になっても治療理論に中身がなく、せいぜい膝周りの圧痛点に針灸をしているかのようだ。
私も鍼灸臨床を続けること四十年を越え、これまでの知識・技術を多くの先生方へ広めるべき段階となった。この機会に、変形性膝関節症の針灸治療において、①どこが悪いのか、②なぜ症状が出ているのか、③どのように施術すると症状が緩和されるのか、という一連の疑問点に、自分なりの解を提示したい。実技を交えて解説する。

3.懇親会

懇親会は津駅近くの小料理屋で開かれた。懇親会には14名が参加した。驚いたのは、鍼灸業界の重鎮である仲野弥和先生にお会いできたことで、以前お目にかかったのは私が医道の日本社新宿支店にいた頃なので、実に45年も前のこと。仲野先生は、当時の医道の日本社専務の戸部雄一郎氏(私の上司)と仲がよく、新宿支店には時々遊びにいらしていた。お二人は花田学園の同窓生であった。昔はひょうきんな感じだったが、現在では迫力が増し精力的でお元気だった。話し方も情熱で、いかにも他の先生方に影響を与えそうな印象をもった。この三重鍼灸会館建設の際も尽力されたそうだ。また名古屋でご活躍中の坂口綠先生は、私主催の<鍼灸奮起の会>の常連だが、今回の研修会にも参加されたので、旧友に再会した思いだった。

下段、左から岡田賢先生(三重県鍼灸師会会長)、私、砂川正隆先生(昭和大学医学部教授)、仲野弥和先生(日本鍼灸師連盟委員長)

 


三重県津市、偕楽公園内<杉山和一、生誕の碑>参拝

2022-11-01 | 人物像

  令和4年10月30日の日曜、「三県合同鍼灸研修会」講師として招かれ、三重県津市の三重県鍼灸師会ビル内で講演をする運びとなった。講演内容に関してはは稿を改めて記すことにする。”三県”とは三重県・愛知県・岐阜県のことである。同時に講演したのは昭和大学医学部、生理学講座生体制御学部門教授の砂川正隆先生だった。その前夜、隣駅の立川駅前を夜10時45分出発、夜行高速バスに乗ること6時間半で早朝5時30分に津駅前に到着した。三重県津市は大阪から南に下った所にあるというイメージがあり、東京から遠いと思っていたが意外と近いことに驚いた。夜行高速バスは横3列シートで横にゆとりがあったのはよいが、同乗者の睡眠妨げるという理由で、窓はずっとカーテンを閉めたままにしてくというルールがあり、車窓を楽しめないのは残念である。

 バスに乗車の際、運転手が私のチケットを調べた。それを見て「ツーですか?」と質問した。私はなぜここでなぜいきなり two と言ったのか理解できなかったので「ツーとは?」と聞き返した。運転手はこれを無視し、「似田様ですか」と質問したので「そうです」返事した。これでチェック終了。後に分かったことは、津の住民は津のことをツーと伸ばして発音する方言なのだという。

 話を本題に戻す。津に出かけたのは研修会のためだが、もう一つの目的は杉山和一生誕の碑を見ることだった。

私の知るところ、三重の鍼灸の歴史的偉人としては、古くは杉山和一、新しくは石川日出鶴丸がいる。石川日出鶴丸は1944年、三重県立医学専門学校(三重大学医学部の前身)の校長に就任。学校内に鍼灸療法科を設置した。二次世界大戦後、GHQは医療改革の中で従来の鍼灸治療を問題視していた。1947年7月1日、石川はGHQ三重軍政部に呼び出され、鍼灸に関する15項目からなる質問書を手渡された。石川が提出した回答書を見て軍医の態度は一変し、鍼灸治療の存続が認められることになったとの経緯がある。石川日出る鶴丸には、<滑伯仁ノ「十四経絡発揮」ノ現ハレルマデ(日本鍼灸皮電学会編 昭51>の著書があり、このブログでも紹介したことがある。なおご子息は「内臓体壁反射」で有名な石川太刀雄である。

ブログ:滑伯仁ノ「十四経絡発揮」ノ現ハレルマデ の要点
https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/42890eba9b86c1917c0006371e8b1fbf

話を杉山和一のことに戻す。この石碑は、津駅から徒歩10分の偕楽公園内にある。もとは伊勢津藩主、藤堂高猷(とうどう たかゆき)の敷地だった。藤堂は幕末から明治初期にかけ、軍や警察方面で活躍した偉人で、藤堂の死後、津の人々にこの敷地を下賜した。偕楽公園はとくに規模の大きい公園というわけではないが、起伏に富む地形を利用して山や谷を造成し、中央には池もある。春の花見時期には大賑わいをみせるという。この公園を特徴づけるのは、郷土の偉人たちの石碑が、十基ほども建っていることだろう。子供の遊具やSL展示もあり、盛りだくさんである。

津市、偕楽公園入口 。 朝の6時頃なので青く写っている

SL(D51 通称デコイチ)展示

偕楽公園内の池

 


杉山和一の石碑もその中の一つ。高さ50㎝で2メール四方の台座の周りに柵があり、台座中央にはさらに50㎝ほどの台座、その上に2mほどの大きな石碑があった。石碑の表には、「鍼聖杉山総検校頌徳碑」と刻まれ、裏目には細かな文字で本人の生涯の内容が掘られていた。

 

杉山和一の石碑(遠景)

 

杉山和一の石碑(近景)

 

石碑クローズアップ 「鍼聖杉山総検校頌徳碑」と刻まれている

石碑裏面 杉山和一の生涯を紹介

 

2メートル四方の台座のへりには12本の円柱状の杭があって、うち端や角の6本の杭は鉛筆の芯が飛び出ているような形をしていた。この形は両国の弥勒寺にある「針灸供養塔」と同じ意匠であり、鍼管からとびだした鍼柄を示しているものだろう。鍼管発明者にふさわしいといえる。

 

両国の弥勒時にあるはり供養塔。杉山和一墓に隣接している。

 

石碑の左奥には、高さ50㎝ほどの白く小さな石碑があって、「鍼塚」とあり、右肩には「杉山弁財天」と彫られていた。両国の杉山神社は、杉山和一が江ノ島にある宗像神社の辺津宮に願をかけだのだが、辺津宮の女神が美人であったことから弁財天として人々に人気があった。このような背景があって、杉山和一と弁財天が関係した。杉山和一は尊敬の対象ではあっても信仰の対象ではなかった。しかし「杉山弁財天」とすることで鍼聖杉山総検校頌徳に対しても人々は手を合わせる対象となることもできた。

 

 

偕楽公園には十基内外の石碑を数えたが、その中でも最も立派だったのは、職務中に殉職した警察職員を慰霊のもので、警察徽章である金色に輝く五角形星が埋めこまれていた。藤堂高猷が警察関係でも活躍していたことを示すともいえる。

 

杉山和一は津で生まれたことは、一般人は知らなくて当然だと思うが、津市在住の鍼灸師でも知らない者が多い。偕楽公園に杉山和一生誕の石碑があることを知らない。知っていても特に行ってみたいとも思わないらしい。和一は津で生まれたのだが、活躍したのは江戸であった。このことが、地元民にとり杉山和一の知名度が低さに関係しているのだろう。