AN現代針灸治療

ANとは「にただあつし(似田敦)」のイニシャルです。現代医学的知見に基づいた私流の針灸治療の方法を解説しています。

代田文彦先生の言葉と日常

2024-02-28 | 人物像

代田文彦先生は鍼灸師の心を、よく理解する希有な内科医だった。鍼灸師や鍼灸界特有の欠点があることも熟知していた。病院にいる鍼灸師には、苦笑いしつつ、時には辛辣な発言もしたが、鍼灸師の心情や立場をよく理解した上での発言で、またマトをついた指摘だったので、どの鍼灸師も反論できなかった。


1.「まず、足元を固めよ」
鍼灸師になると、すぐに将来の夢を語りたがる。そうした話よりも重要なのは、現在の立場や生活を確保することが先決だと語った。玉川病院流の鍼灸を統一しようという話もあったが、そんな暇があったら各人が自分の技量を磨いたほうがいい、と取り合わなかった。


2.「人に頼るな」
人に仕事を頼むと、がっかりした結果になることがある。全部自分でやるつもりで行うことが大事だ。 


3.「机の中身を見ると、頭の中身が分かる」
ともに整理整頓が大事だということ


4.「本田先生(私の尊敬している医師)の力が100点だとすれば、××先生(私が個人的に嫌いな医師)の力も98点はある。医師の力に大きな差はない」
代田先生の前で、私が本田先生のことを、あまり褒めるので、私をたしなめたのだろうが、真意は必ずしも明らかでない。 


5.「ある鍼灸師だが、20年間勉強を続け、医師なみの力をもった人がいる」と代田先生は語った。それを聴き、一人の針灸研修生は、少々驚き、「そんなに時間がかかるものですか?」と問い直した。代田先生は「そんなもんだ」と返答した。


6.「今(30年前)は、鍼灸師にとって、一番よい時代だろう」
   「医師にできないレベルの針灸をせよ」
 30年前の話。10年後に、鍼灸師は食えなくなる時代が来るかもしれない。医師 が鍼灸をやり出す。その対策としては、医師にできないレベルの鍼灸をすることだ。


7.「針灸は、何と頼りない医療だろう、と思う時がある」
   「針灸の守備範囲を心がけよ」
   「針灸治療が効くのは、五十肩以外は、みんな自律神経失調症だ」
 「 鍼灸をして、鎮痛剤の薬が1日3回から2回に減ったとしても、手間や費用を考えると、割に合わないでのはないか?と質問すると、「それでも鍼灸の効果はあった」と判断するのでいいことだと返答した。


8.玉川鍼灸研修生の一人(M.K氏)が、代田先生に向かって「患者に鍼灸治療をすると、邪気をもらってしまうので、非常に疲れる」と話したことがあった。先生は「それこそ気のせいだ。治療に集中するから疲れるだけだ」と返事をした。代田先生は「気」を認めていなかった。 


9.「鍼灸師は、いつまでたっても親父(代田文誌先生)の本を金科玉条にしている。よほど頭が固いんだな」と言った。


10.代田先生は、外来診療とは別に、常時20名前後の入院患者を担当していた(ちなみに常勤医師の平均入院担当は10人程度)。その入院患者は、鍼灸研修生ごとに2~4人程度が割り当てられ、助手として診ることができ、必要ならば鍼灸治療も行った。
週1回は入院患者のカンファレンスを行った。鍼灸師が担当患者ごとに現状や問題点を説明したが、その際カルテを見ながらの説明は許さなかった。代田先生には「担当した患者であれば、重要点は記憶していて当然だ」との信条があったからだ。鍼灸師の頭の中には、自分が担当した数名の入院患者のデータ(それも不確かな)しかないのに、担当入院患者20名のデータは、すべて代田先生の頭の中にあるようだった。今想い起こしてもても驚異である。


11.間中喜雄先生も針灸が大好きだが、鍼灸そのものが好きなのだ。そういう点で彼は天才だ。しかし病気を治す目的で、より良い鍼灸臨床を目指そうと考えている我々とは方向性が違う。

12.有効性の統計学的な検定は、臨床家にとってあまり意味がない。効いたか効かなかったかは、実感としてすぐに認識できる。


13.玉川病院当時の代田先文彦生は、東洋医学もできる内科医としてユニークな地位を築いていた。私が玉川に入って1年目頃には、自ら週2回の半日、針灸外来を担当していた。しかしその翌年から針灸をしなくなった(針灸は週2回女子医大耳鼻科に出向して行っていた)。
私は玉川研修生5期生だったが、玉川6期生以降の者は、おそらく代田文彦先生が実際に患者に針灸する姿を見ていないのではないだろうか。玉川で代田先生が針灸をやらなくなった理由は、内科医として多忙になり過ぎたせいであったが、本当かどうか、もう一つ理由を、先生独特の苦笑いしながら教えてくれた。自分が針灸をすれば、針灸を希望する患者が全員、自分の処へ来るので、針灸師の仕事がなくなってしまうということだった。

そして代田先生はこういった。「自分も本当は針灸したい。玉川の針灸師がうらやましい」


14.代田文彦先生が、医者になりたての頃、片手挿管法の練習をしていると、文誌先生がこう言った。「お前は医者なのだから、片手挿管法など練習しなくてよい」
以来、片手挿管法の練習は中止し、文彦先生の刺針は、常に両手挿管法によるものだった。
それから二十年経った頃、代田文誌先生の治療風景を収めた8ミリフィルムを観る機会があった。文誌先生も、両手挿管法で刺針していたのであった。

 

 15.代田文彦先生は、大学時代に空手部に所属していたのだが、大学2年時から6年時まで計5年間、主将を務めていた。対外試合の際、相手の打撃を受けても、全然効いていないような平然とした顔をして審判を欺き、相手にポイントを与えなかったという。あとで確認してみると肋骨にヒビが入っていたとか。

 

16.代田先生は、大学時代にきちんと先生についてフルートを習っていた。年に一度の玉川病院のクリスマスパーティーの演目として玉川交響楽団と称して、楽器を演奏できるドクター数名と「聖よしこの夜」を演奏したのだが、まともに演奏できたのは代田先生ただ一人だった。先生の上前歯には隙間があり、フルートを吹く時に息が漏れるということで、歯と歯の間にはさむ金でできた金型をはめ、演奏に臨んだのだった。フルートのケースには、金型も入っていた。

 

17.年に2回、玉川の東洋医学科では宴会を開いた。午後6時から開催という場合、それに間に合うように会場に来ていたのが文彦先生だった。人一倍多忙なはずなのに、これは驚きだった。他の針灸師メンバーは、いろいろな理由をつけて遅れるのが常であった。本当に忙しいひとほど時間を守ることを知った。そうしないと後の日程も狂うことになる。

 

18.先生は結構カーマニアだった。私が玉川2年目の頃、三鷹の自宅から二子玉川(通称ニコタマ)の病院まで白いフェアレディーZで通勤し始めた。職員駐車場にあっても非常に目立ち格好よかった。何回か助手席にのせてもらう機会があり、信号待ちからのスタート奪取で、背もたれに押しつけられ、他車を出し抜く加速にしびれたものである。下の写真は昭和54年製フェアレディーZだが、私が26才の頃だったので、まさしくこの外観だった。
数年後に、今度は三菱パジェロに変わった。パジェロは外見的には砂漠をキャラバンするような無骨な外見だったが、助手席に乗ってみると、高級乗用車のようなクッションと静寂性があった。フェアレディーZとは、また別の魅力があった。

 

19.代田先生は週に2回、火曜の午前中と木曜の午後2時間づつ、アルバイトで道路公団診療所で外来診療を行っていて、仕事の行き帰りには中央高速を利用した。その際、高速道路入口の係員にチケットを渡すだけでフリーパスだった。まあ当然のことであろう。他に毎週金曜は、玉川病院には出勤しないで、東京女子医大でメニエールの鍼灸臨床研究をしていた。他の常勤医師から比べ、玉川病院で仕事する時間は短いようであったが、玉川病院では朝8時から病棟回診を始めていた。朝と夕に担当患者を回診し、昼にはきちんと入院患者の処置をしていたので1日3回患者の顔を見ることにしていららしい。他に週に2回、午前と午後に漢方外来をしていた。東京女子医大での月給の額を私に漏らしたことがあった。月給××万円と、驚くほど少額だった。駐車場代(1日2万円)が女子医大負担という点が気に入ったらしい。

 

 

このお写真は、奥様の瑛子先生からお借りし、掲載の許可を頂戴しました。