AN現代針灸治療

ANとは「にただあつし(似田敦)」のイニシャルです。現代医学的知見に基づいた私流の針灸治療の方法を解説しています。

肺の宣発粛降作用について

2010-07-09 | 古典概念の現代的解釈

筆者が針灸学校学生時代(今から35年ほど前)の教科書「漢方概論」には、肺の宣散粛降作用に関する記述はなかった。当時の針灸師の認識にはこうした概念はなく、明らかに中医学の導入による内容刷新である。

人体の正常な水液の総称を津液とよぶ。唾液、胃液、汗、涙なども津液である。脾で合成された血は、正確には血球成分とよぶべきであり、それに津液が混じって初めて現代の血液と同様の概念となる。津液は、蒸し器の中で、腎水を加熱することで蒸気として発生する。それは蒸し器内を上り、蒸し器上部に空いた穴から身体各所に向けて放出される。蒸気の一部は上るにつれて冷やされ、やがて水滴になって再び腎水に戻ってくる。この一連の水の循環を「通調水道」とよぶ。ただしこの仕組みだけでは身体末梢まで蒸気を送り届ける力としては不足で、肺の呼吸運動がこの作用に協力する。

まさしく地面にある水の蒸発→雲→雨→地面に戻るという自然界の一面をみているようである。ちなみに雲に相当するのが、宗気である。

 血の循環力の源が心であるのに対し、気の循環力の源は肺である。呼吸運動で、息を吸う時には空気中の清気を体内に取り込まれ(=静粛降作用)、息を吐く時には濁気を外部に放出する一方、蒸し器内で合成された蒸気を身体の隅々まで送る原動力となる(=宣発作用)。

一般的にも「深呼吸は体によい」といわれている。東洋医学では、息を吸えば、空気を肺に取り込むが、それで終わりでなく、蒸し器にフイゴをつけたように、蒸し器内の蒸気を積極的にコントロールするという意味がある。



吸気による空気(=清気)の流入は、とくに大きく吸気する場合、肺に留まらず臍下丹田かで行き、精を活性化すると考えた。これは腎の作用(納気作用)によるものとした。つまり通常の呼吸は、肺の宣発粛降作用により行われるが、深呼吸時には、これに腎の納気作用が加わるということである。「気の主は肺、気の根は腎」とはこのことをさしている。腎不納気とは、この腎の作用が弱ったため、腹式呼吸が困難になった状態である。


古代中国人の考えた消化管構造 とくに脾・腎・膀胱について

2010-07-09 | 古典概念の現代的解釈

1.古代中国人の医学的認識は、人間は自然の一部であり、自然も人間の一部であるというである。端的にいえば、人体の中に自然を見いだし、自然現象を観察することで、人体内部の仕組みを追求したといえる。しかし現代において、古典を研究する者は、古代中国医師の自然観察姿勢を忘れ、古典を六法全書のように考え、裁判官のような態度で疾病に対処しようとしている。
 古典(中医学を含む)を勉強して常々思うのは、法律の羅列であって、これを事実として認識せよ、とする著者の態度であり、これでは宗教のやり方と変わらない。古代医師のもっていた筈の、自然を観察する姿勢はどこに行ったのだろうか。

2.私に新たな目を開かせたのは、平成16年3月号と平成16年6月号の「宗気考」と題して「医道の日本」に載った松本岐子先生の記事であった。松本先生は、人体の生命現象を蒸籠(せいろ)にたとえた。体幹部は大きな蒸籠であり、頭蓋は鼎(かなえ)だという。私は、これに触発され、古典を読み返して、古代中国医師が考えた人体モデルを考えてみた。
 ※ 鼎については、「中国医学における頭痛の認識」(仮題)の項で将来説明する予定でいる。

3.これまでの消化器系の認識を以下に図示した。脾の役割が不明瞭であること、胃・小腸から膀胱に流れる汚水の経路も不明瞭であることが読み取れる。この程度が古代中国医師の認識なのだろうか? 筆者は古典を読み直して本図を改変してみた。この新しい図は、多くの内容を含んでいて、中医理論を明快にいくつか説明できるものである。数回に分けて徐々に説明したい。今回は、脾・腎・膀胱の機能について説明する。




4.脾の機能
  もし脾がなかったらと仮定する。口から水を飲めば、単に消化管を下り、大腸を経て肛門から水が出るだけである(膀胱から小便が出るのではない)。これでは人間は生きていけない。胃や小腸に行った水は、脾の力で、体幹の蒸し器に投入される。蒸し器の底には水がたまっており、蒸されることで水は徐々に失われるので、この水を補充するという意味がある。
 水以外の水溶性栄養分も水と同じ経路をたどるので、蒸し器に溜まっている水は、単なる水ではなく栄養液というべきである。食物中の脂溶性栄養成分は、蒸されることで血液に変化する。血が濃縮して集まってできたのが脳や骨髓である。余剰の血液は脂肪に変化し、蓄えられる。

5.腎の機能
 蒸し器の底にある水を、腎水とよぶ。腎水には、生命の元である精が溶け込んでいる。房事過多などで精液を出し過ぎれば、腎水中の精が少なくなる。精子は新しい生命を誕生させる物質だが、その精が減れば、自分自身の生命も維持できなくなってくる。腎水中にあるのは、水+水溶性栄養成分+精である。
なお腎陰・腎陽という言葉がある。新しい解釈によれば、水は陰なので、腎陰とは腎水そのものをさし、腎陽とは加熱された腎水をさす。
腎水は、火によって温められ、水蒸気を出し、それを人体各所に行き渡らせることで生命現象を営むことが可能になる。腎水がなくなれば、水蒸気が上らなくなるので生命を維持できなくなる。
腎水を温める火のある場所を丹田という。丹田にある火は、命門の火とよばれる。生命の炎というべきで、これが消えることも死を意味する。この火の正体は、筆者は小腸だと理解している。その理由は筆者の過去ブログ「手所属の経絡と足所属の経絡-古代中国の内臓観」で記してある。

6.膀胱の機能
 腎水は、火によって加熱されて水蒸気(=原気とよぶ)になり、身体各所のエネルギー源として利用されるが、残りは蒸し器の上部で冷やされて水滴となり、腎水中に戻ってくる。腎水の減少分は、脾によって補給されるものの、繰り返し使用されるので次第に濁ってくる。あるいは脾の補水機能が異常亢進すれば、水は余剰になるであろう。このような不要な水は排泄されるべきであり、その排水タンクに相当するのが膀胱である。



7.血と精の循環
 上図では、脾で生成された血の行方が描かれていないので、その循環図を示す。腎において、精と血は必要に応じて変換されるので、精の循環についても併せて示す。

 精には、先天の精と後天の精の区別がある。先天の精は、生命の素となる物質で、両親から受け継いだ「生殖の精」で、生殖や発育を担当する。いわば生命の炎であり、腎に大切に貯蔵されている。この炎の消滅は、死を意味する。後天の精とは、飲食物の脂肪以外の物質を原料として脾で合成された気血の元となる物質で、先天の精の炎を絶やさぬように栄養を補給する役割と、肉体を活性化する役割がある。もし長期間、飲食物を口にしなかった場合、後天の精は先天の精を養えず、生命の炎が消えてしまうことになる。「精力のつく食べ物という時の精」である。


 血の循環は、現代医学とほぼ同じで、血管内を巡る。心はポンプとして、肝は貯蔵場所として機能している。後天の精は、脾で合成され、血管外を一巡する。後天の精は、必要に応じて腎において、血を精に、あるいは精を血(血が不足した場合、まずは肝に貯蔵した血を放出するが、それでも不足した場合には、腎で精から血を合成する)に物質変換する機能がある。これを腎の気化作用とよぶ。なお気化作用とは、一見すると、物質を気体化する作用に思いがちだが、気の運動変化を略した単語であって、気による物質変換や物質生成作用のことである。





8.三焦とは
  通常、蒸し器は、三段に分かれている。下段は水を入れ蒸気を発生させるところ、中段は蒸すための食物を入れるところ、上段は蒸気が冷やされて水に変わるところである。仮に上段がない蒸し器があったら、その食物はベチャベチャに濡れた状態になるであろう。(最近では、鍋にしても、タジン鍋というのが流行している)
 この蒸し器は、火で加熱するものなので、当然熱くなるわけだが、人体における蒸し器本体を三焦とよぶのだと想像する。上焦・中焦・下焦の主機能も、蒸し器と同様である。