前記事にコメントを下さったアッキーさんのお目に止まった小さな発行部数100部?くらいの交流誌に投稿した稚文をここに置きます。
五行歌とは?うたたまごさんのHPに詳しい説明があります。
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五行歌交流誌『南の風』
エッセイ 『軽度発達障害ってご存知?』
生まれ持った脳機能障害で物の認知に歪みがある。多くは「わがまま」「問題児」のレッテルを貼られ、「歩けない人に立って歩け」と言うような非難と否定を浴びて育つ。見た目は普通の悲劇。根は深い。この四月、期待の「軽度発達障害支援法」が施行された。どの紙面も報じない世の片隅で。もし、あなたがやる事成す事、過去も現在も非難轟々だったら?ご気分はいかが?
ボクどこがヘン?
頼む!教えてくれ!
答えは簡単
歪んで見る人が
歪んでいるのよ
自分が否定されて気分の良い人はいません。
少年の事件が続いていますが、原因に「ばかにされ続けた」が出るとやりきれない気持ちになります。
障害からくる認識の違いにも個性があり、実に分かりづらい障害です。
健常でも障害でもひとりひとり同じ事が良いのではなくて、違う事の良さを軽度発達障害は警鐘しているのでは」ないでしょうか?
否定されて育った成人の辛さ、苦しみは想像を越えています。これからのお子さんにとっては、あったかなまなざしの社会環境である事を望んでいます
四つ上の兄ちゃんが、重度の知的障害+自閉症で大変だったため、下の子にはどうしても二の次になってしまった面もありました。今上の子が彼なりの発達を遂げて、養護学校から地域の小学校に転入し歯車がうまくかみ合い出したと思ったら、来年就学の下の子の問題が表面化しました。あさって医師の診断が出るのですが、「広汎性発達障害」の範疇のどこかに入るらしい。
「どーして二人とも、こんなに大変なのー」と投げていたのですが、ただ、ようやくこの頃下の子のほんとうのきもちみたいなものが見えてきて、うーんん、このままこんな感じでいくんかな?っていう中で、彼なりのいいところが見えてきたようで、ちょっと楽になってきました。
友人に薦められて読んだ「『こころ』の本質とは何かー統合失調症・自閉症・不登校のふしぎ(ちくま新書)」(滝川一ひろ著)が、とてもよかったです。
滝川氏のすごいところは、ラベリングをしない。統合失調症の患者の回復のプロセスにも、自閉症やアスペルガー症候群の成因についても、「正常」「健常」との地続きで、人間の心の一つのあらわれとして、そんな病理や障害をとらえておられます。
だから、とてもわかりやすいです。
「アスペルガー症候群が増えたわけ」について、滝川さんは、「昔だったら関係の発達に少しぐらい遅れても、一徹で変わり者だが腕はひとかどの職人、人づきあいは悪いが海や畑で黙々と働く漁師や農夫とか、生きる場所がたくさんありました。知力に長けていれば学者とか。」と書いています。(p180-181)ところが現代では第三次産業(消費サービス)、つまり「人」を対象とする技が社会の器官となり、それを中心に社会がまわっているので、高い社会性、対人能力がだれに対しても求められるようになった、と説明されているのです。なるほど、これは、納得できます。
実際、我が家の兄弟でも、指吸いがやめられない兄ちゃんのほうが、発達年齢では兄を追い越しているであろう弟児よりも、うまく社会に受け入れてもらえそうな感じがしています。実際兄児がぶざまで苦労してもできないことが多くても、周囲が「あの子はあんな子」とわかって許してくれるところが大きいのですね。
はー、弟児のこれからをどーしていけばいいのか、いりろと考えることの多いこの頃です。
犯罪や悪徳商法のターゲットにされるのは、ある程度コミュニケーションが可能で社会に出ている比較的知的障害者の軽い人に多いのだそうです。また、高齢者もターゲットになりやすい。両者に共通するのは、判断能力に少し弱さがあること、そして、さらにプラスして、社会的なつながりに恵まれない、友達がほしい、ということもあるのでは。「人を求める心」を、言葉巧みなセールストークで、「食い物」にされる。これは辛い!
どうやったら、そんな被害からまもれるか、と思うと、「ぶちあたらないことを祈る」くらいしか、私には正直あまり思いつかない。親の会などに弁護士が協力して行う啓発ワークショップへの参加もそこそこ校歌があると思うし、法律的には成年後見を受けるのも効果的だと思います。
みかんさんがここに書いておられる軽度発達障害は、知的障害とは違うけれど(重なっている場合もあるが)、でも、社会で生きづらい、というところに関しては、共通していると思うのです。
それにしても、「さびしい」と思う心に、つける薬はあるのか?
もしも行動しても、やはり望むような関係を得られないときに、どうやって、「さびしい」と思う気持ちも受容して、「私のしあわせ」を見つけることができるのか。そんな風に考える子どもの親の一人です。
PS
先程の投稿、二つひどい誤字がありました。
・「どーして・・・」と投げていたのですが、→嘆いていたのですが、
・「人」を対象とする技が社会の器官となり、→社会の基幹となり、
でした。すみません。
違う事を白眼視して、横並びを良しとする風潮がなければ、イジメにも合わずに育ってこれたのに。ある能力を上手く労力に出来る社会ならと、思わない日はありません。
アスペは悪徳商法の被害者になり易いのも事実です。とても人の言う事を信じ易いし、とても律儀ですから、信じたらとことん騙されてしまいます。悪い人に会わないで良い人ばかりに出会う事を、親としては心から願うのみです。
アッキーさん、おふたりとも障害児との事。前途多難。貴女の先行き不安を思うと、甘い安易な言葉かけをする事が出来ません。一人の息子にも一喜一憂の私ですから…
今日下の子の診断が下り、「特定不能の広汎性発達障害(PDDNOS)」ということでした。
「先生、それって、どういうこと?学習障害ではないの?ADHDみたいなところもあるけど、それとは違うの?アスペルガーか?って、小児科の医師に聴かれたけど」と、矢継ぎ早に聞くと、「学習障害だとしたら、もう少し年齢が上ってから分かる」「ADHDのようなところがあっても、広汎性発達障害ということがあると、そちらが診断名とされる」「アスペルガーは、もう少し言語能力が闊達な場合」と言われて、最後には、「要するに、なんかよくわからないけど、広汎性でどこと特定できないけど、そのような障害がある、という時に使う、まぁ、逃げ道みたいな言葉ですね」と説明されました。「以前なら、自閉傾向、と書いたところだけど」と。
ふーんんん。そーなのかー。まぁ、予想していた結果ではありましたが。
で、「申請したら、軽度の療育手帳が出たんですけど、一年後に再判定と言われました」と話すと、「へー、厳しくなったのねぇ」と。
聞いてみると、以前は、発達的に100くらい(ということは、知的に遅れはない、ということですよね)であっても、「生活面などで特異な不都合さがある」場合には、軽度の手帳が出ていた、それが、今は、80で切ってると聞いていたけど、70のあなたのところも一年後かぁ、ということ。
「つまりは、財政的に厳しいってことですよ」。担当の若く美しい女性医師は、ほほ笑みを無理に作り出しながら、そんなことを説明してくれたのでした。
そうかー。そうなのかー。帰宅して、ちょうど上の子の「家庭教師」で友人が来てくれたので、そんな話をしていたら、「今は手帳をどんどん申請する時代になってるしね。昔なら、手帳なんて要りません、ってがんばってたかも」という話も出て、またまた、ふーんん。
手帳をもらえれば、安心。でも、ちょっと切ない。でも、安心。でも、やっぱりちょっと切ない。
美男美女のカップルに息子娘は優秀な成績で一流大学へ、夫婦そろって、すてきなキャリアの仕事を持ってる、そんなご近所の奥さんを見ても、私のほうがずっとしあわせ、と思う。夫婦仲がいまいちよくなくても、夫の人間性に失望しかけてても、子どもたちに手を焼いて、自らの能力のなさにボケナス!と嘆いていても、でも、それでも、私は、自らの中に燃えるようないのちの輝きを感じ、周囲のすべてに感謝することがある。こんなしあわせな自分はない、と思っているのに、一方で、子どもたちのいたずらや将来の不安、夫との関係、実家で引きこもる兄弟や共依存で暮らす親のことを考えると、「世間的に見ると、かなり不幸な自分」を自覚する。
この差は何なんだろう?どうやって、私の感じる内なる世界のしあわせと、人並みと違う今の生活の不安を自分の中で調和させていけるのだろう。
ひとつだけいえるのは、母が父がし残した課題を、娘の私が引き継いでいるらしい、ということだけ。
両親が、時代の制約もあり、向き合えなかった子どもの問題、それは、私の場合、登校拒否でも不登校や家庭内暴力や引きこもりではなく、子どもの障害、ということだが、「社会の中でどう子どもをサポートしていくか」という部分では共通のところがある、そんな課題を、私は、自分の身に引き受けて取り組まねばならない、ということでしょうか。
おかあさーん、おとうさん、どーして、そんな問題を私に譲り渡していったのだー。
まぁまぁ、この課題をうまくクリアーして、光り輝くような未来の生活をイメージするのみ。そして、それを、現実にするのです!