脳脊髄液減少症患者のつぶやき、「とりあえず、生きてみよか・・・。」

過去から現在へ、脳脊髄液減少症、体験克服記。

本音ふたたび

2006年09月22日 | つぶやき
今日はくもって寒いくらいの朝です。
ここ二日早起きできたのですが、今日は寝坊しました。

だるさが軽い朝は、
リハビリにテレビ体操をやろうと思ったのに、早くも2日で挫折しました。

きのう、短時間でも自力で公園まで行ったことが夢のようです。
これが自信につながるかもしれません。

私をこの1年以上私を、支え続けて、外に連れ出してくれた人が、
都合で遠くに行ってしまうので
自分で外出できるようしっかりしなくては!という思いもありました。

でも、
本当は、一番苦しい時に、その人ひとりだけでなく、
もっともっと親に甘えたかったし、
もっともっと肉親たちに優しく接してもらいたかった。

でも、いい大人の私がそれを望むことは、甘えなのでしょうか?
期待は見事に打ち砕かれ、
恨みや妬みや怒りのドロドロの感情で、心が満たされてしまいました。

それが病気のせいか、正常な感情かわかりませんが、
親兄弟とは私の心の中で、深い深い溝を自分で作ってしまいました。
そんな自分が悲しいです。

北朝鮮に拉致された子のために
必死で何十年も国に対し訴え続け、運動し続ける、
年老いたご両親の姿を目にすると
そういう親を持った方は、幸せだなぁとうらやましくさえ思いました。

たぶん、私が拉致されても、すぐにあきらめられて、
親は自分の人生を謳歌するんだろうと考えてしまいます。

この1年半以上、
私は、家の中で必死に家事をしていました。

どんなに症状がひどくても、まるで一人暮らしのように
食事づくりも、かたづけも、洗濯も、洗濯物たたみも
すべて自分でやらなければなりませんでした。
自分の身の周りはもちろん、他の家族の分まで。

掃除機かけは掃除機が重くてほとんどできませんでした。

座位や立位の可能時間が短く、運転もままならず、
お店の中を歩きまわることも難しく、重い荷物を持つこともできなかったので、
買出しだけはできませんでしたが、それ以外の家事は
必死でこなしてきました。

食料などの買出しなどは家族がやってくれました。
宅配食材も利用しました。

自分の世話もやっとの時に、
家族の食事づくりやかたづけの世話まですることは
私にとって、本当に重労働でした。

昨年の怪我の後遺症の手術とリハビリの長い入院中と、
今年のブラッドパッチの入院のわずかな期間しか、
病人としてゆっくりと療養に専念することはできませんでした。

ただ、苦しいときは、病人として寝ていたかった。
入院中でなければ、病人と認められない人もいるのです。
入院中でなければ、安静を保てない人もいるのです。

特に、悪化時の治療待ちの半年と治療後の半年は本当につらかった。

ただ自分が存在していることだけでつらかったのに、
立っているのも、座っているのも短時間しかできなかった時に
家事をこなさなければならないことが、本当につらかったのです。

でもたぶん、そのつらさがどんなものかは
身近な家族にさえ、わかっていなかったと思います。

タオル1枚干すのも、重く感じるのです。
お茶碗を洗う時、聴覚過敏の症状でその音に苦しみ、
手は時に、電気が走るように激痛が走ったりもしました。

働いていないのだから、これくらいの労働はあたりまえ
と自分にいいきかせながらも、
何度も何度も、消えてしまいたいと悲しくなりました。

症状のつらさもそうですが、自分の置かれた環境に悲しくて、
消えてしまいたいくらいでした。

やらなければならない仕事をすべて放棄してしまいたかった。
苦しくてできない時、だれかに甘え、頼りたかった。

父や母に優しい言葉をかけてほしかった。
仕事や趣味や遊びより、娘の追い詰められた状況にせめて気づいてほしかった。

たとえ、実際の支援がなくても、この苦しさをわかってほしかった。
わからなくても、わかろうとする気持ちがほしかった。
それがあまり感じられなかったことが本当に悲しかった。

洗濯もの取り込むのも、手の重さでつらい。
手があがらない。

洗濯物をたたむのも、体を起こしていられなくなると
寝た状態でおなかの上に洗濯物を置いて、寝ながらたたみました。

他人に頼られ感謝されることが大好きで、
ボランティア活動を多くこなしている父親。
仕事や他人のことに一緒懸命な母、
「どうして?」と涙がでました。

寝ては起き、起きては寝てを何回も何回も繰り返して、
息も絶え絶えの苦しさの中、短時間ずつでも
それでも動けてしまうのが、この病気の特徴です。

できてしまえば、
「ほら、大丈夫。動かなければよけい動けなくなる。」と
ますます叱咤激励されます。

これが、「脳脊髄液減少症」と病名がついてもなお、
私が体験した過酷な現実です。
退院してから、せめて2~3週間ぐらい安静にしていたくても
かないませんでした。
苦しかった。本当につらかった。

改善と悪化を繰り返しながら、ゆっくり回復し、
半年過ぎて、やっと短時間でも自力で外出できるようになって
苦しかった日々を振り返ると

ブラッドパッチ後、最低でも3か月は
周囲が患者の日常生活を支えてあげてほしいと思います。

場合によっては、
十分な身内の理解や協力、支援が得られない方には
「入院で、安静やリハビリを提供してあげてほしい。」
それが、この半年を過ごした私の率直な感想です。

また治療前で苦しみ、日常生活がままならない方など、
地域社会が支えてあげてほしいと思います。

本当に、
家族の手厚い介護や援助、思いやりの心に恵まれる
患者ばかりではないと思うのです。

無理解な人間は、
「脳脊髄液減少症」という病名がついたからといって、
急に「理解者、支援者、協力者」に変わるとは限らないのです。
長年見慣れた患者の症状に、ただ病名がついただけで
扱いは何も変わらないこともあるのです。

私のように肉親の無関心で
心がすさんでしまう人間もいます。

本当に自分の中では危機的状態だったこの1年半
無理解や無関心は閉ざされた私の心を
さらにトゲトゲしくかたくなにさせました。

荒んだ感情を公開することは非常に抵抗はありますが、
でも、交通事故により、こんな病気にさせられ、その上
長年、無理解にさらされ続け、仕事も、人間関係も失い、
家族との間に深い溝までできてしまった患者も存在することを、
知ってもらいたいと思います。

そういう環境にいる方の多くは
経済的、身体的、など、さまざまな事情から、
「そういった現状をブログなどで発信して訴える環境にすらないのではないか。」とかつての私の体験から想像しています。

私は、たまたま一人の理解者に支えられ、
今は、こうして患者の現状を発信できる環境に恵まれただけです。

理解者に恵まれない患者の置かれている厳しい状況は
このままでは何も変わらないと思います。

だから、あえて私は
実際の自分のこの病気の及ぼす闇も書こうと思っています。

一人暮らしの方や、肉親がいない孤独の方、
さまざまな事情で頼れる家族や友人のいない方の中に
同じ苦しみに何重にも苦しんでいる方がいると感じています。

そういった方がこの病気になったら・・・?
買い物にも行けない状態で、
自分で生きろ!一人で療養しろ!一人で生活しろ!と放置されるのでしょうか?

お年寄りに配食サービスや、ヘルパー支援が必要なように
家族の協力が得られない患者の療養生活や日常生活には
社会福祉での援助が必要です。

被害者なのに、自動車保険も治療費は打ち切り、詐病扱い、
自力で治療したくても、健康保険も適用にならず自費、
福祉の援助もほとんどない現状。
心ある方がたなら、このことのひどさに気づいてくださるはずです。

どうか、
患者の家族に、療養中の「脳脊髄液減少症」患者をまかせるのではなく、
社会全体で患者の療養生活を支え、
無理のない社会復帰まで支援してください。

その人本来が持つ
明るさ、笑顔、優しい穏やかな心と健康な体を取り戻すまで・・・

よろしくお願いします。

追伸:
ブラッドパッチを初めて受けて半年が過ぎ、
ゆっくりですが回復するのを感じています。
私はこの治療は確かに効果があると思います。
健康保険の早期適用を望みます。






コメント (18)
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