きょうも過ごしやすい1日でした。
呼吸の苦しさも、少しずつやわらぎ、
起きていられる時間が延びてきていると感じます。
もしかして、このまま治ってしまうのかも?と
期待もふくらみます。
でも、最近、体の回復とともに、
いろいろな考えがわいてきます。
不調の時は、怒る気力も考える気力もなかったのが
少し余裕がでてきたのかもしれません。
よくうつ病の人は回復期が危険と聞きますが、
この病気も同じかもしれません。
私の今までの私の人生ってなんだったのかと
しきりに思えて
やりきれなくてしかたありません。
やる直せるなら、やり直したい。
人生をリセットしたくなる思い。
病気のせいで、医師や家族や周囲に
人格まで低く見られて生きてきた人生。
かけがいのない、たった1度の私の人生。
こんな事故に遭わなかったら
こんなやっかいな病気にならなかったら、
思いっきり、仕事や恋を謳歌してみたかった。
もっともっと楽しく幸せに生きられたはず。
はた目には、普通にすごしていたように見えたかもしれませんが
私は、日々さまざまな症状で思うように生きられない状態でした。
くやしくて、くやしくて、どうすることもできません。
この「正体不明だった病」に長年苦しめられた人は
体の傷はもちろん、
今までの心の傷まで癒してくれる
支援体制の必要性を、強く感じます。
そこまで含めて初めて、
「脳脊髄液減少症の治療」といえるような気がします。
体が治って、症状が軽減して、
「はい、めでたし、めでたし」では終わらない人が
私以外にもたくさんいることでしょう。
この病のせいで
今まで失ってきたものの多さに
改めて気づき、押しつぶされそうになってしまいます。
当たり前の生活、
当たり前の健康、
当たり前の仕事、恋、幸福・・・。
ゆっくりと、時間をかけて、
今まで長年医師や周囲の無理解に
ズタズタにされてきた心も癒していけるような、
そんな支援体制の必要性を心から感じます。
心が元気になれば、体にもいい影響がでます。
体が治れば、心も息を吹き返します。
人は、心も体も一体です。
とくにこの病気には療養には
継続的に医療がかかわり、心も体も同時にフォローする体制がほしいです。
それくらい、治療前も治療中も自宅療養のみでは
精神的にも、肉体的にもきつい状況なのです。
すべての地域でこの病気を深く理解した医療関係者が増え、
医療関係者と家族が
思いやりある視点で患者を心身両面から、支えてほしいのです。
「脳脊髄液減少症」とわからず、
長年苦しんできた患者を過去ごと
まるごと抱きしめるような気持ちで向き合ってほしいのです。
治療や支援に向き合う専門スタッフや
それが可能な診療体制、支援体制が少しずつでも整備されることを
心から願っています。
「人を癒すということ」は、
うまい手術をしたり、治療をしたり、
いい薬を処方したり、
いい生活指導をしたり、することばかりではないと思います。
「人を癒すということ」は、
医師やカウンセラーだけではなく、
動植物にだってできることです。
ましてや、苦しむ人の身近にいる人こそ、
できることがたくさんあると思うのです。
どんな人にも
病んで苦しむ人を癒すことはできると思うのです。
その人の本当の苦しみなんか、
固体が違う以上、わかりっこないのですが
どうか、自分の過去の経験を参考にして想像をめぐらせてほしいのです。
何も言わなくていいから、じっと話に「嘆き」に耳を傾けてください。
決して話をさえぎらないで、
最後まで話にじっと耳を傾け、
話が自然につきるまで、言葉が出つきるまで
どうか、ひたすらうなずいて聞いてください。
批判も、アドバイスもいらない。
ただ、ひたすら、
「わかろうと努力して、共に感じようとして」訴えを聞いてください。
どんなひどい言葉でも、激しい感情でもありのままに受け入れ
そう考えるに至った
「その人の今まで」を少しだけ考えてみてほしいのです。
何か言葉が出そうになったら、
その人の言葉をそのまま返してください。
「つらい。」と言ったら「つらいね。」と
「悲しい。」と言ったら「悲しいね。」と
「みんな同じ思いをしてみればいい。」と言ったら
「みんな同じ思いをしてほしいんだね。」と・・・。
涙があふれてきたら、どうか涙を制止しないで、。
じっと気が済むまで泣かせてほしい。
どうか、自然に涙枯れるまで
じっと涙する人につきあってください。
手を握り、背をさすり、
その人の悲しみ、
嘆きの気持ちに自分の気持ちを
近づけてほしい。
できることなら、ぎゅーと抱きしめてほしい。
わからなくてもいいから、わかろうと努力してもらえたことは
不思議に人の心に伝わるものです。
もし、私が身近な人にそうしてもらえたら、
どんなに救われることでしょう。
どんなに、荒れた心が落ち着くでしょう。
そうしてもらえたら、
たとえ苦しみはなんら変わらなくても、
やがて、涙が止まり、怒りが消え、やすらかな気持ちになり、
そして、再び生きる力がわいてくるような気がします。
やさしい気持ちになれる気がします。
その人を、「心から大切な存在と思う気持ち」
その「思い」こそが
人が、人にできる
「人を癒すということ。」の出発点ではないかと
私は思っています。
呼吸の苦しさも、少しずつやわらぎ、
起きていられる時間が延びてきていると感じます。
もしかして、このまま治ってしまうのかも?と
期待もふくらみます。
でも、最近、体の回復とともに、
いろいろな考えがわいてきます。
不調の時は、怒る気力も考える気力もなかったのが
少し余裕がでてきたのかもしれません。
よくうつ病の人は回復期が危険と聞きますが、
この病気も同じかもしれません。
私の今までの私の人生ってなんだったのかと
しきりに思えて
やりきれなくてしかたありません。
やる直せるなら、やり直したい。
人生をリセットしたくなる思い。
病気のせいで、医師や家族や周囲に
人格まで低く見られて生きてきた人生。
かけがいのない、たった1度の私の人生。
こんな事故に遭わなかったら
こんなやっかいな病気にならなかったら、
思いっきり、仕事や恋を謳歌してみたかった。
もっともっと楽しく幸せに生きられたはず。
はた目には、普通にすごしていたように見えたかもしれませんが
私は、日々さまざまな症状で思うように生きられない状態でした。
くやしくて、くやしくて、どうすることもできません。
この「正体不明だった病」に長年苦しめられた人は
体の傷はもちろん、
今までの心の傷まで癒してくれる
支援体制の必要性を、強く感じます。
そこまで含めて初めて、
「脳脊髄液減少症の治療」といえるような気がします。
体が治って、症状が軽減して、
「はい、めでたし、めでたし」では終わらない人が
私以外にもたくさんいることでしょう。
この病のせいで
今まで失ってきたものの多さに
改めて気づき、押しつぶされそうになってしまいます。
当たり前の生活、
当たり前の健康、
当たり前の仕事、恋、幸福・・・。
ゆっくりと、時間をかけて、
今まで長年医師や周囲の無理解に
ズタズタにされてきた心も癒していけるような、
そんな支援体制の必要性を心から感じます。
心が元気になれば、体にもいい影響がでます。
体が治れば、心も息を吹き返します。
人は、心も体も一体です。
とくにこの病気には療養には
継続的に医療がかかわり、心も体も同時にフォローする体制がほしいです。
それくらい、治療前も治療中も自宅療養のみでは
精神的にも、肉体的にもきつい状況なのです。
すべての地域でこの病気を深く理解した医療関係者が増え、
医療関係者と家族が
思いやりある視点で患者を心身両面から、支えてほしいのです。
「脳脊髄液減少症」とわからず、
長年苦しんできた患者を過去ごと
まるごと抱きしめるような気持ちで向き合ってほしいのです。
治療や支援に向き合う専門スタッフや
それが可能な診療体制、支援体制が少しずつでも整備されることを
心から願っています。
「人を癒すということ」は、
うまい手術をしたり、治療をしたり、
いい薬を処方したり、
いい生活指導をしたり、することばかりではないと思います。
「人を癒すということ」は、
医師やカウンセラーだけではなく、
動植物にだってできることです。
ましてや、苦しむ人の身近にいる人こそ、
できることがたくさんあると思うのです。
どんな人にも
病んで苦しむ人を癒すことはできると思うのです。
その人の本当の苦しみなんか、
固体が違う以上、わかりっこないのですが
どうか、自分の過去の経験を参考にして想像をめぐらせてほしいのです。
何も言わなくていいから、じっと話に「嘆き」に耳を傾けてください。
決して話をさえぎらないで、
最後まで話にじっと耳を傾け、
話が自然につきるまで、言葉が出つきるまで
どうか、ひたすらうなずいて聞いてください。
批判も、アドバイスもいらない。
ただ、ひたすら、
「わかろうと努力して、共に感じようとして」訴えを聞いてください。
どんなひどい言葉でも、激しい感情でもありのままに受け入れ
そう考えるに至った
「その人の今まで」を少しだけ考えてみてほしいのです。
何か言葉が出そうになったら、
その人の言葉をそのまま返してください。
「つらい。」と言ったら「つらいね。」と
「悲しい。」と言ったら「悲しいね。」と
「みんな同じ思いをしてみればいい。」と言ったら
「みんな同じ思いをしてほしいんだね。」と・・・。
涙があふれてきたら、どうか涙を制止しないで、。
じっと気が済むまで泣かせてほしい。
どうか、自然に涙枯れるまで
じっと涙する人につきあってください。
手を握り、背をさすり、
その人の悲しみ、
嘆きの気持ちに自分の気持ちを
近づけてほしい。
できることなら、ぎゅーと抱きしめてほしい。
わからなくてもいいから、わかろうと努力してもらえたことは
不思議に人の心に伝わるものです。
もし、私が身近な人にそうしてもらえたら、
どんなに救われることでしょう。
どんなに、荒れた心が落ち着くでしょう。
そうしてもらえたら、
たとえ苦しみはなんら変わらなくても、
やがて、涙が止まり、怒りが消え、やすらかな気持ちになり、
そして、再び生きる力がわいてくるような気がします。
やさしい気持ちになれる気がします。
その人を、「心から大切な存在と思う気持ち」
その「思い」こそが
人が、人にできる
「人を癒すということ。」の出発点ではないかと
私は思っています。