つい数年前まで大多数の日本国民にとって「貧困」というワードは縁遠いものであったが、少子高齢化や企業収益悪化、長期経済停滞の予想などといった環境により、各個人の生活安全保障への意識が強まりはじまり、急激に注目度が上がってきている。
要するに「明日はわが身」と感じる人達が増えてきているのだ。
そんな中、政府から相対的貧困率が公表された。
その数字にマスコミが食いついたのだが・・
「貧困率」についての誤解(池田信夫blog)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51305601.html
池田信夫氏のこのエントリに対する批判が多いらしい。(同様に賛同者も多いが)
個人的には、当たり前過ぎる主張だと思うで、賛同するも反対するもないように思うのだが、何ゆえに彼はそれほど的外れな批判にさらされるのか、解説してみよう。
まず彼の問題意識はこうだ。
けさの朝日新聞に「15.7%の衝撃―貧困率が映す日本の危機」という社説が出ていて、朝日新聞の論説委員のレベルの低さに衝撃を受けた。日本の貧困率がOECD諸国で第4位だということは、当ブログでも紹介したとおり5年前から周知の事実で、政府が「それに目を背けてきた」わけではない。大した意味がないから、特に問題にしなかっただけだ。
鳩山首相もこの数字について「大変ひどい数字だ。何でこんな日本にしてしまったとの思いの方も多いだろう」とコメントしたそうだが、彼はその意味がわかっているのだろうか。OECDの発表しているのは相対的貧困率で、これは国内の家計所得の中央値(メディアン)の半分に満たない世帯の比率を示す指標にすぎない。絶対的貧困率でみると、次の図のように、日本の下位20%の人々の所得(紫色の面積)は最大である。
この図の説明にも書かれているように、「日本の貧困層は世界でもっとも豊かである。日本の下位20%の人々の所得は、他の地域の最貧層の7倍以上である」。相対的貧困率が高いのは、高齢化によって無収入の老人が増える一方、若年層で非正社員や独身世帯が増えているからだ。日本は所得保障を企業の長期雇用や福利厚生で行なってきたので、こうした「企業依存型福祉システム」から排除される人々が増えたことが問題を深刻にしている
これに対して批判者の主張はこうだ。
日本の貧困層がソマリアよりマシだとしても、貧困の実態は変わらないのだから、他国とダメ比べして、それよりも日本はマシなのだから問題ないとするような主張はナンセンスだ。
こういう議論を見るにつけ日本の政治的混乱、特に経済的問題に関する混乱の原因が"問題の高度化"にあるのではなく"論理的思考能力の欠如"の方にあるのだなと思わされる。
(社会的教育力、社会的共通資本の弱体化というのだろうか)
まず、読んでわかることだが、池田氏の問題提起は「貧困の定義」にある。
基本的な認識として持っておかなければならないのは、相対的貧困率の高低が示すものはある種の「格差」であって「貧困」ではない。
日本の中流階級に比して貧しい層がどの程度存在するのかを示しているだけであるが、日本の中流階級がどの程度の裕福さを有する層なのか定義がなければ、中流階級に比して貧しいことが「貧困」なのか答えることはできない。
「貧困とはどのような状態をいうのか」という定義がない限り、何を解決すればよいのか問題設定を行うことができず、貧困問題の解決には繋がらない。
これは極当たり前のことである。
「貧困」の定義がないのに「貧困」を解決できるわけがない。
(将軍様!早く屏風から虎を出してください!ってなもんだ。)
「相対的貧困率」は「貧困」とほとんど関係がないから、「相対的貧困率」を基準にすることは誤りだ。
すると、
鳩山首相もこの数字について「大変ひどい数字だ。何でこんな日本にしてしまったとの思いの方も多いだろう」とコメントした
上記の首相の認識が実におかしいのかは明らかであろう。
誤った情報に基づいた判断は誤った結果を招く可能性が高い。
泥の上にどのように頑強なビルディングを建ても、残念ながら満足した結果は得られないのだ。
一方、批判者達の問題意識は「貧困撲滅」にある。
彼らは、「(彼らの考える)貧困状態に置かれた人々を放置する考え方」、また「格差」を批判しているのだ。
が、残念ながら池田氏は「格差」を肯定しても「貧困を放置してよい」などと一言もいっていない。
むしろ池田氏などのリバタリアンが述べるのは、目先の救済ではなく、長期的に最大限の救済だ。
(批判者達の本質的な問題意識は格差ではなく貧困にあるわけだから、貧困に対するお互いの立場が明確になると、この問題はわかりやすくなる。)
これがマクロ派vsミクロ派の違いである。
池田氏などのマクロ(全体最適)派は情緒的問題よりも論理的問題を重視するのに対し、ミクロ派は論理的問題よりも情緒的問題を重視する。
また、マクロ派はトレードオフを前提に全体最適解の導出を主張するのに対し、ミクロ派は個別的完全解を求め、一つでも例外が存在するとマクロ派の論理が破綻していると主張する。
マクロ派はミクロ派をトレードオフを理解できない人々と見なすし、ミクロ派はマクロ派を現場を知らない偏った原理に従う原理主義者と見なす。
視点が異なれば、当然そこから見える世界は異なってくるのだ。
私は、どちらがより正しいかを判断するつもりはない。
状況によっては、どちらも正しくなるからだ。
(目の前の人が苦しんでいればマクロよりもミクロを重視するし、日本経済を俯瞰すればミクロよりもマクロを重視する。人間としてバイアスを持つのは当然のことだ。)
実は、池田氏はこの点に関する問題意識を持っており、彼はよく「フレーム」という概念を用いて「経済的に正しくても政治的に正しくない問題」に対応すべきだと述べている。
つまるところ、マクロ派はミクロ派の情緒的問題に対して「物語」を用いて説明せよというのである。
お互いにお互いの無知さを責めるだけでは建設的な議論に至ることはない。
私は、この姿勢を支持したい。
※当Blogの下記エントリを参照
亀井金融相が浮き彫りにする「マクロvsミクロ」の構図
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/67d8a60006790b69fa7762872c8aaf29
マクロ重視派が変われば日本の政治は変わる
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/c85e179c4d1799d58790f0c78f295103
このような「マクロvsミクロ」の問題に終止符を打つために、我々は何ができるだろう。
マクロ派は先に述べたように様々な「フレーム」を作り出すことが有用だろう。
ミクロ派はどうだろうか。
私が思うに自分の意見に賛同する人々を募るとともに、その意見を社会的に表現することだ。
実はこれ(議会制)民主政治のあり方そのものである。
そう、これは三権分立の基本思想と合致する。(あくまでも個人的解釈)
全体最適を指向するマクロ派である「官僚(行政機関)」と、個別最適を指向するミクロ派である「政治家(立法機関)」、そしてその調整役である「裁判官(司法機関)」の3つの役割分担そのものである。
「マクロvsミクロ」の構図を2項対立的に炙り出したが、実はこの両者は矛盾していないのである。
民主政治とは、まさにこの2つが止揚されたものであり、民主政治にとって「マクロvsミクロ」は不可分にして不可欠なのである。
よって、どちらかだけを否定することは民主政治の否定であり、民主政治を肯定したいのなら、どちらも必要なのである。
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と、カッコよく言い切ったものの、結局どうすればいいのか曖昧なままなので、最後に貧困論争に対する個人的な意見を述べて締めとしよう。
よく考えて欲しい。
我々は相対的貧困率の割合を減少させることを政策目標にすべきなのだろうか。
相対的貧困率の低い社会というのは、一体どのような社会なのだろうか。
例えば、いわゆる一億総中流(平準)社会を目指すということか。
だとしても、そもそも一億層中流社会を目指すことは我々の幸福とどれだけの相関があるのだろうか。
またそれは近い将来において可能なのだろうか。
確かに、一見、全員が今日、明日を生きるのに苦労しないことを目標にするのは理念的には正しいように思えるが、しかし問題設定として正しいかどうかは別問題だ。
というのは、我々は未来に生きているのではなく、現在に生きている存在なので、我々が向き合うべき問題は目の前の現実にならざるを得ない。
もちろん、長期的な視点を持って、将来的な問題について取り組むことも重要だ。
しかし、我々には全てを予見する力もなければ、全てを解決する力も無い。
どうしても「できること」と「できないこと」があり、また「できること」のために他の「できること」を犠牲にしなければならない場面に出くわす。
この宇宙に存在する限り「トレードオフ」から逃れることはできない。
我々は一歩一歩踏みしめながら進むことしかできないのだ。(進化はスパイラルに進む)
だから、自分が総理大臣になった気持ちで考えよう。
何事も責任感を持って考えることは重要だ。
(なぜなら人は自分の問題として責任を感じて初めて問題に真剣に向き合えるから。)
あなたの力は強大だが有限だ。
「できること」も「できないこと」もある。
あなたは、まず何をするだろう。
私なら、第一に「貧困」の定義を明確にし、社会として許容する貧困率を決定する。
これには非常に勇気が必要だろう。
人を勝手に貧困と位置づけ自尊心を奪う可能性があるし、貧困と決めたからには放置することはできなくなるから、政治的責任が生じる。
「貧困層」という枠組みを社会に導入する重みについて、我々に準備があるのかも疑わしい。
(ある種の社会的自己否定を伴うからである。)
しかし、「貧困」を定義しなければ、何を解決すべきなのか明らかにはならないし、また「貧困」を定義する過程で、我々が目指すべき社会像も明らかにする必要性に迫られるだろう。
池田氏の主張である「相対的貧困率にはたいした意味が無い」は正論だ。
それよりも、政治は勇気を持って「貧困」を定義し、「貧困撲滅」に向けて政策目標を掲げるべきではないのか。